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1章: 死とカルマの秘密 

OSHO TOP
Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 8

23. 活動的および休止状態の二つのタイプのカルマに、または前兆や前触れにサンヤマを行うことで、死の正確な時を予測することができる。

24. 親しみやすさに、または他のどんな属性にもサンヤマを行うことで、その性質の大きな力が得られる。

25. 象の強さにサンヤマを行うことで、象の強さが得られる。

26. 超物質的な能力の光を向けることで、微妙で、隠されていて、そして彼方にあるものについての知識を得られる。

27. 太陽にサンヤマを行うことで、太陽系の知識が得られる。



 私はある美しい物語を聞いたことがある。かつて偉大な彫刻家で画家が、偉大な芸術家がいた。彼の芸術はとても完璧だったので、彼が人間の像を創る時、誰が人間で誰が像なのかを言うことは難しかった。それはとても本物そっくりで、とても生きていて、とても類似していた。占星術師は彼に死が近づいていることを、彼がすぐに死んでしまうことを告げた。もちろん、彼は非常に恐れて怯えるようになった。そしてすべての人が死を避けたいように、彼も避けたかった。彼はそれについて考え、瞑想し、そして手がかりを見つけた。彼は自分自身の彫像を11体創った。そして死が彼の扉を叩いて死の天使が入った時、彼は自分自身の11体の彫像の間に隠れて立った。彼は呼吸を止めた。

 死の天使は困惑して、自分の目を信じることができなかった。それはこれまで起こったことがなかった。それはとても不法なものだった。神が二人の人物を似せて創造するとは決して知られていなかった。彼は常に独特なものを創造する。彼はどんなお決まりのものも決して信じたことがない。彼は組立ラインのようなものではない。彼は絶対にカーボンコピーに反対する。彼はただ独自のものだけを創造する。何が起こったのだ?全部で十二人で、絶対に似ている?さて、誰を持って行く?たった1人だけを持って行かなければならない。死は、死の天使は決めることができなかった。困惑して、心配して、神経質になって、彼は戻った。彼は神に尋ねた。「あなたは何をしたのですか?そこには正確に似ている12人の人物がいます。そして私は一人だけを持って来ることになっています。どうやって選んだらいいのですか?」

 神は笑った。彼は死の天使を近くに呼んで、彼は天使の耳に偽物から本物を見つける方法の手がかりを、その秘訣を打ち明けた。彼は天使にマントラを与えて彼に告げた。「ちょっと行ってきて、その芸術家が自分の彫像の間で自分自身を隠しているその部屋でそれを口に出しなさい。」

 死の天使は尋ねた。「それはどのように作用するのですか?」
神は「心配しなくていい。ただ行って試しなさい。」と言った。
死の天使はやって来たが、まだそれがどのように作用するのか信じていなかった。だが神が言った時は、彼はそれをしなければならなかった。彼は部屋に入って周りを見回し、そして特に誰にも向けずに、彼は言った。「ご主人、すべては一つのことを除いて完璧です。あなたはうまくやってきましたが、1点を取り逃してきました。一つの誤りがあります。」
男は自分が隠れていることを完全に忘れていた。彼は飛び出して、言った。「何の誤りだ?」
すると死は笑い、そして言った。「あなたは捕まっています。これが唯一の誤りです。来なさい、私に従いなさい。」

 死とは自我(エゴ)のことだ。もし自我(エゴ)が存在するなら、死は存在する。自我(エゴ)が消える瞬間、死は消える。あなたは死のうとしていない。覚えておきなさい。だがもしあなたが自分はいると考えるなら、あなたは死のうとしている。もしあなたが自分はひとつの存在だと考えるなら、あなたは死のうとしている。

 この自我(エゴ)の誤った実体は死のうとしているが、もしあなたが非存在の観点から、非自我(非エゴ)の観点から自分のことを考えるなら、そこに死はなく、既にあなたは不死になっている。あなたは常に不死であってきた。今、あなたはその事実を認識している。
芸術家が捕まったのは、彼が非存在の中に消えることができなかったからだ。

 仏陀はダンマパダの中で言っている。もしあなたが死を見ることができるなら、死はあなたを見ることができない、と。あなたが死が来る前に死ぬことができるなら、死はあなたのところに来ることはできない。それに彫像を作る必要はない。それは助けにはならない。実際にはひとつの彫像を破壊しなければならない。11体より多く創るのではなく、だ。あなたは自我(エゴ)のイメージを破壊しなければならない。より多くの彫像やより多くのイメージを創る必要はない。宗教は、ある意味では、破壊的だ。ある意味、それは否定的だ。それはあなたを滅ぼす---完全に全くあなたを滅ぼす。

 あなたはある充足に達するためにある考えを持って私のところに来るが、私はあなたを完全に破壊するためにここにいる。あなたはあなたの考えを持つ。私は私自身を持っている。あなたは満たされたいと思う---自分の自我(エゴ)を満たしたいと思う。そして私はあなたに自我(エゴ)を落として欲しい、溶けて欲しい、消えて欲しいと思う。なぜならその時にだけ充足があるからだ。自我(エゴ)は空虚しか知らない。それは常に満たされない。まさにその本性から、まさにその本質的な性質によって、それは充足に達し得ない。あなたがいない時、充足がある。それを神と呼んでいい。またはそれにパタンジャリが好む名前、サマーディ---究極の達成---を与えるがいい。だがそれはあなたが消える時にやって来る。

 パタンジャリのこれらの経典は溶解するための、死ぬための、本当の自殺をするための科学的な技法だ。私がそれを本当のと呼ぶのは、あなたが自分の身体を殺してもそれは非現実的な自殺だからだ。もしあなたがあなたの自己を殺すなら、それは本当の自殺だ。
そしてそれは逆説だ。それは、もしあなたが死ぬなら、あなたは永遠の生に達する、ということだ。あなたが生にしがみつくなら、あなたは千と1回も死ぬだろう。あなたは続行する・・・あなたは誕生し続けて、そして何度も何度も何度も死に続ける。それは車輪だ。もしあなたがしがみつくなら、あなたは車輪と共に動く。

 生と死の車輪から脱退(ドロップアウト)しなさい。どうやってそれから脱退(ドロップアウト)したらいいだろう?それがとても不可能に見えるのは、あなたが自分自身を非存在として考えたことがないからだ。あなたは自分自身を単なる空間として、内側には誰もいない純粋な空間として考えたことがない。

 これらがその経文だ。それぞれの経文は非常に深く理解されなければならない。ひとつの経文は非常に要約されている。ひとつの経文は種子のようなものだ。あなたは心底あなたのハートにそれを受け入れなければならない。あなたのハートはそのための土壌にならなければならない。その時それは発芽し、それからその意味を持つ。

 私はあなたに開いているようにと説得できるだけだ。種子があなたの内側の場所に正しく落ちることができるように、種子があなたの非存在の深い闇の中を動くことができるように。あなたの非存在の暗闇の中で、それは生き生きとし始める。ひとつの経文はひとつの種子だ。知的には、それを理解することは非常に簡単だ。実存的には、その意味するものを達成することは骨が折れる。だがそれがパタンジャリの望むものであり、それが私の望むものだ。

 だからここでは知識人であってはいけない。私と親密な関係になりなさい。私に調子を合わせてごらん。ただ私に耳を傾けるだけではいけない。それよりも、私と共に在りなさい。耳を傾けることは二次的なものだ。私と共に在ることが主要な、基本的なことだ---ただ私の集まりの中に在ることが。あなた自身を私と共に、私の現存の中で全面的にここにいるようにさせなさい。なぜならその死が私に起こったからだ。それは伝染性になり得る。私はその自殺を冒した。あなたが私の近くに来るなら、あなたが一つの瞬間でさえ私に調子を合わせるならあなたは死の一瞥を垣間見るだろう。

 そして、仏陀がこう言う時彼は正しい。「もしあなたが死を見ることができるなら、死はあなたを見ることができない。」なぜならあなたが死を見る瞬間にあなたは死を超越しているからだ。それならあなたにとって死は存在しない。

