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サラハの歌

サラハ Saraha 

 〜Osho「タントラ・ヴィジョン」より〜

 サラハはヴィダルバに生まれた。ヴィダルバはマハーラーシュトラ州にある。彼はマハーパーラ王が統治者の時代に生まれた。マハーパーラ王の宮廷の、たいそう学識のあるバラモンの息子だった。父が宮廷にいたため、その若者もまた宮廷にいた。彼には四人の兄があり、みんな偉大な学者だった。彼は末っ子で、兄弟のなかでもっとも聡明だった。 p14

 サラハは仏陀よりおよそ2世紀後に生まれた。彼は枝分かれした一方の枝の直系だった。 ひとつの枝は、マハーカーシャッパからボーディダルマへと伝わり、禅が誕生した。その枝はいまも花に満ちている。 もうひとつの枝は、仏陀から彼の息子であるラーフラバドラ、ラーフラバドラからシュリーキールティからサラハ、そしてサラハからナーガルジュナへと伝わっていった。これがタントラの技だ。それはいまもチベットで実を結んでいる。
 タントラはチベットを改宗させた。そして、ボーディダルマが禅の祖師であるのと同じように、サラハはタントラの祖師となった。ボーディダルマは中国、韓国、日本を征服した。サラハはチベットを征服した。 p11


   〜ネット上での情報は、Oshoの話と食い違う点がある〜

彼は東インドでバラモンの家族に生まれ、そして仏教修学のナーランダ大学に学び、サンクリティヤヤンとディヴィジュラム・ヤダヴに従った。サラハは古代のバガルブールのラグギェー村、アンガ・デッシュの当時の首都、に生まれた。

 8世紀後半のインドの最も偉大なヨギの一人、不屈のサラハ、マハームドラーの系統の頭と賞賛される。
 彼は東インド・ベンガルでバラモンの身分の家族に生まれ、仏教僧になることを思い立った。ベンガルのパーラ王朝は仏教を奨励し、多くの大きな仏教大学を支援し、広範囲にわたる学習を促した。サラハは彼の時代の著名な賢人の一人になった。けれども彼は修行僧のままではなかった。ある話で、彼がアルコールに耽ったり、若干の類似した規則を破ることに対して僧院の職から追い出された、というものがある。これはありえるかもしれない、あるいは彼は自ら進んで去ったのかもしれない。
 ともかく、彼は放浪し、白いローブを着たヨギとなり、宿無しで欲から自由で、生の神秘を洞察することだけを探究するようになった。彼はグヒャサマジ・タントラのマスターだったラトナマティという名の聖者の弟子になった。
 このようにサラハはクンダリーニを上げることに集中し、至福の心(マインド)の生来の状態にとどまる瞑想の技法の深い秘密を学んだ。
ひとりのヨギとして、インドの栄光ある土地のいたるところへあちらこちらとあてもなく旅をして、やがてサラハは彼自身と同様の熱望をもつ若い女性に会った。ふたりは夫と妻になった。孤立した場所に落ち着き、墓地の敷地と寂しいヒマラヤの寺院に住み着いて、彼らは霊的な努力に自分自身をゆだねた。サラハの新婦は低いカーストの矢作り職の一族から来ていた。サラハは今彼の妻と家族を養うための仕事を必要としたが、もはやひとりの僧侶もいないので、彼は矢作の取引を始めた。

 「サラハ」という名は矢の作り手としての彼の仕事に由来している。矢を作って売ることがない時、ふたりは直線的な思考の流れを断ち切り、全てのヴェールを脱いだ光明の中で裸の意識を経験するような、マハームドラー瞑想に彼らの時間を費やした。このように彼ら二人は一緒にお互いの光明を達成した!
 人々に抗議され、そして霊的な道から堕落した僧侶という評判を持って、サラハは国の王の御前に連れてこられた。彼の無実と彼の体得したものを宣言するために、彼はその時宮廷全体の前で、「ドーハの三つの環」として知られている自然発生的なヨギの歌のシリーズを朗唱した。彼は一番目の歌を王に語り、二番目は女王に合わせ、そして三番目は集まった人々に合わせて歌った。これらの歌はベンガルの至る所で有名になり、そして誰もがサラハは本物のヨギであることを納得した。


 
サラハはカーギュ派で現在何世紀もの間伝えられ、学ばれてきた主要な瞑想テキストを作った。これは伝統的マハームドラー瞑想の基本的な論文のひとつだ。サラハは、彼の弟子サヴァリを通してルイパダ、デングリ、ヴァジュラガンタ、カムバラ、ジャランダラ、クリシュナカルヤ、ヴィジァヤパダ、ティロバそしてナロパ、ロトラックのマルパの教師たちへと引き継がれる系統を始める。
サラハはタントラ・ヴィジョンの祖師だ。それはとほうもなく重要だ。人類の歴史の上でも、とりわけ現在という時点においては---。 なぜなら、新しい人間が生まれ出ようとして奮闘し、新たな意識が扉をたたいているからだ。そして来るべき世界はタントラのものになるだろう。というのも、もはや二元的な姿勢が人の心をとらえることはできないからだ。 p13

 「サラハ」とは美しい言葉だ。それは「矢を射し者」という意味だ。「サラ」とは「矢」のことで、「ハ(ン)」とは「射た」という意味だ。「サラハ」とは「矢を射し者」という意味になる。彼がその女性の行為、その象徴的なしぐさの意味を悟り、その女性が与えようとしたもの、示そうとしたものを読み取って解き明かしたとき、彼女はうれしそうだった。彼女は踊りあがって彼を「サラハ」と呼び、そしてこう言った。 「さあ、今日からあなたはサラハと呼ばれることになることでしょう。あなたは矢を射たわ。 私の行為の意味を理解して、あなたは射ぬいたのよ」 p28

 サラハの名のもとに三つの経典が手に入る。まず「サラハの従者の歌」。それは160の詩からなる。 次に「サラハの王妃の歌」。最初のものは160の詩だが、2番目のものは80の詩だ。 そして、私たちが瞑想することになる「サラハの王の歌」。それは40の詩からなる。 160の詩が従者のためにあるのは、彼らの理解力がそれほど大きくないためだ。 王妃のためには80の詩だ。彼女はもう少し高い。その理解力はもう少し高い。 王のためには40の詩だ。彼は本当に、知性と気づきと理解の人だったからだ。 p36

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