司馬遼太郎 「翔ぶが如く」田原坂 より
吉次峠における3月4日の戦闘というのは、敵味方の拠点が犬の歯牙のように不揃いに噛み合わされ、小部隊ごとに互いに肉薄し、たがいに顔のみえる近距離で射撃をし、白刃で激突した。 ・・・・(中略)・・・・ 篠原は先頭に立った。
例によって、銀装の太刀を帯び、緋色のマントをひるがえし、銃をにぎっている。 遠望する誰の目にもひとめでそれが篠原少尉であることがわかった。 篠原は弾雨の中で低い姿勢もとらず、むしろさきがけする自分を全軍に目立たせることによって士気をふるい立たせようとした。
薩兵は、そういう篠原が、薩摩隼人の鑑をみるようで堪らなく好きであった。
「篠原どんに遅るるな」
と口々にいって揉みあいつつ前へすすんだ。
こういう篠原国幹に対し、石橋清八という小隊長が、口やかましく諌めた。
後方にさがってもらいたい、あなたにもしものことがあれば士気にかかわる、と言いつづけた。 ・・・(中略)・・・
篠原はこういう石橋がうるさくて、ついにふりむいて静かに、
「俺(おい)は戦(ゆっさ)をしにきたんじゃ。そげん危なかち言うとなら(危ないというなら)、汝(わい)くさ(こそ)国ィもどれ。」
といった。 細雨がふっている。帽子のひさしの下の篠原の黒い顔が濡れている。 故郷(くに)へ帰れというのは相当な罵倒といってよく、石橋もだまらざるをえなかった。 この言葉が、なみはずれて無口な篠原の最後のことばになった。
政府軍の少佐で江田というのがいた。江田は家屋のかげにいたがやがて前方の道路上で兵を指揮している篠原を見た。 江田は篠原が近衛司令長官だったころの一中隊長で、当然ながらその顔をよく覚えていた。
かれは射撃の上手な兵をよび、前方の篠原を指さし、
「あの外套の人を討て」
といった。
兵は息を殺して照準し、やがて発射した。
篠原は、一発で倒れた。即死だった。
2001年4月30日
薩摩国鹿児島城下平之馬場町中小路で篠原善兵衛の子として生まれる。諱(名)は国幹、通称は藤十郎、冬一郎という。
少年時代に藩校・造士館に入って和漢学を修め、ついで藩校の句読師となり、長じてからも和漢の典籍を読むことを好んだ。剣術ははじめ薬丸兼義に薬丸自顕流を、次いで和田源太兵衛に常陸流を学んだ。また馬術・鎗術・弓術も極め、文武両道を兼ねていた。
文久2年(1862年)、有馬新七らと挙兵討幕を企てたが、島津久光の鎮圧にあって失敗した(寺田屋騒動)。戊辰戦争のとき、薩摩藩の城下三番小隊の隊長となって鳥羽伏見の戦いに参戦し、その後、東征軍に従って江戸に上った。
上野の彰義隊を攻めたときは、正面の黒門口攻めを担当し、その陣頭に立っての指揮ぶりの勇猛さで世に知られた。
2004年8月15日
『西南記伝』一番大隊将士伝に篠原を評して「国幹、人となり、顴骨(かんこつ)高く秀で、眼光炯然(けいぜん)、挙止粛毅(しゅくき)、威望自ら露はれ、人をして自然に畏敬の念を起さしむ。而して事に処する、用意周匝(しゅうそう)、苟(いやしく)もせず、故を以て西郷隆盛、深く其人と為りを重じ、其交殊に厚く、殆ど親戚同様なりしと云ふ」としている。
「挙止粛毅」の中には極端に寡黙であったことも含んでいる。篠原は戦闘部隊を指揮する場合でも大声を発せず身振りだけで指揮したといわれる。
碑文
明治10年(1877年)3月4日、薩軍一番大隊長篠原国幹は、緋裏の外套をまとい、銀装の大刀をおびて、率先陣頭に立って戦闘の指揮をとっていたが、顔見知りの同郷の後輩、近衛歩兵第一連隊第二大隊長江田国通少佐の指示する狙撃にあい東上の雄図空しくこの六本楠の地にて戦死した。一方狙撃を指示した江田国通少佐もまた、報復の念に燃える薩軍の銃弾によって戦死、薩軍の猛撃により、官軍は高瀬に敗退した。この戦闘は激しく、この日官軍が撃った小銃弾は数十万発だったといわれる。この日以後官軍は吉次峠のことを「地獄峠」と呼んだ。
熊本・吉次峠 篠原国幹戦死の地
薩摩軍一番隊大隊長
篠原国幹