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光悦は、洛北鷹ヶ峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。元和元年(1615年)、光悦は、徳川家康から鷹ヶ峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。
王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。
光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。

俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。

刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれる。
父光二は、元々多賀高忠の次男片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心の婿養子となったが、後に光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。
光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったことと思われるが、手紙の中に刀剣に触れたものは殆どみられない。
今日ではむしろ「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す。

本阿弥 光悦
(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書道の光悦流の祖。

京都

花こよみ

花こよみ

2007年11月28日

大虚庵

了寂軒

光悦垣

寺院

江戸時代の芸術家である本阿弥光悦に元和元年(1615年)に徳川家康がこの地を与えた。
『本阿弥行状記』によれば、当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な土地であったという。
この地に光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住み芸術の集落となった。
光悦の死後に屋敷は寺となり、境内には光悦の墓碑がある。

宗派 日蓮宗
創建年 明暦2年(1656年)
京都市北区鷹峯光悦町29

光悦寺

寺院

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