☆西南戦争エピソード

                                  
 
◎熊本:木葉
2月23日、薩軍200余名、上木葉村字古閑平、字松ノ木、二俣村字藤尾林ノ小路に軍を配す。
  25日、薩軍木葉町に出兵して陣を張り、炊出場を設ける。
3月 1日、薩軍700余名が大砲四門をひいて木葉町に入り陣を張る。
     木葉字高月、稲佐村の字松ヶ平に出兵、字黒石・字宮之下・字切畑に大砲の台場を築く。
原倉村字立岩に陣を張る薩軍は、上白木村を脅迫して、米5俵の握飯を出させ、また人足30人を使って、近傍に台場を築いた
     五か村(二俣村、原倉村、木葉村、山口村、稲佐村)での焼失家屋は138戸、家を失った人637人。 < P271 >
3月 1日、木葉、田原付近の戦闘で、開戦の当初は官軍も戦死者が少なかったので、木葉の正念寺境内に埋葬していたが
 日を追うごとに戦死者は増え、正念寺境内は既に埋葬地もなく、そこで高月原(正念寺西方300mの地)に埋葬地を設けた。
                                           
                                  
☆住めない木葉町
     木葉町には、県出張所が設けられ、軍団本営が置かれ、病院があり、全く基地の町になった。
     軍隊が駐屯するのはもちろん、他の地方からの軍夫も多く滞在していた。住民は基地の町に止まることはできなかった。
     住民は避難し、安全を求め、縁を頼って疎界した。               
     疎界で空家になったところに、盗人が入って家財を分捕ることが起こっているが木葉町では、家財どころか、
     戸板・障子から根太までが取り荒らされていた。 木葉町では60%近くが破壊されいてた。

                               
★薩軍死屍の埋葬

 ... 死体は各所に散在して埋められており、かつ急場の埋葬だったこともあり、死体が露出し、臭気を発するような事態が各所に起こった。四小区の山北各村(二俣村、上白木村、西安寺村、原倉村)は、各地に露出したりしている薩軍死屍の埋葬のやりなおしを行なった。四か村で104体の死体が処理されている。埋設個所は14ヶ所に散らばっているが、二俣村の字横平に44体、原倉村の字大谷山口官林の中の21体が、協同埋葬としては大きいほう。 このときの埋葬修繕はそれぞれの所で深く埋葬して、容易に露出しないようにした。                                                                          < 玉東町史 >
死臭に加えて、種々のものが腐敗し異臭を放つ、水もまた汚染される。この西南戦争の際中からコレラが大流行しはじめた。明治12年のとき最悪の事態になる。処置としては隔離する以外に手はなかった。
                                                     
                                  
★犠牲者
 木葉・山北地域での最初の犠牲者は上木葉村の田尻丈太郎。2月22日からこの上木葉村・木葉町に陣取った官軍に、翌日薩軍が襲いかかった。丈太郎の村は戦場となった。彼は便所にとびこんで砲声の遠のくのを待った。しかし、その便所に弾丸が飛び込んできた。丈太郎は頭を直撃されて即死した。             

                                  
◎田原坂方面
 両軍とも、わらじを用いるのでわらじ一足が二銭五厘を要し、米価は一石七円乃至八円、軍夫の賃金は一昼夜一円、女子は四十銭、人力車は二人輓で一日三円を給していた。兵隊の夜食は、初めニギリ飯を用いたが、間に合わぬため後では餅を携帯せしめた。玉名の炊事場で毎日、十二石の「もち」を作った。   < 田原坂の戦い P26 -田原坂資料館(植木町)>

                                  
●田原坂の戦
★境木のにぎわい
 田原坂の登り口で便利なので、官軍の炊き出し場が設けられ、毎日夫方の握り飯運びで騒がしかった。
                                  < 境木、今村みつ子談 地元住民の話 - 目録田原坂戦記 >

                                  
★死体に小便
  薩軍の死体は戦が終ってもあちこちに散在していたが、官軍はその死体に向って小便をかけていたので、
付近は臭くて仕方なかった。薩軍の戦死者は権現山の麓の新地の無縁墓地に埋葬していた。  < 付近住民の話 >