 最初の経文:


活動的および休止状態の二つのタイプのカルマに、または前兆や前触れにサンヤマを行うことで、死の正確な時を予測することができる。


 多くのことがある。まず、なぜ死の正確な時間を心配するのだ?それがどうやって助けになるのだ?その論点は何なのだ?あなたが西洋の心理学者たちに尋ねるなら、彼らはほとんどそれを異常な病的状態と呼ぶだろう。なぜ死を気にする?避けなさい。死は起ころうとしていないと信じ続けなさい---少なくともあなたにとってはない。それは常に他の誰かに起こる。あなたは人々が死ぬのを見てきたが、自分自身が死ぬのを見たことがない。ではなぜ恐れることがある?あなたは例外かもしれない。しかし誰も例外ではない。そして死は既にあなたの誕生において起こってきたので、あなたはそれを避けられない。

 今や誕生はあなたの力を超えている。あなたはそれについて何もできない。それは既に起こってしまった。それは既に過去のことだ。それは既に為された。あなたはそれを元に戻すことはできない。死はまだこれから起こるものだ。それについて何かをすることは可能だ。

 東洋の全ての宗教は死のビジョンに依存する。なぜならそれは起こりそうな可能性だからだ。もしあなたが前もってそれを知るなら、途方もない可能性がある。多くの扉が開く。その時あなたは独自のやり方で死ぬことができる。あなたは自分の死に自分の署名で死ぬことができる。その時あなたは再び生まれないようにうまくやることができる。それが全ての意味だ。それは病的なものではない。それはまったく、非常に科学的だ。誰もが死のうとしている時に、死について考えないこと、死に瞑想しないこと、それに焦点を当てないこと、それについて深い理解に至らないことは絶対的に馬鹿げている。それは起ころうとしている。もしあなたが知るなら、多くのことが可能だ。

 パタンジャリは死の正確な日付、時間、分、秒さえ前もって知ることができると言う。もし死がいつ来るのかを正確に知るなら、あなたは準備することができる。死は重要なお客のように受け入れなければならない。それは敵ではない。実際それは神が与えた贈り物だ。それは通過すべきひとつの大いなる機会だ。それはひとつの突破口になり得る。もしあなたが油断なく、意識的に、気づいて死ぬことができるなら、あなたは決して再び生まれないだろう---そしてもはや死は存在しない。もしあなたが取り逃すなら、あなたは再び生まれるだろう。あなたが取り逃し続けるなら、死の教課(レッスン)を学ばない限りあなたは連続的に何度も生まれるだろう。

 私にこの方法でそれを言わせてほしい。生についての全ては死について学ぶこと、死のための準備に他ならない、と。それが死が終わりに来る理由だ。それは頂点、最高潮、まさに絶頂、頂上だ。

 西洋では特に、現代の心理学者は、深い性行為の中である特定の頂点が、絶頂を、素晴らしいオーガズムを、途方もなく満足させ、爽快な、恍惚的なものを達成できることに気づくようになった。あなたは清められる。あなたはそれから出てきて若返り、新鮮で、再び若く、再び生き生きとする。すべての埃はなくなった。まるで大きなシャワーを、エネルギーのシャワーを浴びたかのように。しかし彼らはまだ性行為が非常に小さな死であるのを知るようにはなっていない。そして深いオーガズムを達成できる人は、自分自身を愛の中で死ぬようにさせる人だ。それは小さな死であり、死と比較するものは何もない。死は存在する最大のオーガズムだ。

 死の強烈さは、ほとんど常に人々が無意識になるほどのものだ。彼らはそれに直面できない。死が来る瞬間、あなたはとても恐れ、とても不安で一杯になり、それを避けるために無意識になる。人々のほぼ99パーセントは無意識に死ぬ。彼らはその機会を取り逃す。

 前もって死を知ることは、あなたが準備するのを助けるための単なる技法に過ぎない。死が来る時にあなたが完全に油断なく気づいていて、待っていて、死と共に行く準備ができていて、明け渡す準備ができていて、死を抱擁する準備ができているように。いったんあなたが気づきをもって死を受け入れたなら、あなたにとってもはやどんな誕生もない---あなたはその教課(レッスン)を学んできた。今や再び学校に戻ることはない。この生は単なる学校、訓練---死を学ぶための訓練だ。それは病的ではない。

 宗教の全ては死に関係していて、もしある宗教が死に関係していないなら、それは全く宗教ではない。それは社会学、倫理、道徳、政治かもしれないが、それは宗教ではあり得ない。宗教とは不死の探求だ。だがその不死は死の扉を通してのみ可能だ。
最初の経文は言う、「活動的および休止状態の二つのタイプのカルマに、または前兆や前触れに際してサンヤマを行うことで、死の正確な時を予測することができる。」カルマについての東洋の分析では3つのタイプのカルマがあると言う。それらを理解しよう。

 一つ目はサンチッタsanchitaと呼ばれる。サンチッタとは総計を、あなたの全ての過去生の総計を意味する。あなたがしてきたことは何でも、あなたが状況に反応した方法がどうであれ、あなたが考え、望み、達成し、取り逃したものは何でも、その総計、全ての生でのあなたの行為、思考、感覚の総計はサンチッタと呼ばれる。サンチッタ、その言葉は全てを、蓄積された全てを意味する。

 二番目のタイプのカルマはプララブダprarabdhaとして知られている。二番目のタイプのカルマは、あなたがこの生で果たさなければならない、この生で成し遂げなければならないサンチッタの一部だ。あなたは多くの生を生きてきた。あなたは多くのものを蓄積してきた。今、その一部がこの生において実行され、実現され、苦しみ、通過すべき機会を持つ。ただそれの一部だけであるのは、この生に制限が---70年、80年、あるいは100年という制限があるからだ。100年ではあなたは全ての過去のカルマを、サンチッタを、蓄積されたものを生きることはできない。ただそれの一部だけだ。その一部がプララブダと呼ばれる。

 それからそこにはクリヤマンkriyamanとして知られている三番目のタイプのカルマがある。それはその日の、今日のカルマだ。まず累積全体があり、それからこの生のためにその小さな一部が、それからさらに今日か、またはこの瞬間のためにそのより小さな一部がある。それぞれの瞬間には何かをするための、または何かをしないための機会がある。誰かがあなたを侮辱する。あなたは怒る。あなたは反応する。あなたは何かをする。あるいは、もしあなたが気づいているなら、あなたは単に見守る、あなたは怒らない。あなたは単に観照者のままでいる。あなたは何もしない。あなたは反応しない。あなたは冷静で落ち着いたままだ。あなたは中心に定まったままでいる。他人はあなたをかき乱すことができなかった。

 もしあなたが他人によってかき乱され、反応するなら、クリヤマンのカルマはサンチッタの深い貯蔵庫の中に落ちる。その時あなたは再び蓄積している。その時未来の生に対してあなたは蓄積している。もしあなたが反応しないなら、その時は過去のカルマが満たされる---あなたはある過去生でこの人を侮辱してきたに違いない。今、彼はあなたを侮辱している。貸し借りは閉じられる。終了した。気づいている人は少なくともこの部分が終了したことに幸せを感じるだろう。彼はもう少し自由になってきた。

 誰かが仏陀を侮辱しに来た。仏陀は静かなままだった。彼は熱心に耳を傾け、それから「ありがとう。」と言った。その男は非常に困惑した。彼は言った。「あんたは狂ったのか?俺はあんたを侮辱し、あんたを傷つけているのに、あんたは単にありがとうと言うのか?」仏陀は言った。「そうだ、なぜなら私はあなたを待っていたからだ。私は過去においてあなたを侮辱してきた。それで私は待っていた---あなたが来ない限り私は完全に自由ではない。今あなたは最後の人だ。私の貸し借りは閉じられた。来てくれてどうもありがとう。あなたは待っていたかもしれない。あなたはこの生に来なかったかもしれない。それなら私はあなたを待たなければならなかっただろう。そして私はもう何も言うことはない。なぜならもうたくさんだからだ。私は別の足かせを作りたくはない。」

