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京都

                       伏見桃山城遺構血天井

慶長4年(1599年)3月13日、家康は伏見桃山城に入った。 その後家康は慶長5年(1600年)6月16日伏見城を出て会津へ向かった。
このとき伏見城本丸に鳥居彦左衛門元忠、二の丸松平主殿家忠、松ノ丸に内藤弥次右ェ門家長を留守居とした。

1600年7月18日、伏見城守護の元老のもとへ石田三成、増田長盛らが使者を立て、「伏見の城は太閤が築かれたもので徳川のものではない。早く城を出て大阪の秀頼へ忠をつくされては如何」と申し入れてきた。 家康が江戸に入ったのをみとどけると三成は罪状十三ヶ条(家康は太閤の遺言にそむき秀頼をみすて政務を独裁している)を並べ、諸方に奮起をうながしていた。
集まる兵力93,700余、家康をむかえうつ拠点として血祭りに伏見開城を迫ったのである。 鳥居彦左衛門元忠は「主君家康公は会津へ出発の折り、固く城を守るべしと言い残しておかれた。 どうして主君の命にそむけよう。 かくなる上は城を枕に討ち死にする以外にない」と拒絶した。
これを聞くや翌19日夕刻、三成に加担する兵40,000がひしひしと伏見城を包囲した。 城兵わずかに1,800人を数えるのみであった。
伏見城の攻略は10日余り続いた。 7月末の夜、ついに忍びの甲賀の者、内通し松の丸に火を放った。 これに勢を得た寄手がどっと乱入、内藤家長55才をもって戦死、松平家忠も45才を一期に散り、部下すべて切腹した。鳥居元忠戦い疲れて本丸玄関に腰をかけ息つくところへ雑賀孫市が死体を踏み越え肉薄、これをみた元忠は「われは総大将鳥居彦左衛門なり、首を取って功名にせよ」と叫び自ら腹をかききった。 ときに元忠62才。ともに討ち死にした部下380人といわれる。
 なお鳥居元忠の首は大阪京橋口にさらされたが、元忠と交わりのあった京の呉服商佐野四郎右衛門が「さらし首とはあまりにむごい」と夜半に盗み出し智恩寺の墓に葬ったと云われる。
 現在血の染った天井は討ち死した兵士の残せるもので床板を天井としたものである。 その血板は本堂全域の天井にわたるが数と処に於いて鮮明な足型、手型等の血跡があり当時の悲惨さを物語っている。

寺院

血天井

2007年11月10日

京都市北区鷹峯北鷹峯町47

源光庵

寺院

源光庵(げんこうあん)は、京都市北区鷹峯(たかがみね)にある曹洞宗の寺院。山号は鷹峰山。正式には鷹峰山寶樹林源光庵という。
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