下岡 蓮杖(しもおか れんじょう、文政6年2月12日(1823年3月24日) - 大正3年(1914年)3月3日)は、日本の写真家(写真師)、写真技術者、画家。「蓮杖」は号で、通称・久之助。桜田家に生まれ、のちに下岡家を継いだ。

 伊豆国下田(現・静岡県下田市)に桜田惣右衛門の三男として生まれる。幼いときから絵を好んだ。13歳で江戸に出て、狩野菫川の門に入り、菫園、菫古と号して、のちに全楽堂あるいは伝神楼とも号した。

 ある日、オランダ船のもたらした銀板写真を見てその霊妙なる技に驚嘆し、以来、写真術を学ぼうと決心した。そのためには外国人と近づくのが近道であると、数回にわたって浦賀に来たアメリカ、ロシアの船舶の外国人に接したけれども、目的を達することができず、横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから写真撮影の形式を学んだが、それでも薬品の名前を知ることができなかった。その後、アメリカ人写真師ウンシン(ジョン・ウィルソン)と交わり、ウンシンの写真機と蓮杖の絵とを交換し、以来、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究に没頭した。

 文久2年(1862年)、ついに40歳で横浜弁天通に写真館をひらいた。これが関東における営業写真館の最初であるとされる。当初は日本人は写真を撮影すると寿命が縮まると称してこれを嫌い、写客はいずれも外国人であったが、迷信は次第に消え、店舗は次第に栄えた。

 門下からは、横山松三郎、鈴木真一、江崎礼二など、日本写真史に名を残す著名な写真師が輩出した。
蓮杖はまた勤王の志が厚く、箱館戦争、台湾戦争などの絵画を描き、画家として国家に奉仕するところが大きく、作品は九段遊就館に納められた。また、日本における石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車営業の開祖であるとされる。
明治15年(1882年)、浅草公園第五区に写真館を移したが、その後幾許もなく写真業を廃し、キリスト教に入信、信仰生活に入り、画筆を楽しみつつ余生を送った。

伊豆下田

下岡蓮杖

幕末維新史

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