 それならクリヤマンのカルマ、日々のカルマは貯蔵庫に落ちない。それに追加されない。それどころか、貯蔵庫はそれがあったものよりも少し小さくなる。同じことがプララブダ---全人生、この生 ---について真実だ。もしこの生であなたが反応し続けるなら、あなたは貯蔵庫をますます多く作っているのだ。あなたは何度も何度も来なければならないだろう。あなたはあまりにも多くの足かせを作っている。あなたは奴隷になるだろう。

 東洋の自由の概念を理解しようとしてごらん。西洋では自由には政治的な自由の含意がある。インドでは私たちは政治的な自由についてあまり気にしない。なぜなら私たちは、人が精神的に自由でない限り、あなたが政治的に自由であるかどうかにはあまり違いはない、と言うからだ。基本的なことは精神的に自由でいることだ。

 束縛はカルマによって作られる。あなたが無意識にすることは何でもカルマになる。気づきのない状態で為されたどんな行為でもカルマになるのは、気づきのない状態で為されたどんな行為もまったく行為ではないからだ。それは反応だ。あなたが十分な気づきの状態で何かをする時、それは反応ではない。それはひとつの行為であり、自発的で、全一(トータル)だ。それは何の痕跡も残さない。それはそれ自体で完全なものだ。それは不完全なものではない。もしそれが不完全なものなら、いつかそれは完結されなければならない。そこでもしこの生であなたが油断のないままでいれば、プララブダは消えてあなたの貯蔵庫はますます空になる。わずかな生において貯蔵庫は完全に空になる。

 この経文は「二つのタイプのカルマにサンヤマを行うことで・・・」と言う。パタンジャリがサンチッタとプララブダを意味しているのは、クリヤマンがプララブダの一部に他ならないからであり、それで彼は二つに分割するのだ。
サンヤマとは何だろう?それは理解されなければならない。サンヤマは人間の意識の最も偉大な統合、ダラーナ、ディヤン、サマーディの3つの統合だ。

 普通、あなたの心(マインド)はある対象から別の対象へ連続的に跳んでいる。ほんの一瞬もあなたは一つの対象に調子を合わせていない。あなたは跳び続ける。あなたの心(マインド)は絶えず動き続ける。それは流動のようなものだ。この瞬間は何かが心(マインド)の焦点の中にあり、次の瞬間は他の何かが、次の瞬間はさらに他の何かがある。これが心(マインド)の通常の状態だ。

 それから出る最初のステップはダラーナだ。ダラーナは集中を意味する---あなたの全ての意識を1つの対象に固定すること、対象が消えないようにすること、あなたの意識を何度も何度も対象に持ってくること、途切れなく流れる心(マインド)の無意識の習慣を落とせるように。なぜならひとたび途切れない変化の習慣が落とされ得るなら、あなたは統合性に、結晶化に達するからだ。連続的に動くとても多くの対象がある時、あなたはとても多くのままだ。それを理解してごらん。あなたの対象が分割されているのであなたは分割されたままだ。

 例えば、あなたは今日ある女性を愛し、明日は別の女性を、三日目はもう一人の女性を愛する。それはあなたの中に分裂を作り出す。あなたはひとつであることはできない。あなたは多くのものになる。あなたは群衆になる。そのため東洋は、あなたができるだけ長く、より長い期間留まることができる愛を作ることを強調する。どのカップルが多くの生で一緒に留まったかという実験が東洋で行われてきた。何度も何度も同じ女性、同じ男性。それは統合性を与える。あまりにも多くの変化はあなたの実存を蝕み、あなたを引き裂く。だからもし西洋で精神分裂病がほとんど通常のことになっているなら、それは不思議でも何でもない。それは奇妙ではない。それは自然なことだ。あらゆるものが変わっている。

 私はハリウッドのある映画女優が彼女の11番目の夫と結婚したのを聞いたことがある。彼女は家に帰って、子供たちに新しいパパを紹介した。子供たちは名簿を持ってきて、そしてそのパパに言った。「それに署名してください。なぜなら今日あなたはここにいますが、明日はいなくなっているかもしれないからです。そして僕たちは全てのパパたちの署名を、自筆を集めています。」

 あなたは家を変え続ける。あなたはすべてを変え続ける。アメリカでは人の仕事の平均的な限界は3年だ。仕事も連続的に変化している。家は---人が一つの町に滞在する平均的な限界も3年だ。そして結婚の平均的な限界も3年だ。どういうわけか3年は非常に重要であるように見える。もし同じ女性と4年留まるなら、あなたは落ち着くかもしれないという恐れがあるように思える。もし3年以上同じ仕事に留まるなら、あなたは落ち着くかもしれないという恐れがある。だから人々は続ける。彼らはほとんど放浪者になっている。それはあなたの内側に分裂を作り出す。

 東洋では、私たちは人に仕事を彼の生の一部のように与えようとした。ある人はバラモンの家に生まれた。彼はバラモンのままだった。それは安定を与えるための大きな実験だった。ある人は靴職人の家に生まれた。彼は靴職人のままだった。結婚、家族、仕事、町---人々は同じ町で生まれ、そして同じ町で死んでしまう。老子は覚えている、「私は古代の日々では人々は川を越えて行かなかったと聞いたことがある。」ということを。彼らは向こう側で、対岸で吠える犬を聞いていた。人々はそこには町があるはずだと推論していた。なぜなら夜に彼らは立ち昇る煙を見ていたからだ。人々は料理をしているに違いない。彼らは吠える犬を聞いていたが、そこに行って見るほど気にしていなかった。人々はそれほど調和的に落ち着いていた。

 この絶え間ない変化は、あなたの心(マインド)が熱っぽいことをただ単に言っているだけだ。あなたはどんなものにも長くとどまることはできない。その時あなたの全人生は連続的な変化の生になる。まるで木が何度も何度も根こそぎにされつつあり、そして地下深くにその根を送るための適切な時を決して得ないかのように。木はただその名目のためだけに生きるだろう。それは開花できない、不可能だ。なぜなら花が生じる前に、根が安定しなければならないからだ。

 だから、集中とはあなたの意識を一つの対象に持ってきて、どんな対象であろうと意識をそこに保っていられるようになる、という意味だ。もしあなたがバラの花を見ているなら、あなたは持続的にそれを見る。何度も何度も心(マインド)はさまよい、あちらこちらに行く。あなたはそれを戻す。あなたは心(マインド)を飼いならす---あなたは牛を飼いならす。あなたはそれをバラに戻す。心(マインド)は再び去る。あなたはそれを戻す。やがて、心(マインド)はより長い期間バラと共に在り始める。いったんあなたの心(マインド)が長い期間バラと共に残るなら、あなたは初めてバラとは何かを知ることができる。それは単なるバラではない。神がその中で開花した。香りはバラだけのものではない。香りは神性なものだ。だがあなたは長い間決してそれと心が通い合っていなかった。

 木と共に座り、それと共に在りなさい。あなたのボーイフレンドやガールフレンドと一緒に座り、彼または彼女と一緒に在りなさい。そして何度も何度も自分自身を連れて来なさい。そうでなければ、どうなっているだろう?たとえ女性と愛し合っていても、あなたは何か別のことを考えている---おそらく全く異なる世界に動いている。愛の中でさえあなたは焦点を合わせない。あなたは多くのものを取り逃がす。扉は開くが、あなたはそれを見るためにそこにいない。扉が再び閉じられる時にあなたは戻ってくる。

 それぞれの瞬間には神に出会う数多くの機会があるが、あなたはそこにいない。彼はあなたの扉を叩きに来るが、あなたはそこにいない。あなたはそこでは決して見つからない。あなたは世界中をぶらつき続ける。このぶらつきを止めなければならない。それがダラーナの意味することだ。ダラーナはサンマヤの偉大な統合の第一ステップだ。