                                  
★戦場にひさぐ
  住民は近頃戦争に見慣れてきたので、恐怖心も薄れ、普段の日々の如く、餅あるいは酒、魚、菓子を持っては
戦場で売りさばく者が多い。弾丸が飛んでくる時は、身を潜めて、少しずつ進んで戦闘線に近づいた。 < 従征日記 >

                                  

★平均180名死傷...死傷者は一日平均170〜180名に至る。負傷者に対しての十分な治療処置はなく、ただ出血を止め、弾丸を抜き、傷口を縫合し、骨折した所に副木を施すだけだった。薬は甘硝石精、焼酎の二品に過ぎない。  < 従征日記 >

                                  
★山井戸の死体
 横平山の一角に小さな井戸がある。横平山の薩軍にとって、この山井戸は唯一の飲料水源であった。ある朝(16日)、この山井戸のそばに多数の薩軍将兵の死体が、折り重なるようにして横たわっているのが発見された。銃弾や刀で傷つき、おびただしい出血のあと、水を欲しがり耐え切れなくなり、兵はいざなりながら、あるいは這いながら、苦しい息を吐きつつ、この井戸までたどりつき、ついに力つきて倒れてしまったに違いない。 < 地元住人の話 >

                                  
★蓑笠は弾よけにならぬ
 銃丸よけに蓑笠を身につけて、銃丸拾いに田畑山林を徘徊中。流れ弾にあたって、畑の畦畔に倒れ、走り寄った仲間に「蓑笠は雨よけになっても、銃丸よけにはならんもんばい」と嘆いて、息絶えた。 < 田原坂近在の一農夫の話 >

                                  
★賊屍積累
 3月20日、初め予は、今朝のu報を聞き、直ちに戦地に赴き、之を験するに、我が砲塁の相接近するや、極めて甚しく、僅かに10メートル間許なるあり。(略)無数の賊屍、土塁の前後に枕籍して幣たり又我が兵の屍体、数十名見る。賊は大抵、銃創を負う。間々或は刀創を受けたる者あり。
(略)吾曹、此の賊屍の積累せるを見て、少しく積日の憤を慰せり。就中、破裂弾に当る者は・・・、五体飛散、僅かに両脚若しくは、片肢を餘す者あり。或は頭顱半ば、爛砕し、脳漿を流し、西瓜の塾欄したるに似たり。或は腹を貫きて、大小腹臓の潰えたる者あり。或は筋骨の破れ裂き、其形況獣肉舗頭に類似し、筆紙に能く尽す可きに非ざるなり。予は初め之を望みて、幽魂、演戯場の仮想を為し、人間現世の意思を為さず。僅か一町の溝測にして、横屍78〜79有る在り・・・。        < 従征日記 >

                                  
★夫婦喧嘩の末に
 三ノ岳、山麓の農家の女房、平常からの元気者、初め薩軍の使役に従っていた。田原坂陥落後は薩軍に付き、ある夜夫婦喧嘩の末に家を飛び出し山中を徘徊中、出会った賊に犯されて殺された。< 付近住民の話 >

                                  
★剛勇巡査
  巡査に剛勇なる者あり、是の日(4月6日)賊中に斬入して重傷を負えりと。其形鼻梁骨の半より上顎を銃丸の為に打離れ、
僅かに下顎を在するのみ。故を以て説話を為すこと能ずといえども、手能く血刀を提げ、自ら小繃帯所に歩み来れり。
見る者皆、驚かざる者は無し、頃くありて死亡せりと。              < 従征日記 >

                                  
★大金を出す兵隊
 薩軍が入って来た時、縁家を頼って移った人もあった。弾が飛んで来るようになると、西の林の凹地や箪笥や畳を玉受けにして避難した。政府軍の夫方が入って来て、竹箒に火をつけて家毎に火を放ったが、三戸は残った。手打ちソバを売り歩く者もあった。売春婦も居た。「どうせ明日のわからぬ命だ。取っとけ」と大金を差出す兵隊もいた。
                                     < 一木、付近住民の話/高木茂談 「植木町史」 >


                                  


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