島原大門
 当時、四周は堀と堀で囲まれ、門はその東辺北寄りに設けられていた。 その後、享保17年(1732)には西辺にも門が設けられた。 
東辺北寄りの門は、明和3年(1766)道筋(どうすじ)と呼ばれていた道の東端である現在地に付け替えられた。
 東辺の門は、享保14年(1729)には冠木門であったと考えられ、その後堀重門、さらに腕木門へと変更された。嘉永7年(1854)8月の大火では、島原の東側は大半が類焼しており、このとき門も焼失したと考えられる。大火後、門は再建されたが、慶応3年(1867)5月には再び建て替えられた。これが現在の門である。
 この大門は、本柱上の屋根のほかに後方の控柱上にも小屋根をのせた高麗門で、前には「出口の柳」が植えられ、「さらば垣」がめぐらされて今日も当時の趣を伝えており、島原の由緒を伝える地域の文化財として貴重である。

西門跡地

2004年9月12日

2001年2月11日

島原の入口は当初東の大門のみであったが享保17年(1732)に西側中央部に西門が設けられた。それは両側に門柱を建てただけの簡略なものであったが天保13年(1742)に現在地に移され、構えも冠木門に切妻屋根、さらに控柱に小屋根を設ける高麗門型となった。
 近年まで島原の西門として偉観を伝えていたが昭和52年(1977)11月、輪禍によって全壊した。 3年後に門柱のみが復元されたが平成10年(1998)4月、再度の輪禍に見舞われた。

島原大門

下京区花屋町通大門西入上之町


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京都  

京都幕末維新史跡

 豊臣秀吉が京都を再興するにあたり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これがのちに六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。 その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641年)市街地の西にあたる当時の朱雀野に移った。 正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動がときあたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。
 島原の遊女の最高位である太夫の名称は、慶長年間四条河原で六条三筋町の遊女が女歌舞伎を催したときすぐれた遊女「太夫」と呼んだことからはじまるとされている。 太夫道中は置屋から揚屋へ内八文字を踏んで練り歩く様子をいう。
 また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧については島原俳壇が形成される程活況を呈していた。
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