 第二ステップはディヤンだ。ダラーナにおいて、集中においては、あなたはひとつの焦点に自分の心(マインド)を持って来る。対象が重要だ。あなたは何度も何度も自分の意識の中に対象を持ってこなければならない。あなたはそれを見失うべきではない。対象はダラーナにおいては重要だ。第二ステップはディヤン、瞑想だ。瞑想においては対象はもはや重要ではない。それは二次的になる。今、意識の流れが重要になる---対象に注がれつつある意識そのものが。どんな対象でもいいが、あなたの意識は途切れなく注がれなければならない。そこに隙間(ギャップ)があってはならない。

 あなたは見たことがあるだろうか?水を一つのポットから別のものへ注ぐなら、そこには隙間(ギャップ)がある。油を一つのポットから別のものへ注ぐなら、隙間(ギャップ)はない。油には連続性がある。水は非連続的に落ちる。

 ディヤンの意味、瞑想の意味は、あなたの意識は連続性の中で何らかの集中の対象に落ちなければならない、ということだ。そうでなければ、それはちらちらしている。それは絶えずちらちらしている。それは途切れない松明ではない。時にはそれはそこにあって、それから消える。それから再びそこにあって、それから消える。それから再びそこにある。ディヤンではあなたはそれを連続性に、絶対的な連続性にさせなければならない。

 意識が連続的になる時、あなたは途方もなく強くなる。初めてあなたは生とは何かを感じる。初めて、あなたの生の中の穴は消える。初めてあなたは一体としてある。

 あなたの一体感は意識の一体感を意味する。もしあなたの意識が水滴のようなもので、連続的でないなら、あなたは本当に存在することはできない。それらの隙間(ギャップ)は妨害になる。あなたの生は非常に暗くてかすかなものであるだろう。それには強さ、力、エネルギーがない。意識が連続的に流れる、川のような現象である時、あなたはエネルギーの滝になっている。

 これがサンヤマの第二ステップ、二番目の要素だ。それから三番目の要素、究極のものがある。それはサマーディだ。ダラーナ、集中で、対象が重要なのは、数多くのものの真ん中に一つの対象を選ばなければならないからだ。ディヤンでは、瞑想では、意識が重要だ。あなたは意識を連続的な流れにさせなければならない。サマーディでは主体が重要だ。主体は落とされなければならない。

 あなたは多くの対象を落とした。多くの対象があった時、あなたは多くの主体、群集、多重精神的(サイキック)存在であり、一つの心(マインド)ではなく、多くの心(マインド)だった。人々は私のところに来て、彼らは言う。「私はサニヤスを取りたいと思います。しかし・・・」その「しかし」が二番目の心(マインド)をもたらす。彼らは自分は同じだと考えているが、その「しかし」が別の心(マインド)をもたらす。彼らは一つではない。彼らは何かをしたいと思い、同時に、彼らはそれをしたくないと思う---二つの心(マインド)だ。もしあなたが見守るなら、あなたは自分の中に多くの心(マインド)を見つけるだろう---ほとんどひとつの市場だ。

 あまりにも多くの対象が存在する時、それらに相当するあまりにも多くの心(マインド)がある。一つの対象がある時、一つの心(マインド)が生じる。それは、焦点が合い、中心が定まり、根付き、地に着く。今やこの一つの心(マインド)を落とさなければならない。そうしなければあなたは自我(エゴ)の中に留まるだろう。多くのものが落とされてきた。今その一つも落としなさい。サマーディではこの一つの心(マインド)は落とされなければならない。一つの心(マインド)が落ちる時、その一つの対象も消えるのはそれが存在できないからだ。それらは常に一緒にある。

 サマーディではただ意識だけが、純粋な空間として残る。
これらの3つが一緒でサンヤマと呼ばれる。サンヤマとは人間の意識の最も偉大な統合だ。

 今あなたは経文を理解することができるだろう。「活動的および休止状態の二つのタイプのカルマに、または前兆や前触れにサンヤマを実行することによって、死の正確な時を予測することができる。」今、もしあなたが集中して、瞑想して、そしてサマーディに同調して入るなら、あなたは死の正確な時間を知ることができる、ということがあり得る。もしあなたが自分のサンヤマを、この偉大な意識の統合を、あなたの中に生じたこの偉大な力を揺り動かすなら、死に向けてそれを揺り動かすなら、あなたは自分が死のうとしている時をすぐに知ることができるだろう。

 それはどのように起こるのだろう?暗い部屋に入る時、あなたはそこに何があるかを見ることができない。明かりを持って行くなら、あなたはそこに何があるかを、または何がないかを見ることができる。あなたはほとんど暗闇状態で全人生を動くので、あなたはどれだけのプララブダがまだそこにあるのか知らない---プララブダ、あなたがこの人生で果たさなければならないカルマ---。

 あなたがサンヤマを持って、明るく燃える光を持って行く時、炎を中にもたらす時、あなたはどれだけのプララブダが残されているのかを知る。あなたは家全体が空っぽであるのを見る。ちょっとその角にわずかなものが残されているが、すぐにそれは消えるだろう。今あなたは自分が死のうとしている時がわかる。

 ラーマクリシュナについて言われたことは、彼は食べ物にあまりにも興味があったということだ。実際、憑りつかれていた。それはとてもありそうにないことだ。彼の妻、シャラーダでさえ非常に戸惑いを感じたものだった。なぜなら彼はそれほどの偉大な聖人でありながら、一つの欠点だけがあったからだ。そしてその欠点は彼が食べ物にあまりにも興味があったということだ。彼は、弟子たちにサットサングを与えていた間、ちょっとその最中に「待ってくれ、今行く」と言い、そして台所を、調理されつつあるものを覗きに行くほど多く興味を持っていた。彼はちょっとそこに行って「今日は何が準備されているのだ?」と尋ねて、それから戻ってきて再び彼のサットサングを始める。

 彼の最も近い弟子たちは心配するようになった。彼らは言った、「これは見た目がよくありません、パラマハンサ。それにすべてはとても完璧に美しいのです---これまでそのような美しくて完璧な男が歩いたことはありません---でもこの小さな事は、なぜあなたはそれを落とせないのですか?」彼は笑うだろうし、何も言わないだろう。

 ある日、彼の妻シャラーダは必要以上に主張した。彼は言った。「オーケー、君が主張するのなら、私は告げよう。私のプララブダは終了したのだ。そして私はただこの食べ物にしがみついているだけだ。それを落とすなら私は去ってしまう。」
妻はこれが信じられなかった。妻が自分の夫を信じることは非常に困難だ。たとえその夫がパラマハンサであっても何の違いもない。妻は彼が馬鹿にしていると、または合理化しようとしていると思ったに違いない。それを見て、ラーマクリシュナは言った。「見なさい、私はお前が私を信頼していないのがわかるが、お前は知るだろう。私が死のうとしている日、その日のわずか3日前に、私の死の3日前に、私は食べ物を見ないだろう。お前は私のターリー皿を持って来るだろうが、私は別の方向を見始めるだろう。その時お前は私がここにいるのはもうわずか3日間しかないのを知ることができる。」

 それも信じられなかった。彼らはそれについて忘れてしまった。その後、ラーマクリシュナが死んだちょうど3日前、彼は休んでいて、シャラーダは彼のターリーを、彼の食べ物を持ってきた。彼は背を向けて、反対側を見始めた。突然妻は思い出して、はっきり理解した。ターリーは彼女の手から落ちて、彼女は泣き出した。ラーマクリシュナは言った。「今泣いてはいけない。今や私の仕事は終了したのだ。私はしがみつく必要はない。」そして正確に3日後に彼は死んだ。

 彼は思いやりでしがみついていた。ただ、一つの鎖で束縛を作ろうとしていただけだった。投獄はなくなった。刑務所は消えてしまった。思いやりから彼はしがみつこうとしていた。この岸に少しでも長く残るように、彼の周りに集まっていた人々を助けるために。だがパラマハンサを理解することは難しい。シッダに、ブッダになった人を理解することは難しい。彼のすべてのサンチッタを、すべての蓄積されたカルマを空にした人を理解することは難しい。それは非常に困難だ。彼には重力がない、それでラーマクリシュナは岩にしがみついていた。岩には重力がある。彼は自分が少しでも長くこの地球上に残ることができるように岩にしがみついていた。

