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奈良

石仏

 4月 
11月 紅葉

花こよみ

平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺の二世、孤雲懐奘(大和尚)が参学した。
平安時代に天台僧・増賀を迎えたことから、同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら、宗派の違う興福寺とは争いが絶えず、鎌倉時代から室町時代にかけてはたびたび領地などを巡り争論を繰り広げていた。

1585年(天正13)、豊臣秀吉により、郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。1590年(天正18)年に、帰山を許された。徳川家康により復興。近世の朱印領は3000石余である。
1869年(明治2)に僧徒が還俗。談山神社と改称された。

仏教伽藍は現代も談山神社境内に見ることができ、登拝者も後を絶たない。明治の廃仏毀釈の際に寺を廃し神社のみとなったが、建物は寺院建築をそのまま使用しているため、独特の雰囲気を残している。
談山神社から御破裂山への山道があり、その奥に藤原鎌足の墓所といわれる陵がある。談山神社から、少し歩いたところに藤原鎌足の次男、淡海公(藤原不比等)の墓といわれる石塔がある。


鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。
天武天皇9年(680年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。


                     由緒
 舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていた。
この時、鎌足公は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていた。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠の会があったとき、聡明な皇子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にま見えることが出来、西暦645年の5月、二人は藤の花の咲き乱れる多武峰(今の談山神社本殿裏山)に密かに登って、「大化の改新」の談合を行ったのである。後にこの山を"談(かたら)い山・談所ヶ森"と呼び、また神社の社号の起こりとなった。----
天智天皇8年(669)10月鎌足公の病重しと知った天皇は、みずから病床を見舞い、後日、大織冠(たいしょくかん)を授け内大臣に任じ、藤原の姓を賜った。藤原氏はここに始まるのである。---- その没後、長男の定慧(じょうえ)和尚は、留学中の唐の国より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立した。大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に到る。
                                           談山神社パンフレットより

1993年8月28日

御祭神 藤原鎌足

奈良県桜井市多武峰319

★地図

談山神社

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