Oshoのワークについての講話

Osho: The Luminous Rebel Life Story of a Maverick Mystic
  
友人たちの集い                                1967年12月23日、ロナヴァーラでのOshoの講話


 私たちはとても重要な問題を考えるためにここに集まっている。

 私には、個々の人々に向けて自分が言っていることを、いつか公開させる必要もあるだろうというような考えはなかった。それについては考えたこともなかった。私は自分の能力と手腕に応じて、自分にとって嬉しいと感じるものは何でも、彼らに役立つだろうと思われることは何でも話している。だが徐々に、何百何千という人々と接触する機会を持つにつれて、私には限界があるということ、そして私がどんなに願っても、それを必要とするすべての人々に私の言葉を届けることはできない、ということを認識するようになり、わかり始めた。そして多くの人々がこの上もなくそれらの言葉を必要としている。国中が、全地球が極端なまでに渇望し、困窮している。

 たとえこの惑星の残りの地域のことは考慮に入れないとしても、この国自体が精神的な危機状態にある。古い価値はすべて粉砕されてしまい、あらゆる古い価値に対する尊敬や敬意は消えてしまったが、新しい価値は何も誕生していない。人間は、どこへ行くべきか、何をすべきかもまったくわからずにただ立っている。このような状況では、人間の心(マインド)がとても落ち着かず、とても苦しくまた不幸な状態に陥るのも当然だ。

 それぞれの個人は自分の内にあまりにも大きな惨めさを抱えていて、もしその人のハートを開いて中を覗き込むことができたら、私たちは途方に暮れてしまうだろう。多くの人々と接触すればするほど、その人が外側から見えるのとはまったく反対のものを内面に抱えていることを知って、私はますます不思議に思った。彼の微笑みは偽りで、その幸福は偽りで、そのいわゆる喜びも偽りだ。そして彼の中には膨大な地獄が、深い闇が、たいへんな不幸と惨めさが蓄積している。

 この苦しみ、この苦痛を撲滅する方法はある。それらから自由になることは可能だ。人間の生は天上の平安と旋律をもった生になり得る。そしてこれに気づき始めて以来、人間の生を平安に導くことができるものを、彼らが必要としているものをその人たちにもたらさないとしたら、それはある意味で罪を犯していることになるとも感じた。知っていようと知っていまいと、私たちは怠慢の罪を犯していることになる。

 だから私は、人々の生を変容することができるものを最大多数の人々にもたらすことが必要だと感じ始めた。しかし私には私の限界があり、私の能力や手腕にも限界がある。ひとりでは、私がどれほど走ろうとも、どれほどたくさんの人々に出会おうとも、それがどれほど広範囲に及ぼうとも、周りにある生の広大さを見れば、そして深く苦悶しているこの社会を見れば、そのすべてに対処する方法は全くない。海岸で一滴の色を落とせば、小さな波に色はつくかもしれないが、広大な海にはなんの違いも起こらない。そして面白いのは、色がついたかもしれないその小さな波は、瞬く間にその大きな海に呑み込まれて、その色も消えてしまうということだ。

 だから私たちは、どうすれば平和の色をこの生の広大な海の中へ遠く、そして広く行き渡らせることがでるのか、について話し合うためにここに集まったのだ。しかしこれに伴って、私は、自分の平安にだけ関心を持っている人は本当の意味で平安になることは決してできない、ということにも気づいている。なぜなら自分にだけ関心を持つことが病気の原因の一つであるからだ。ただ自己中心的であることだけが病気になる基本的な理由の一つだ。
 自己中心的になって自分にだけ関心を持ち、自分の周りにある他のすべてを忘れる人は、美しい家を建てながら家を囲んでいるゴミの山を気にしたくない人のようなものだ。彼は自分の所有地に、家の周りのゴミが彼の家の周り全てに悪臭を放っていることに気づかずに美しい庭を造るかもしれない。もし近隣全てが汚いなら、彼の庭、花々、そしてその香りはあまり意味がないだろう。その悪臭は彼の家に入って彼の花々の香りを消してしまうだろう。

 人間は自分だけに関心を持つべきではなく、環境にも関心を持つべきだ。宗教的な人は自分自身に関心を持つだけではなく、自分の周りのあらゆることにも関心を払う。私は、自分自身の平安に関心を持つだけでは充分ではないとも感じる。平安のそよ風が、私たちが相互に関係している人たちに、私たちがつながっている人たちに、知覚のあるすべての存在に到達することに関心を持つことは必要だ。それもまた私たちの関心事であるべきだ。そして自分の周りの生のすべてに平安をもたらしたいと懸命に願う人は、他の人々を平安にすることに成功するかもしれないし、しないかもしれないが、まさにその努力で彼自身は確かに平安になる。