 サンヤマという意識状態を十分に油断なく持つ時、あなたはどれだけのカルマが残されているのかを見ることができる。それはちょうど医師が死にかけている人のところに来て、脈を診てそれに触れ、そして「もはや2,3時間以上はもたない」と言う時のようなものだ。彼は何を言っているのだろう?長年の経験によって彼は人が死のうとしている時に脈がどのように打つのかを知るようになった。正確にそのように、油断のない人はどれだけのプララブダが、どれだけの脈が残されているのかを知っている。そして彼は自分が去らなければならない時を知っている。

 これは2つの方法で行うことができる。経文はやはり死に焦点を合わせることを言う、それはプララブダのカルマだ.... 「活動的および休止状態の二つのタイプのカルマに、または前兆や前触れにサンヤマを実行することによって、死の正確な時を予測することができる。」これは2つの方法で行うことができる。あなたはプララブダを見るか、あるいは見ることのできる少しの前兆や前触れがあるか、のどちらかだ。

 例えば、ある人が死ぬ前、ほぼ正確に約9ヶ月前に、何かが起こる。普通私たちは気づいていない。なぜなら私たちは全く気づかなくて、その現象は非常に微妙だからだ。私がほとんど9ヶ月と言うのはそれが異なっているからだ。それは次のことによる---妊娠と誕生の間の時間がその時間になる。もしあなたが子宮の中にいる9ヵ月後に生まれたなら、それなら9ヶ月だ。あなたが子宮の中の10ヵ月後に生まれたなら、それなら10ヶ月だ。あなたが子宮の中の7ヵ月後に生まれたなら、それなら7ヶ月だ。それは妊娠と誕生の時までの間の時間に依存する。死の前のまったく同じ時間に、何かが腹に、臍の中心部に当たる(クリック)。それが当たらなければならないのは、妊娠と誕生との間に9ヶ月の時間差(ギャップ)があったからだ。あなたは誕生のために9ヶ月かかった。正確に同じ時間が死のためにかかる。あなたが誕生のために母親の子宮の中で9か月の準備をしたように、あなたは死ぬまでに9カ月間準備をしなければならない。その後、円は完結される。臍の中心にある何かが起こる。気づいている人々は、彼らは臍の中心で何かが壊れたことを、今死が近づいていることをすぐに知るだろう。ほぼ9ヶ月だ。

 あるいは例えば、他の前兆や他の前触れがある。人は、彼が死ぬ前、彼が死ぬちょうど6ヶ月前に、目が非常にゆっくりと上方に向き始めるので、やがて自分の鼻の先を見ることができなくなる。死においてそれらは完全に上向きに向くが、それらは死の前に向きを変えること、戻る旅を始める。それは起こる---子供が生まれる時、子供はほぼ6ヶ月かかる。それが通常だ---例外はあるかもしれないが---子供は固定した目を持つのに6ヶ月かかる。そうしないと目は緩む。だから子供たちは鼻の近くに自分の両目を寄せることができ、非常に簡単に遠くの隅に両目を持ってゆくことができるのだ。彼らの目はまだ緩んでいる。子供の目が固定される日、もしその日が6ヶ月後に、または9ヶ月後に、または10か12ヶ月後に来るなら、正確に同じ時間がその時間になる。再び目は緩むようになり、そして上方向に動き始める。だからインドで村人たちはこう言うのだ。彼らはヨーギから知るようになったに違いない---人が死ぬ前に、彼は自分自身の鼻の先を見ることができなくなる、ということを。

 そしてヨーギが連続的に鼻の先端を見るという技法が多くある。彼らはそれに集中する。それに集中してきた人々は、ある日突然、自分の鼻を見ることができないのを自覚する。今、彼らは死が近づいているのを知る。

 ヨーガの生理学によると、人間には7つのセンターがある。一番目は生殖器で、最後のものは頭の中にあるサハスラーラ sahasrar だ。これらの二つの間に5つの他のものがある。あなたが死ぬ時はいつでも、あなたは特定のセンターから死ぬ。それはこの生で為してきたあなたの成長を示す。普通、人々は生殖器を通って死ぬ。なぜならその全人生で人々はセックス・センターの周りで生き、絶え間なくセックスのことを考えて、セックスについて空想し、セックスについてあらゆることをやっているからだ。まるで人生全体がセックス・センターの周りに中心を置いているように見える。これらの人々はセックス・センターを通って死ぬ。もしあなたが少し進化していて、愛することを達成していて、セックスを超えてしまったなら、あなたはハートのセンターから死ぬ。もしあなたが完全に進化してきたなら、もしシッダになっていたなら、あなたはサハスラーラから死ぬだろう。

 あなたが死ぬそのセンターが開口部を持つのは全人生のエネルギーがそこから解放されるからだ・・・
ほんの数日前、ヴィパッサナが死んだ。彼女の兄ヴィヨーギは彼女の頭を打つことを頼まれた。それはインドでは象徴的になっている。ある人が死んで火葬場に置かれる時、その頭を打たなければならない。単なる象徴的なことだ。なぜならもしその人が究極に達していたなら、頭は自然と壊れるが、その人は達していないからだ。しかし私たちは期待して祈り、そして頭蓋骨を壊す。

 解放の個所は開くようになる。この個所を見ることができる。遅かれ早かれ、西洋医学がヨーガの生理学に気づくようになる時、これもまたすべての検死---人が死んだ方法---の一部になるだろう。たった今は、彼らは彼が自然に死んだのか、毒によるものか、殺されたのか、自殺を犯したのかどうかだけを見る---すべて普通のことだ。最も基本的なことを、報告書になければならないことを彼らは見逃している。どのようにその人は死んだのか、を。セックス・センターからか、ハートのセンターからか、またはサハスラーラからか---どこから彼は死んだのか。そして、まるで卵が壊れて、何かがそれから出て来るようにその特定のセンターを壊すため、それを身体の中に見ることができるという可能性がある---そしてヨーギはそれに多く働きかけてきた。

 サンヤマに達した誰かが、彼が死ぬちょうど3日前に、どのセンターから彼は移動しようとしているのかに気づくようになる時、ほとんど常に彼はサハスラーラから移動する。ちょうど頭の上にある特定の活動、運動は、人が死ぬ3日前に作用し始める。

 これらの兆候はあなたに死を迎え入れる方法を用意することができ、もしあなたが大きな祝祭の中で、大きな喜びをもって、歓喜の中で---ほとんど踊り、そしてエクスタシーの中で---死を迎え入れる方法を知るなら、あなたは再び生まれることはないだろう。あなたの教課(レッスン)は完了する。あなたはこの地球上のここで学ばれることになっていたものは何でも学んできた。今やあなたはより大きな使命のために、より大きな生のために、より多くの無限の生のためにその向こうに動く準備ができている。今やあなたは宇宙に、全体に吸収される準備ができている。あなたはそれを得てきた。

  この経文についてもう一つのこと。クリヤマンのカルマ、日々のカルマはただの非常に小さな断片に過ぎない。現代の心理的な用語で私たちはそれを「意識」と呼ぶことができる。それより低いものがプララブダだ。現代の心理的な用語でそれを「潜在意識」と呼ぶことができる。さらにそれより低いものがサンチッタだ。現代の心理的な用語でそれを「無意識」と呼ぶことができる。

 普通、あなたは自分の日々の活動に気づいていない。ではどうしたらプララブダやサンチッタに気づくことができるだろう?不可能だ。だから日々の活動に気づくようになることで始めなさい。道の上を歩くことに、油断なくありなさい。食べ物を食べることに、油断なくありなさい。あなたがしていることに注意深いままでいなさい。その活動に留まりなさい。あちらこちらに行ってはいけない。ゾンビのように物事をしてはいけない。まるであなたが深い催眠の中にいるように動いてはいけない。あなたが何を言っていようと、十分に油断しないで何でも言いなさい。全く後悔することがないように。

