行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」といわれただけだと思いこんだ。「わき」といったところで、行列はほぼ道幅いっぱいにひろがっているので、結局4人は、どんどん行列の中を逆行して進んだ。
鉄砲隊もつっきり、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、さすがに、どうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬して敬意を表するという発想はなく、今度は「引き返せ」といわれたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。
そのとき、数人の藩士が抜刀し、斬りかかった。4人は驚いて逃げようとしたが、すでに遅かった。リチャードソンは、肩から腹へ斬りさげられ、臓腑が出るほどの重傷で、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、追いかけてきた藩士にとどめを刺された。

マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に、「あなたを助けることができないから、ただ馬をとばして逃げなさい」と叫んだ。夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部がとばされただけで、無傷だった。マーシャルとクラークは、血を流しながらも馬をとばし、神奈川のアメリカ領事館(本覚寺)へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった。無傷のボロデール夫人が、まっさきに横浜の居留地へ駆け戻り、救援を訴えた。

『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で、久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりで止めをさしたのは、海江田信義であったという。
なお、当時近習番だった松方正義の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱したという。つまり、いつでも自ら刀が抜けるよう準備をしたのである。

文久2年(1862年)、薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、幕政改革を志し、700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いていたが、ほぼ目的を達し、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原衛門督の一行より一日早く、8月21日に江戸を出発したが、率いた軍勢は400人あまりであったと『薩藩海軍史』は記している。400人とはいうものの、これは正規の藩士の数であり、荷物を運ぶなど下働きの人数は別で、しかも武器弾薬を多量に携えての大規模な行列だった。

行列が生麦村に差し掛かった折り、騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で、香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいた。

地図

明治16年、鶴見の人、黒川荘三が中村敬宇の撰文を得てイギリス商人リチャードソン落命の地に、遭難の碑を私費で建立したもの

2003年12月21日

生麦事件の碑

文久2年(1862年)8月21日午後2時頃、江戸から京に向かう薩摩藩島津久光の行列約400名がこの生麦村にさしかかったころ、イギリス人商人リチャードソンと妻のポロデール夫人、他2人がその行列に出会い、リチャードソンが行列の邪魔をしたとかの理由で薩摩藩士奈良原喜左衛門に斬られて死亡する。他の2人も重傷を負う。

横浜市鶴見区生麦

現在の事件現場

生麦事件

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