拝殿
楼門
昭和6年に発行された「阿蘇の歴史」という小冊子によれば、古代の阿蘇神社は宏大であり、神殿が三度変わったという。初めは十三殿であったが、後に七殿に縮小され、近世に至ってわずか三殿になったという。
十三殿制は建武年間(1334-1337)以前とし、七殿制は室町時代(1440-1540)として、現在の三殿は天保14年(1843)にでき、拝殿は文政2年(1819)、楼門は嘉永2年(1849)にできたという。
現在の品字形の神殿の奥の一宇は諸神社として、延喜式内社3132座の全国の神々を祭るとし、左右の二殿のうち左の一棟が男神五柱、右の一棟が女神五柱を祭る。そして、左右の土壇がハヤミカタマの命および綏靖天皇陵の遺址としている。ただし、命と天皇の神殿がないので、奥の諸神社に相殿として合祀してあるという。
孝霊天皇9年6月、健磐龍命の子で、初代阿蘇国造に任じられた国造速瓶玉命(阿蘇都比古命)が、両親を祀ったのに始まると伝えられる。阿蘇神社大宮司を世襲しこの地方の一大勢力となっていた阿蘇氏は、速瓶玉命の子孫と称している。延喜式神名帳には、一宮が「肥後國阿蘇郡健磐龍命神社」と記載され名神大社に列し、二宮が「肥後國阿蘇郡 阿蘇比盗_社」と記載され小社に列している。
肥後国一宮とされて崇敬を受け、広大な社領を有していたが、豊臣秀吉の九州征伐の際に社領を没収された。その後、改めて天正15年に300町の社地が寄進され、さらに、領主となった加藤清正、肥後藩主として入国した細川氏によって社領の寄進、社殿の造修が行われた。明治4年に国幣中社に列し、明治23年に官幣中社、大正3年に官幣大社に昇格した。
主祭神 健磐竜命(たけいわたつのみこと)
1998年9月12日
熊本県阿蘇市一の宮町宮地
阿蘇神社