2004年8月15日

太平洋戦争の空襲で焼けた鹿児島市立教育参考館に所蔵されていた西郷小兵衛の写真。

弘化4年(1847年)、薩摩国鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場に生まれる。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争に参加。八幡の戦いが初陣、のちに一番隊となって、江戸に進軍。その後、陸奥白河に進み、東北での諸戦でも参戦。明治2年(1869年)2月29日、分隊長になる。

のち加世田郷(現在の南さつま市)副戸長に就任。明治10年(1877年)、西南戦争に参加して薩軍第一大隊第一小隊長を務める。同年2月27日、肥後国高瀬河南(現在の熊本県玉名市)の戦いにて官軍の銃弾を受けて戦死した。享年31。

弘化4年10月11日(1847年11月18日) - 明治10年(1877年)2月27日)

地図

(熊本県玉名市繁根木)

西郷小兵衛 -- 西郷隆盛の末弟で人格沈重にして思慮深い人物であったという。
総大将の実弟であるという自覚のもと率先して戦い、1877年2月27日この川畔で官軍の銃弾を左胸部に受け、31才の若さで壮烈なる戦死を遂げる。
古老の話によると、兄の隆盛自ら菊池川の下流を渡り、遺体を連れ帰ったともいわれている。

薩軍第一大隊第一小隊長

西郷小兵衛戦死の地

西郷小兵衛

   薩南血涙史

★ 第3編 第5章 高瀬方面 第4節:高瀬の戦3 <P165> 2月27日 

 村田新八の統帯せる左翼部隊は高瀬に近づくに及び、更に分かれて二団と為り、第一団たる三箇小隊坂本申太郎の一番大隊四番小隊、相良長良の同上五番小隊、森岡長左衛門の同上七番小隊は先鋒として本街道の左側路を進み第二団たる二箇小隊西郷小兵衛の一番大隊一番小隊浅江直之進の同上二番小隊は後軍として更にその左側路を進めり。
 ・・・・・

 <P167> 西郷、浅江のニ隊すなわち左回流に沿って下り、大濱津を渉りて前岸に上り、多少の敵哨を駆逐しつつ敵営の背向を衝き、更に進んで観音丘の形勝を占め以って退路を断たんと定要す。
官軍殊死してこれを遮り、更に加えるに第一旅団の数隊(歩兵第一連隊第三大隊の一部)を以ってし、また野砲一門を玉名の後丘に架し以ってしきりに薩軍を射る。
薩軍屈せず吶喊躍進しとの勢い宛も驚ヒョウ地を掃うが如し。官軍遂に支える能はず、火を永徳寺、繁根木の村落に放ち、高瀬街道及び葛原を望んで潰へ走るこの戦薩将西郷小兵衛自ら身を陣頭に立て手旗を揮って縦横點撥(さしず)し、遂に敵弾を受けて斃(たおれ)る。(左胸部を貫かる)
この人沈勇にて膽略(たんりゃく)あり、またすこぶる兵を用いるに長ず。全軍痛惜せざるなし。
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