境内の鶏 (ニワトリ)

神社 奈良 摂社

神階は850年(嘉祥3年)に正三位、859年(貞観元年)に従一位、868年(貞観9年)に正一位。延喜式神名帳には「大和国山辺郡石上坐布都御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。

中世以降は布留郷の鎮守となったが、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収された。
しかし、氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。

この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。
1874年の発掘を期に、出土した剣(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造。
1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。

古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。

また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。

社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。

その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。

天武天皇3年(674年)には忍壁親王を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、
移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。

石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社(現在は神社本庁の別表神社)。中世には二十二社の中七社のひとつとされた。

別名、石上振神宮石上坐布都御魂神社石上布都御魂神社石上布都大神社石上神社石上社布留社岩上大明神布留大明神、等。

付近で立教した、天理教の初期資料で、幕末 - 明治期に地元では『いわがみさん』と呼ばれていた事が判る。
伊和大神との関係は不明。

尚、『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば、日本最古設立の神宮となる。

 当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきた。

 御祭神は、神武天皇御東征の砌、国土平定に偉功をたてられた天剣(平国之剣)とその霊威を布都御魂大神、鎮魂の主体である天璽十種瑞宝の起死回生の霊力を布留御魂大神、素盞鳴尊が八岐大蛇を退治された天十握剣の霊威を布都斯魂大神と称え、総称して石上大神と仰ぎ、第十代崇神天皇七年に現地石上布留の高庭に祀られた。

 古典には「石上神宮」「石上振神宮」「石上坐布都御魂神社」等と記され、この地「石上社」「布留社」とも呼ばれていた。

いそのかみじんぐう

1999年9月5日

1999年6月2日

2002年11月24日

1999年9月5日

奈良県天理市布留町384

御祭神 -
 ●布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ) 
 ●布留御魂大神 (ふるのみたまのおおかみ)
 ●布都斯魂大神 (ふつしみたまのおおかみ)  
 
 

石上神宮

禁足地

2011年2月26日

摂社

境内の鶏 (ニワトリ)

山の辺の道
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