慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は死に際して、子の豊臣秀頼を後継とし、その補佐後見を前田利家・徳川家康等いわゆる五大老や、浅野長政・石田三成等いわゆる五奉行などの有力大名・武将に託した。

秀吉亡き後の豊臣政権ではやがて、徳川家康を中心とする一派と、それを快く思わない一派との間で、主導権争いが激しくなった。
慶長5年(1600年)に行われた関ヶ原の戦いは、両派の勝敗を画した戦闘である。

関ヶ原の戦いで争った二派は、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍である。

東軍西軍とも、その多くは豊臣恩顧の武将であり、戦いの性格を家康は豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をとったことから、豊臣家は表向き静観の立場を取った。

この建前の採用により豊臣恩顧の大名を東軍方に引き入れる道義的な正当性を成立させ、かつ豊臣家臣の大名を弱体化させることに成功し、五大老制度を有名無実化させることに成功した。

関ヶ原古戦場跡

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★地図

石田三成陣地跡  決戦地  開戦地  徳川家康最後の陣跡(床几場)  島津義弘陣地跡  東首塚  西首塚

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