坂本龍馬  京都幕末維新史跡 
中岡慎太郎寓居跡

菊屋峰吉

京都幕末維新史跡

坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地
当初石碑を建てようとした場所が喫茶店の建設予定地で、店主から縁起が悪いとの苦情があり、そこより北側の現在の場所に建てられる

近江屋 - 坂本龍馬暗殺現場古写真

 慶応3年(1867)11月15日事件当日の10日ほど前に、龍馬は福井から京に戻り河原町通りの近江屋新助方に移る。彼を狙う幕史の目からのがれるため近江屋の奥の土蔵に寝起きし、万一の場合の逃亡経路も確保していた。
14日頃から龍馬は風邪気味で、何かと不自由なため、土蔵の密室から母屋の二階へ移る。15日に中岡慎太郎が訪ねてくる。
龍馬は腹が減ったので峰吉をシャモを買いに行かせる。
 峰吉が出かけた後、表に来客の声がしたので下僕の藤吉が対応するとそこにいた武士が「十津川郷士だが才谷先生(龍馬の偽名)にお目にかかりたい」と名刺を渡した。十津川郷士と聞いて気を許した藤吉は取り次ぐため階段を登りかけた。それを見て龍馬が居ると察した刺客たちは、藤吉を背後から襲い、さらに奥から二つ目の八畳間で火鉢を囲んで話し合っていた龍馬と慎太郎に殺到して滅多斬りにした。
 刺客たちが去った後、一時意識を取り戻した龍馬は、気丈にも刀を行燈の光でたしかめたものの脳漿が流れ出るほどの深傷で、まもなく絶命、裏の物干しまで這いながら身体をのり出し救助を求めたところで力尽きた慎太郎も出血多量で翌々日の夕刻息をひきとった。
 シャモを買って戻ってきた峰吉は現場の惨状を発見し、土佐藩邸に連絡した。かけつけた土佐藩士たちに慎太郎は苦しい息の下から、遭難当時の模様を伝えた。

京都市左京区河原町蛸薬師下ル 京阪交通社前

2001年2月3日

慶応3年(1867)11月15日(旧暦)、坂本龍馬と中岡慎太郎が、ここにあった近江屋の2階奥の間で暗殺された。龍馬33歳、慎太郎30歳だった。この日は龍馬の誕生日でもあった。

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