 あなたが「申し訳ない。私は決して言いたくなかったことを言ってしまった。」と言う時、それは単にあなたが眠っていたことを、気づいていなかったことを示している。あなたが「私は何かをした。私はなぜ、そしてどうやってかがわからない。私はそれがどうやって起こったのかわからない。私は自分自身にもかかわらずそれをしてしまった。」と言う時、覚えておきなさい、あなたは眠って行動したのだ。あなたは睡眠中に歩く夢遊病者だ。

 あなた自身をもっともっと油断なくさせなさい。それがここと今に在ることの意味だ。まさに今あなたは私に耳を傾けている。あなたはただ耳だけで在ることができる。まさに今あなたは私を見ている。あなたはただ目だけで在ることができ、十分に油断しないで、ひとつの思考さえあなたの心(マインド)を通過せずに、内側に何の妨害もなく、全く曇りなく在ることができる。ちょっと私に焦点を合わせてごらん---全面的に耳を傾けて、全面的に見ること---私と一緒にここと今にいること。それが最初のステップだ。

 もしあなたがそれに達するなら、二番目のステップが手に入れられるようになる。それからあなたは潜在意識に移動することができる。それから誰かがあなたを侮辱する時、あなたは自分が怒る時にだけ気づくようになるのではない。あなたはすぐに誰かが侮辱したことに気づくようになる。---そこでは、ある特定の怒りがあなたの存在の潜在意識の深さに、ほんの小さな波が、非常に微妙に移動した。もしあなたがまったく敏感でなく、気づいていないなら、それを知ることはない。---それが意識的に噴火しない限りあなたはそれを知らないだろう。やがてあなたは感情の微妙なニュアンス、微妙な色合いに気づくようになるだろう。---プララブダに、潜在意識に---。

 あなたが潜在意識に気づくようになる時、別のステップがあなたにとって入手可能になる。あなたが成長すればするほど、成長はあなたに可能になる。あなたは今、蓄積された過去であるサンチッタに気づくようになる三番目のステップを、最後のステップを見ることができるだろう。ひとたびあなたが無意識の中に移動したなら---それはあなたが自分の実存の最も深い核に意識の光を持ち込んでいることを意味する---あなたは光明を得るだろう。それはブッダになるという意味だ---今や暗闇の中には何もない。隅々が照らされる。その時あなたは生きる、あなたは行為する、しかしどんなカルマも蓄積しない。

 二番目の経文:


親しみやすさに、または他のどんな属性にもサンヤマを行うことで、その性質の大きな力が得られる。


 まず人は気づくようにならなければならない。するとすぐに二番目のステップがある。それは、あなたのサンヤマを親しみやすさの、愛の、慈悲の感覚に持って来ることだ。

 あなたにひとつの物語を話してみよう:
それは偉大な仏教僧侶に起こった。彼の名前はタミノといって、粘り強く、一生懸命に取り組んで、悟りの状態に、サンヤマの状態に入った。そしてそこで彼は無に気づいた....
あなたが本当に気づいている時、あなたはどんなものにも気づいていない。あなたはただ気づいていることに気づいているだけだ。そのように言うことも良くない。なぜならそれだと気づいていることは一つの対象のように見えるからだ。いや、あなたは単に無に気づく---ただ気づく。

 ・・・そしてそこで彼は無に気づき、彼の魂は無のようだった。そしてこの状態は平和さえも超えていて、彼は喜んで永遠にその中に留まっただろう....

 それを覚えておきなさい。サンヤマに達する時、人はその中に永遠に留まりたいと思う。人はそれから出て行きたくないと思う---が、これは旅の終わりではない。これは旅の半分に過ぎない。あなたのサマーディが愛にならない限り、あなたが自分の内側で発見したものが何であれ、それをより大きな世界へもたらさない限り、あなたが自分のサマーディを他の人たちと分かち合わない限り、あなたは自分自身がけちん坊であることを証明している。サマーディはゴールではない。愛がゴールだ。だからそれがあなたに起こる時はいつでも、それがあなたのどんなものであっても、あなたもまた人が出て行きたくない時点に至るだろう。それはとても美しく、途方もなく喜びに満ちている。誰が気にするだろうか?

 ・・・そしてこのステージは平和さえも超えていて、彼は喜んで永遠にその中に留まっただろう。だがあいにく、その日彼は僧院を囲んでいる小さな森の中で瞑想するために外に出ていた。そして彼がそのようにしてそこに座って、瞑想の中に失われた時、一人の旅人が通り過ぎた。すると泥棒が彼に跳びかかり、彼を傷つけて奪い取って、彼が死ぬようにそこに残した。その人はタミノに助けを求めて叫んだが、タミノは無意識にそこに座っていて、何も見ず何も聞いていなかった....。

 タミノはそこに座っていて、そしてその人はそこで死にかけていた。そしてその人は助けを求めて呼びかけていたが、彼は自分自身の内側に深くいたので何も彼に届かなかった。彼は聞くことができなかったし、見ることができなかった---目は開いていたが、彼は目の中にいなかった。彼は自分の実存のまさにどん底に行っていた。ただ身体は呼吸していたが、彼はその周辺にはいなかった。
その後その人は出血して地面に横になり、その人はタミノが地球に戻った時にそこにいた---自分の身体に戻って来た時に、自分の感覚に戻って来た時に。タミノはぼーっとしていて、長い間自分が見たものを理解できなかったし、また彼は何をしなければならないのかがわからなかった....

 その周辺で再び自分自身をまとめるには少し時間がかかる。そのセンターはそれほど全く異なっている。あなたはほとんど絶対的に未知の領域に移動する。あなたが戻ってきた時、再び周辺と合うようになることは難しい。それはほとんど月に行ってきた人々のようなものだ。彼らが戻って来る時、3週間、彼らは自分たちのために用意された特別な家に住まなければならない---地球上で再び動くための準備をするために。もし月から戻ってきた後すぐに彼らが自分の家に行くなら、彼らはおかしくなるか気が狂うだろう。なぜなら月はとても異なっているからだ。重力はあまりない---地球の8分の1だ。人は60フィート、 70フィートを全く簡単に跳ぶことができる。人は誰かのテラスの上に、問題なく跳ぶことができる。重力はほとんどゼロだ。そして月は空っぽなので、人はぼーっとする。そしてその静寂は途方もなく、何百万年間も途切れることなく、とても重いので、人が月面から戻ってくる時、人はまるで死んだ後に再び地球に戻って来るかのように来ている。

 最初の人間が月を歩いた時、彼は有神論者ではなかったが、突然彼はひざまづいて祈り始めた。月の上で為された最初の事は祈りだ。何が彼に起こったのだろう?その静寂はそれほどのものだった。それはとても深かった。そして彼は全く独りで、突然彼は神を思い出した。その孤独の中で、その一人ぼっちの中で、その寂しさの中で、彼は自分が神を信じていないことを、自分が懐疑的な心であることを、疑う者であることを全て忘れた。彼はすべてを忘れてしまった。彼はすぐに倒れて祈り始めた。
人が月から来る時、彼は地球に再び順応しなければならない。しかしこれは、あなたが自分の実存のセンターに行って、そして戻ってくる時とは比べものにならない。

 ・・・タミノはぼーっとしていて、長い間自分が見たものを理解できなかったし、また彼は何をしなければならないのかがわからなかった。しかしまもなく、彼の生命の流れを肉体の形に再び作り上げるにつれて、彼はその人のところへ歩み寄り、できるだけうまくその人の傷に包帯をした。しかしその人の血はあまりに長く流れてしまっていた。彼はタミノを見て、そして死んだ---そしてその目をタミノは忘れることができなかった。そしてその目は彼を悩ませた。彼はそれほどまでかき乱された---全ての悟りが失われた---彼は中心についての全てを忘れた。彼は困惑した。

