日本各地への旅

三保松原

●三保の松原伝説
 そのむかし、三保の松原の間をひとりの漁師が歩いていた。 中天高く光る太陽、遠く聞こえる潮騒、おだやかに辺りを包む微風の中、若い漁師はそこに得もいわれぬ妙なる香りを感じた。 その方へ顔を上げると、すぐ前の松の枝に衣のようなものが掛かっていた。
 近よって手にとって見ると実に柔らかくて軽い。 世の中にこれほど美しい布があるものなのかと、しばらく我を忘れて見とれていた漁師は、やがて肌触りと香りをいとおしむように、そっと抱きかかえて家に戻ろうとした。
 二、三歩歩んだ時、「もし・・・」と後ろから声をかけられた。 振り向くと、今しがた衣を掛けてあった松のかたわらに、ひとりの女がたたずんでいた。 その姿を人目見た瞬間、漁師は思わず息を呑んだ。
 神々しいまでに美しい女が、三保の海よりも澄んだ瞳で、じっとこちらを見つめているのだ。 とっさに漁師は、話に聞いた天女にちがいない、と思った。
 すると漁師の心がすぐわかるのか、「はい、わたくしは天界に住むものでございます。 この辺りのあまりの美しさに引かれて、降りてきたのでございます。 それは私の羽衣、どうぞお返しください。」と、はじらうような面持ちで頼んできた。
 玉の鈴をころがすような声に、漁師はうっとりと聞きほれていたが、手にした羽衣を見ると、まばゆいばかりに美しいから、とても返す気になれない。
 いや、いやとかぶりを横に振ると、天女は、羽衣がなくては天界に帰ることができません、どうぞお返しください、と必死になって頼み始める。 漁師はなおもこれほどの宝物をむざむざと返すわけにはいかないと言ったが、そのうちこれほど気高い天女を苦しめている自分が醜く感じられてきた。 そこで思い切って羽衣を天女に返してしまった。
 天女の喜びようはたとえようもなかったが、それではお礼にと「霓裳羽衣」(げいしょううい)の舞いを舞って見せてくれた。 陽光は柔らかく降り注いで、あたかも金粉を散らしているように感じられ、天のかなたからは妙なる舞楽が聞こえてくる。 その間、海はゆったりと打ち寄せて心地よい背景をつくりだした。
 漁師は目の前に繰り広げられる光景を、なにかこの世ならぬ美しさを感じつつ、静かに見守っていた。 やがて天女はいつとは知れず舞い上がって、羽衣をひるがえしつつ天へ昇っていった。
 ふと我にかえった漁師は、白昼夢を見ていたのかと、いぶかしく思ったが、あれはまさしく現前の出来事であった。 幻のように消えた美しさをしっかりと胸におさめたまま、漁師は静かに歩き去っていった。

静岡市清水区の三保半島にある景勝地。

2003年12月28日

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