西郷隆盛

月照

日本各地方への旅

1827-1877

西郷隆盛の最期 ・・・・ 薩南血涙史 第13編 第1章-鹿児島方面 第8節-城山の陥落 P832 より

1877年9月24日
 
午前3時55分、官軍攻撃の号砲三発響くと、各旅団一時に攻撃を開始する。 ..時に西郷、桐野、村田、池上、別府、辺見、桂たちをはじめとし、四十余名の将士、洞前に整列し、岩崎口に向って進行する。国分寿介は勢いがそこまで迫っているのを見て、慨然と剣に伏して自刃する。桐野はこれを見て言う。「何をまた急いでいるのじゃ。」と。
 桐野たちはすでに岩崎口に進み、西郷は桂、別府、辺見たちと共に進み、四方の弾丸急散のごとく、桂四郎たちまち流れ弾に当って倒れる。他にも弾丸に倒れる者相次ぐ。

 別府、辺見は西郷の前後に従い、辺見は勢いが急なるを見て西郷に言う「もやや此処にて最後といたそう(可ならん)。」と 西郷言うに「まだ、まだ。本道に出て従容として死ぬるのみ。」また行くこと丁余四面より集注せる弾雨ますます加わる。 辺見また西郷に迫って言うに西郷答える「まだ、まだ。」
 ついに進みて島津応吉邸の門前に至る。山上の流弾が西郷の肩より股を貫く。 西郷は別府を顧みて言う「晋どん、晋どん、最早この辺でよかろう。」と、西郷徐ろに跪坐(ひざまづいてすわり)し、厳然と襟を正して遥か東方の空を拝する。この時別府は、いまだ負傷中であるため従卒をして輿を担わしめ従いつつあったが、この言葉を聞いて言う。「然る乎(そうですか)」と、ただちに輿を降りて西郷に向って言う。「我が罪を恕せよ。(許したもんせ)」と、起ち上がってその首を斬り、西郷の従僕吉左衛門に、密かにその首を折田邸と大迫邸の間の竹薮の中に埋めしめ、進みて岩崎口の堡塁に達し、叫んで言う「先生は既に死にました!」