 そしてその人が死んだ前のその人の目に、タミノは彼が戦場で一度見たことのある目つきを見た。そして彼のすべての平和は、とても痛々しく勝ち取ったものは、彼から逃げた。彼は僧院に戻って来て、島の上を通り過ぎて、最上の高台に登り、ゴータマ・ブッダの像の一つのそばに座った。それは夕方で、夕日だけがその石の顔の上で輝いていた。それが生の中に輝き出すように見えるまで---。

 タミノはその顔の目を覗き込んで、そして言った。「尊き仏陀様、あなたの信条は真実だったのですか?」
するとその像は「真実と偽り」と答えを返した。
「その中の何が真実だったのですか?」とタミノは尋ねた。
「慈悲と愛」
「それでその中の何が偽りだったのですか?」
「生からの逃亡、逃避」
「私は生に戻って行かなければならないのでしょうか?」
しかし光はその顔から消えてしまい、それは再び石になった。


 それは美しい物語だ。そう、タミノは生に戻ってこなければならなかった。人はサマーディから愛のために戻ってこなければならない。そのため、パタンジャリの経文はサマーディの後すぐに、その死の中で経験される。「友好的であることに、または他のどんな属性にもサンヤマを実行することによって、」慈悲、愛、「その性質の大きな力が得られる。」

 現代の心理学者も同意するだろう---一定の限度までは。もしあなたが絶えず何かについて考えるなら、それは具現化し始める。あなたはエミール・クーエの名前を聞いたことがあるに違いない。あるいは名前を聞いたことがなくても、彼の宣伝文句は聞いたことがあるに違いない。毎日、あらゆる方法で、私はますます良くなっている。彼は何千人もの大きな問題を抱えていた患者を治療した---大きな問題を抱えていた人々を、そして彼は途方もなく彼らを助けた。そしてこれが彼の唯一の薬だった。彼は彼らにただこう言うだけだ。「繰り返しなさい。毎日、あらゆる方法で、私はますます良くなっている。ただそれを繰り返しなさい。ただそれを感じなさい。ただこの考えであなた自身を囲みなさい。『私はより良く、より健康で、より幸せになっている。』」そして何千人もの人々が助けられた。彼らは病気から出てきた。彼らは精神的な病気から出てきた。彼らは自分の問題や不安から出てきた。彼らは再び活発になり、再び生き生きするようになったが、その中は何もなかった---ほんの小さなマントラだ。

 だがどういうわけか、あなたは自分がそこに生きる世界を作る。あなたは自分がそこに生きる身体をも作る。あなたは自分がそこに生きる心(マインド)をも作る。あなたは自分の考えで作る。あなたが考えることは何でも遅かれ早かれ現実になる。すべての思考は最終的には、結局のところひとつの物事になる。

 そしてこれはすべての瞬間に対象を変え続け、ここやそこから跳び続けるような通常の心(マインド)についてそうだ。サンヤマについてどう考えたらいいだろう?そこに心(マインド)がなくて、ちょっと親しみやすさの考えが生じる時、人はそれととても親密な関係になる。人はそれになる。

 仏陀は「私がこの世に生まれてくる次の時、私の名前はマイトレーヤ(弥勒)『友人』になる。」と言っていた。それは非常に象徴的だ。---彼が来ているかどうかは要点ではない。それは非常に象徴的だ。彼は、人はブッダになった後、友人にならなければならない、ということを言っている。人がサマーディに達した後は慈悲に達しなければならない。慈悲はあなたのサマーディが本物であるかどうかの判断基準だ。

 覚えておきなさい。けちん坊であってはいけない。なぜなら習慣は持続するからだ。もし外側の世界であなたがけちん坊であるなら、そしてあなたが物に、お金やあれやこれやにしがみつくなら、サマーディがあなたに生じた時、あなたはサマーディにしがみつくだろう。しがみつきは継続される---そしてしがみつきは落とさなければならない。そのため、すぐに、死の後、あなたが不死を感じ始める時、パタンジャリは、親しみやすさをもたらしなさい、今分かち合いを考えなさい、と言う。

 パレスチナには二つの海がある。一つは新鮮できらめいている水で満たされている。木々や花はその周りで成長する。魚はその中で生きていて、その浅瀬は緑色だ。治癒の質を備えているこの海の純粋な水は、ヘルモン山の周りの丘からヨルダン川によって流れ下る...
イエスはこの川を愛した。イエスはこの海を愛した。多くの奇跡がこの場所の周りで彼に起こった。
・・・マスターはこの海を愛し、そして彼の聖職者としての仕事の多くの幸せな瞬間はその側で費やされた。そこは今日に至るまで穏やかさと力で満たされた場所だ。

 ヨルダン川は南にある別の海に流れる。ここには生命も、鳥の歌も、子供たちの笑い声もない。空気はその水の上に不吉で重苦しく漂っていて、人間も獣も鳥も飲まない。この海は死んでいる。パレスチナのこれらの二つの海の間で何がそのような非常な違いを作るのだろう?一つはとても生きている、非常に途方もなく生きている。そしてもう一つは全く死んでいる、全く活気がなく死んでいる。

 これがその違いだ。ガリラヤ湖はヨルダン川の水を受け入れるが保持しない、というのが。それに流入するすべての水滴のために、別の水滴が流出する。それが喜んで与えれば与えるほど、それは見返りに受け取る。ガリラヤ湖---これは人生の海だ。
他の海はそれに到達する水の一滴を貯め込むが、その見返りに何も与えない。ガリラヤ湖は与えて生きている。他の海は何も与えないし生きていない。それは本当に「死」--死海--という名前が付けられている。

 そして同じことが人間の生について真実だ。あなたはガリラヤ湖になれるし、または死海になることができる。もしあなたがガリラヤ湖になるなら、遅かれ早かれあなたは自分にイエスの意識を引きつけるだろう。マスターは再びあなたの周りを歩く。再び彼はあなたの近くで彼の弟子と共に見られる。再びあなたは全く異なる世界の中にいる。あなたは神性な接触を持つだろう。またはあなたは死海になることができる。それなら受け入れ続けなさい、与えてはいけない。それなら貯め込み続けなさい、与えてはいけない。それはどのようにして死んだようになったのだろう?けちん坊は死んだ人だ。けちん坊は毎日死ぬ。分かち合いなさい、あなたが持っているものは何でも分かち合いなさい。するとあなたはより多くを受け取るだろう。それが親しみやすさの意味だ。

 そしてパタンジャリは慈悲に、愛に、そして親しみやすさにあなたサンヤマをもたらしなさいと言う。するとそれらは成長する。あなたは友好的になる、ということではない。あなたは友人になる。あなたは友好的になる、ということではない。あなたは友情に、親しみやすさになる。あなたは愛する、ということではない。あなたは愛になる。あなたは愛のまさに質になる。

 三番目の経文:


象の強さにサンヤマを行うことで、象の強さが得られる。


 あなたが何を望もうと、あなたはそれにあなたのサンヤマをもたらす。するとそれは起こるだろう---なぜならあなたは無限だからだ。あなたが受け取りたい形がどんなものであれ、あなたはサンヤマの後に受け取ることができる。全ての奇跡が可能だ。それはあなた次第だ。もしあなたが象のように非常に強力になりたいなら、あなたはなることができる。あなたの内側の種としてその考えをちょっと保ち、それをサンヤマを用いて浴びることで、あなたはそれになる。この経文のせいで、多くの人々は多くの間違ったことをしてきた。これは鍵だが、もしあなたが悪魔のような何かになりたいなら、あなたはなることができる。あなたは科学を悪用できるのと同じくらいヨーガを悪用することができる。科学は原子エネルギーを解放した。今、あなたはそれを都市に落として人々を殺すことでそれを使用することができる。あなたはより多くの広島や長崎を作り出すことができる---あなたは地球全体を死んだものに、燃やされた場所に、墓地にすることができる。

 同じ原子エネルギーは創造的に使用することができる。地球上に存在する全ての貧困は数分以内に消失することができる。必要とされるすべての食品を作ることができ、ごく少数の人々だけに入手できるすべての贅沢は、すべての人の普通の生の一部になることができる。誰もその道を妨害していないが、どういうわけか人間にはその創造的な理解がない。

