日本各地方への旅

日本各地方への旅

屋久島  1984年12月5日〜9日

 1984年12月に一人で屋久島へ行く。 山尾三省の本「聖老人」に触発されて、縄文杉を是非とも見たくて、テントや山での生活道具一式は友人から借りて、屋久島の地図も持たず、一人で屋久島の森の中に入った。
 ちなみに私はそれまでにアウトドアのキャンプや山登りの経験は全くなかった。 ので、服装もまったくの普段着で靴も普通の運動靴で行った。
 当時はまだ、屋久島や縄文杉は一般には知れわたっておらず、今ほどひどく観光化されてはいなかった。だから情報もほとんどなく、山中でも誰にも会わず、まったくの一人旅だった。

 縄文杉までは一日で行くのはきつい。 無理して行っても片道10時間ほどかかる。
初日 (12月5日) は弥生杉などを経て白谷山荘に泊まる。 ここにはこの山荘の管理人夫婦が寝泊りしていた。

12月5日
弥生杉
12月6日
ウイルソン株
辻の岩屋
縄文杉
12月7日

縄文杉の側に設置したテント

12月8日

道に迷った日に設置したテント。ここがどこかは不明。

 縄文杉を抱きしめる。樹液の流れる脈動が感じられるようだった。 周辺で、何か調査をしている人の声が聞こえていたが、彼らに会うことはなかった。
近くに山小屋があったので覗いてみたら、だふん彼らの荷物であろうものが置かれてあった。
 ここでテントを張り宿泊する。夜が長いのを実感する。
確かに一日の半分は夜である。
遠くで鳥の鳴き声がこだましている。
たった一人で真っ暗な森の中にいる。
何もすることがない。
心細さ、孤独感に襲われる。 

この枝ぶりも現在は見ることはできない。
12月7日 、無計画に宮之浦岳に行こうと思いつく。
宮之浦岳は九州一高い山で、そんな山が屋久島にある。 
ただ、山道の道案内板と、人の踏み跡だけを頼りに進んで行ったため、当然道に迷う。宮之浦岳にはたどり着けず、天候も崩れて雨の中、丸一日、屋久島の森の中を徘徊する。
 ・・・屋久島では遭難者がけっこう多いことを後で知る・・・
 12月8日、道無き道を歩き続けて、ようやく深い森から一本の道を見つける。車の通ったタイヤの跡がある。その道をひたすら2時間ほど歩き続けた。ようやく民家が見え始め、人気を感じて安堵する。 
 一軒の民宿を見つけ、そこに泊まった。身体は長く雨に打たれていたので冷え切っていた。民宿の主人に無理を言ってコタツを用意してもらった。
 自分が森から戻ってきたということが他の客にも知れわたり、見知らぬ人から大きなミカンを数個いただいた。 とても嬉しかった。
 12月9日、雨降る中、フェリーで鹿児島市内へ戻る。
フェリーから眺めた屋久島は上半分がすっぽりと雨雲に覆われていた。
 12月6日
 ウイルソン株に到着。内部は空洞になっていて入ることができる。畳12帖ほどの広さで清水が湧いている。

 1586年(天正14年)、牧村の五郎七が足場を組み、豊臣秀吉の命令により大坂城築城(京都の方広寺建立とも)の為に切られたといわれる。 胸高周囲13.8m。
 ハーバード大学樹木園のための収集に、日本を訪れたアメリカの植物学者アーネスト・ヘンリー・ウィルソン (Ernest Henry Wilson) 博士により調査され、ソメイヨシノなど多くの桜などの収集とともに1914年に西洋文化圏に紹介され、後年この株の名前の由来となった。
 縄文杉発見(1966年)の52年前の調査である。

この写真は、当時所持していたカメラでは一枚に全体が収められないので上下部分を二枚に分けて撮影し、後で貼り付けたもの。

縄文杉に到着する。
 現在は観光用の立ち台が作られていて、根元へは立ち入り禁止となっている。
 当時は観光客はほとんどいないので、そんな台もなく、縄文杉の根元まで行くことができた。
 この当時の縄文杉の樹齢は7200年と言われていた。
 その後の調査で、7200年という説は否定されているが、はっきりした定説はまだ出ていないようで、
それでも少なくとも2000年以上は経っているらしい。
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