     西郷隆盛年表

1827年 ( 1)  12月7日、鹿児島県下加治屋町で生まれる。幼名小吉。
1833年 ( 7)  松本覚兵衛について儒学を学ぶ。
1839年 (13)  造士館からの帰途友人と喧嘩して、右肘に重傷を負う。武術の修練が不可能になる。
1843年 (17)   弟信吾(従道)誕生
1844年 (18)  郡方書役助となり、郡方奉行迫田利済の配下に所属
1848年 (24)  3月前年の薩摩藩内部の権力闘争であるお由良騒動に連座して、物頭赤山靭負自刃。
          血染めの肌着を贈られる。  弟小兵衛誕生
1851年 (25)  伊藤茂右衛門から陽明学を学び、無参禅師について禅を修行。
1852年 (26)  伊集院兼寛の妹俊子と結婚。
1854年 (28)  島津斉彬に見出され庭方に昇進。 藤田東湖と知り合い親交が始まる。 俊子と離婚。
1855年 (29)  藤田東湖、安政の大地震で死亡。 斉彬の命を受け一橋慶喜将軍擁立工作に奔走。
1858年 (32)  将軍継嗣問題について政治工作に没頭。 7月16日、斉彬急死。 24日、大坂で斉彬の死を知る。
          帰国して殉死しようとするが、僧月照に止められ斉彬の遺志を継ぐことを決意。
          橋本左内らと幕政改革運動に奔走。
          9月24日、幕府に追われる月照を保護して有村俊斎と共に大坂を出発。鹿児島に向かう。
          10月16日、錦江湾大崎ノ鼻沖で月照と共に入水。月照は死亡、西郷だけ蘇生。
          12月28日、菊池源吾と改名し、奄美大島に潜伏を命ぜられる。
1859年 (33)  2月、奄美大島着。 11月、龍一族の佐栄志の娘 愛加那 を迎えて愛妾とする。
1860年 (34)  4月、桜田門外の変
1861年 (35)  1月2日、愛加那、菊次郎を出産。
          11月20日、帰藩の命令が届き、大島三右衛門と改名。
1862年 (36)  2月12日、鹿児島到着。15日、久光の上京に反対する。
          22日、下関で京都の形勢を聞き、久光の待機命令に背いて大坂に向かう。
          4月処罰命令が下り鹿児島へ護送。6月徳之島への流罪決定。10日徳之島着。
          8月26日、沖永良部島遠島処分の命令が届く。大島吉之助と改名。西郷家の禄高14石と家財没収。
          ただちに沖永良部島へ護送され、和泊村で入牢。過酷な待遇のため健康を害し瀕死の状態にまでなる。
1863年 (37)  島の子供たちのために塾を開く。川口雪蓬と知り合い、詩作と書の指導を受ける。
          7月、薩英戦争
1864年 (38)  2月、村田新八を伴って鹿児島に帰る。
          7月19日、禁門の変で薩摩藩兵を指揮して長州軍と戦い負傷。
          8月中旬、京都で坂本龍馬と面会。 9月11日、大坂で勝海舟と会見。
1865年 (39)  1月28日、糸子と再婚。
1866年 (40)  1月20日、薩長同盟成立。
1867年 (41)  10月14日、薩摩藩に討幕の密勅下る。
          12月9日、大政復古の大号令
1868年(明治元年) (42)  3月14日、勝海舟と会見。江戸城総攻撃の中止。
1869年 (43)  鹿児島日当山温泉で休養。藩の役職を辞任。
1871年 (45)  7月14日、廃藩置県
          11月10日、岩倉、大久保、木戸ら海外へ出発し、その留守政府を預かる。
1872年 (46)  7月20日、参議兼陸軍元帥兼近衛郡督になる。
1873年 (47)  5月10日、陸軍大将兼参議になる。
          10月、征韓論で対立。参議、陸軍大将、近衛郡督の辞表提出。
          11月、鹿児島に帰る。郊外の武村に住む。
1874年 (48)  2月、佐賀の乱
          6月、私学校設立。
1875年 (49)  4月、吉野開墾社を設立。
          11月、大山綱良と協力して鹿児島県政の改革を断行。鹿児島は事実上西郷王国と化す。
1876年 (50)  11月、萩の乱、神風連の乱。
1877年 (51)  1月29日、私学校生徒、政府保管の弾薬庫、火薬製造所を襲い弾薬を略奪。
          2月17日、政府を尋問するため鹿児島を発つ。
           ---- 西南戦争 ----
          9月24日、鹿児島城山の岩崎谷で負傷し、別府晋介の介錯で自刃。

上野公園の西郷像の原形 (木像・高村光雲作)
戦災で消失し現在は残っていない。

    キヨソネ画
顔の上半分は弟の従道を、下半分は従兄弟の大山 巌の顔を似せて描いた想像図

2004年8月28日

★地図

1827年12月7日誕生 (鹿児島市下加治屋町)

★誕生之地

佐藤 均画

1877年9月24日 享年51歳

2004年8月28日

安藤照作 (昭和10年)

高村光雲作 (明治30年)

西郷隆盛の墓 (鹿児島市南州墓地)

城山古写真

1858年井伊直弼の安政の大獄によって追われる身となった月照は、公家の近衛忠熙が西郷に依頼して鹿児島に逃れた。しかし斉彬亡き後の藩庁は月照を日向追放と決め、絶望した西郷は月照と相抱いて冬の海に身を投じた。月照は死んだが西郷は奇跡的に蘇生した。
一人生き残った西郷は自らを「土中の死骨」と呼び、生涯恥とした。

★地図

2000年12月29日

西郷小兵衛

弟 ・ 西郷従道

愛加那との間の子
西南戦争で片足を失う
後、京都市長になる

菊次郎

愛加那

妻・糸子

★地図

城山洞窟

私学校跡

明治元年3月14日、江戸の薩摩屋敷で西郷と勝が会見、江戸城無血開城が実現する。

2003年12月20日

★地図

西郷隆盛・勝海舟会見之地 (東京田町)

2004年8月28日

★地図

西郷隆盛蘇生の家 (鹿児島市花倉)

これらの肖像画は全て西郷の死後に描かれた想像図。

庄内藩士:石川静正画

右の絵を修正したもの
最も実物に近いと言われている

鹿児島市の西郷隆盛像 (2000年12月29日)

東京上野公園の西郷隆盛像 (2003年12月20日)

除幕式の時、未亡人の糸子夫人がこの像を見て「うちの人はこげな人じゃなか。」と言って周囲を当惑させる。

★地図

★終焉之地

関連人物

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