 ヨーガは同じ方法で誤用されてきた。
すべての知識は力をもたらし、そして力は建設的に、または否定的に用いられ得る。


 私はある逸話を聞いたことがある:
酔っ払いは裕福な銀行家のところへ足を引きずって歩き、一杯のコーヒーのために6ペンスを求めた。とても気前のよい男であることから、銀行家は彼に10シリング紙幣を手渡した。
「ここで、」と彼は言った。「あなたはそれを持って20杯分のコーヒーを購入することができます。」
次の夜、銀行家は再び酔った浮浪者を見た。
「今日はお元気ですか?」と彼は陽気に尋ねた。
浮浪者は彼をにらみつけた。「なぜお前はあっちへ行かないのだ」と彼はぶしつけに言った。
「お前とお前の20杯分のコーヒーだ。それらは昨夜一晩中俺を目覚めたままにさせたのだ。」


 それは時と場合による。祝福は呪いになり得る。パタンジャリが言っていることは純粋な白魔術だ。それは魔術的な処方だ。あなたはそれを悪魔のような黒魔術にすることができる。その時あなたは他人に対して破壊的になり、そして自分自身に対して破壊的になる。それを覚えておきなさい。だからまず彼は友好的になりなさいと言うのだ。それから彼は力について話す。
パタンジャリのような人々はとても慎重だ。彼らはあなたのせいで慎重でいなければならない。彼らは自分たちのすべての段階を見る。まず彼はサンヤマに達する方法を述べる。すぐに彼は慈悲と親しみやすさについて語る。それから彼は力について語る。なぜならあなたが慈悲を持つなら、力は悪用され得ないからだ。

 超物質的な能力の光を向けることで、微妙で、隠されていて、そして彼方にあるものについての知識を得られる。
すべての次元が利用可能になる---「微妙で、隠されていて、そして彼方にあるもの」---ひとたびあなたが在らない方法を知るなら。ひとたびあなたがどんなエゴもなしで在る方法を知るなら、ひとたびあなたが対象もなく主体もなく純粋な意識でいる方法を知るなら、あらゆることが可能になる。あなたはすべてを知ることができる。一つを知ることによってすべてが知られる。
太陽にサンヤマを行うことで、太陽系の知識が得られる。

 この経文は少し複雑だ---それ自体においてではなく解説者のせいで。パタンジャリの全ての解説者は、まるでパタンジャリが外側の世界にある太陽について話しているかのようにこの経文について話す。彼はその太陽について話してはいない。彼はそれについて話すことはできない。彼は占星術師ではないし、彼は占星術には興味がない。彼は人間に興味がある。彼は人間の意識の地図作成に興味がある。そしてその太陽は外にあるものではない。

 ヨーガの用語では人間とはひとつの小宇宙だ。人間は微妙な意味で小さな宇宙であり、小さな存在に凝縮されている。存在、全ての存在は、拡張された人間に他ならない。小宇宙と大宇宙、これはヨーガの用語だ。外側に存在するものは何であれ人間の内側にも正確に存在している。

 ちょうどその太陽のように、人間は内側に太陽を持っている。ちょうどその月のように、人間は内側に月を持っている。そしてパタンジャリはあなたに内面の世界についての、内なる人間についての全ての地理を与えることに興味がある。だから彼が「ブーワン、ギャーナム、スーリヤ、サンヤマット Bhuwan gyanam surya samyamat」-「太陽にサンヤマを行うことで、太陽系の知識が得られる」と言う時、彼は外側にある太陽を意味しているのではない。彼は内側にある太陽を意味しているのだ。

 どこにあなたの内なる太陽があるのだろう?どこにあなたの内なる太陽系のセンターがあるのだろう?それは正確に生殖系の中に深く隠されている。だからセックスは熱いのだ。それは一種の熱だ。私たちは動物のための表現を持っている。女性に受胎する準備ができている時はいつでも、私たちは彼女は熱っぽいと言う。その言葉使いはまさに的確だ。セックス・センターは太陽だ。だからセックスはあなたを熱く、熱病的にさせるのだ。あなたが性行為に移る時、あなたはますます、より熱くなる。あなたはほとんど熱病の頂点に触れる。あなたは汗をかく。あなたの呼吸は乱れる。そしてその後、あなたは使い尽くされたように感じる。それからあなたは眠りに落ちる。

 セックスが使い尽くされた時、すぐに月が機能し始める。太陽が沈む時、月が昇る。だから性行為の後、あなたはすぐに眠りに落ちるのだ。太陽の機能が去り、月の機能が始まる。
太陽はセックス・センターだ。その上にサンヤマを行うことで、あなたは内側に太陽系全体を知ることができる。セックス・センターにサンヤマを行うことで、あなたはそれを超えることが可能になるだろう。あなたはそれの全ての秘密を知るだろう。しかしそれは外側の太陽とは何の関係もない。

 だがもし内なる太陽を知るなら、内省によって、あなたは外側の太陽も理解することができる。この太陽は太陽系のセックス・センターだ。だから生きているあらゆるものは太陽を必要とするのだ。木はますます高く伸びる。アフリカでそれらが他のどの場所よりも高く伸びるのは、森がとても密集していて多くの競争があるからだ。それはもしあなたが高く伸びなければ死んでしまうからだ。あなたは太陽に到達することはできない。あなたは太陽を利用できないし、太陽はあなたを利用できない。あなたは生命エネルギーを浴びることはないだろう。

 太陽は生命だ。セックスは生命だ。すべての生命は太陽から生じる。すべての生命はセックスから生じる。すべての生命だ。
木々は、それらが太陽に利用できるようになれるために、そして太陽がそれらに利用できるようになるためにより高く到達しようとする。ちょっと見てごらん。同じ木々がそちら側にある。これらの松型の木々、同じ木々がそちら側にある---それらは小さいままだ。こちら側でそれらは高く躍動している。太陽はこちら側でより利用できる。そちら側では太陽は利用できない。

 セックスは内側の太陽だ。太陽は太陽系の性器だ。内省によってあなたは外側の太陽系も理解できるが、基本的なことは内なる太陽系を理解することだ。だから私はこれを強張するのだ。覚えておきなさい、パタンジャリが内なる場を位置づけていることを。そしてもちろんそれが太陽からしか始められ得ないのは太陽がセンターだからだ。ゴールではなくセンターだ。究極ではなくセンターだ。人はそれより高く上昇しなければならない。人はそれより高く移動しなければならない。だがそれが始まりだ。それはオメガではなく、それはアルファだ。

 かつてパタンジャリは、サンヤマに達する方法を、慈悲、愛、そして友情へと変容する方法を、慈悲のために、愛のために力強くなる方法を言ったことがある。彼は内なる領域に、内側の地形に来る。「太陽にサンヤマを行うことで、太陽系の知識が得られる

 全世界は二つのタイプの人間に分けることができる。太陽の人々と月の人々に。あるいはあなたは彼らを陰と陽と呼ぶことができる。太陽は男性で、月は女性だ。太陽は攻撃性、積極性で、月は受容性、受動的だ。あなたは全ての存在を太陽と月に分けることができる。そしてあなたは自分の身体も太陽と月に分けることができる。ヨーガは分けてきた。

 それはあなたの息さえ、あなたの呼吸さえ分けるほど詳細に分けてきた。一方の鼻孔は太陽の呼吸で、他方は月の呼吸だ。もしあなたが怒るようになるなら、あなたは太陽の側から呼吸するだろう。もし静かになりたいなら、あなたは月の側から呼吸する。身体全体は分けられる。あなたの一方の側は男性で、他方の側は女性だ。心(マインド)は分けられる。心(マインド)の一つの部分は男性で、心(マインド)のもう一つの部分は女性だ。

 そして人は太陽から月に向かって移動しなければならない。それから両方を超えなければならない。









1976年4月11日 am in Buddha Hall

2014年2月19日翻訳完了

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