 仏陀の生涯にある逸話がある。おそらくそれは作り話だろうが、非常に美しい話だ。仏陀がニルヴァーナ(涅槃)、究極の解放を達成した時、彼はモクシャの、救済の扉に達し、門番が門を開けた。だが仏陀はその門に背を向けて立った。そこで門番が「なぜあなたはモクシャに背を向けて立っているのですか?」と尋ねると、仏陀はこう言った。「私の背後にたくさんの人々がいる。彼らがみんなモクシャを達成するまで、私はここに止まって待つつもりだ。私は自分ひとりで救済のなかに入れるほど酷く、残酷で、暴力的ではない。 私が達成したすべての平安はただ、自分はモクシャに入る最後の人間になるべきだ、まず他の人たちがすべて入るべきだ、と私に言っている」

 これは非常に美しい物語だ。この物語によれば、仏陀は他の人たちがすべて先に入れるようにモクシャの門前でまだ待っている、ということになる。彼自身はみんなの最後に入ることを望んでいる。

 このような感情が起こった人のハートは、既にモクシャを達成している。彼はモクシャの門に入る必要などない。彼にとって、モクシャという観念はすべて見当外れになる。このような人々だけが平安に至って、周りに平安を広げるための強烈な啓示がその人生で機能し始めるのだ。

 このような方向に関心を持つようになった友人たちは、ただ自分自身に関心を持ったままでいるべきではなく、他の人々や彼らの環境にも関心を持つようになるべきだと、私は感じる。なぜなら、この関心は他の人々に恩恵をもたらすかもしれないし、たとえもたらさないとしても、それはそれでも彼ら自身にとって非常に意味深いものであるからだ。それが、彼らが大いなる平安と大いなる至福に深く入るための役に立つのは、不安の理由のひとつが自己中心になることにあるからだ。そして自分の中心から周りの人たちすべてに広がっていく人は、平安になることに向かって動き始める。

 私たちは、どんな方法でなら愛と平安と慈悲のメッセージをできるだけ多くの人々に広げることができるか、あなた方と話し合うためにここに集まった。そのメッセージを確実に彼らに届かせるには、どのような方法を見つけることができるだろうか?それは可能なことだろうか?それを宣伝にしてはいけないし、カルトを作るべきでもなく、組織や集団を作るべきでもない。私たちはそれ自体が強力になるような中心を作ろうとしているのではなく、集団にもならず、カルトにもならず、組織にもならず、どんな中心権力も作らずに、できるだけ広くメッセージを広げようとしているのだ。そしてこれにはかなり多くの熟慮が必要だ。

 カルトを作りたいのなら、それについてたいして考える必要はない。組織を作ろうとしているのなら、それについてたいして考える必要はない------世界の誰もが集団や組織の作り方を知っている。何千というカルトが既に作られてきた。私たちはそれらのカルトの中にもう一つのカルトを作ろうとしているのではない。だからそれは私たちがカルトや組織を作らないようにして、それでも自分が愛しているもの、自分にとって至福と感じられるものを誰にでも分かち合えるようにするために、徹底的に考え抜かれなければならないのだ。

 私たちは伝道者にはなりたくないが、それでも広めることは可能かもしれない。そのため、それは非常にデリケートな問題であり、非常に注意深く、大きな感受性をもって徹底的に考える必要がある。これは綱渡りのようなものだ。ひとつの選択肢は、カルトになる危険があるために、まったく広めないことだ。これは、私たちはこのメッセージをまったく誰にも広めないという意味だ。そして二番目の代わるべき手段はこのメッセージを広めることだが、最後にはカルトを作ってしまう。その危険も存在する。

 私たちはメッセージを広げなければならないが、カルトが作られないように絶対に気をつける必要がある。 だからそれは、必要な伝達を、生きたメッセージを、最大多数の人々に届けるために、宣伝もせず、カルトや組織にもならずに広めることを可能にさせるという問題だ。あなた方がここに招かれたのは、この事を話し合うためだ。来るべきセッションで、私は自分に見ることのできる事柄についてあなた方に段階的に言うつもりだ。そして私はあなた方にもこれらの線に沿って考えることを期待する。私はあなた方に二、三の基本的な事柄を話すつもりだ。あなた方がそれについて考えることができるように。

 最初の事は、今日の友人たちの集いは、このメッセージほど大きくはないということだ。組織は必要なく、必要なのは集いだけだ。そして組織と集いの違いを明確に理解しなければならない。集いとは誰もが自由であり、誰もが自由に来て、自由に立ち去ることができるという意味だ。集いの意味は、誰もが対等で、誰もより高くもより低くもなく、どんな階層にも属さず、誰も追随者ではなく、誰も指導者ではないということだ。これが集いの意味だ。私たちは権威や、階層や、人々の上下階級がある組織ではなく、友人たちの集いを作らなければならない。

 そして組織にはそれ固有の下部組織があり、そこには底部から頂点までの階層があり、段階や地位もあり、それとともにあらゆる政治が入ってくる。なぜなら身分や地位があるところには必ず政治が入って来るからだ。地位を持っている人は、誰かが自分に取って代わるかもしれないと怯えるようになる。地位のない者は地位にたどり着こうと懸命になる。だから組織には固有の危険がある。

 この集いでは、それぞれの人は自分の愛からそこに来ているに過ぎない。愛以外に彼が従わなければならない戒律は他にはなく、彼が果たさなければならない何らかの宣誓や誓約もなく、彼が傾倒する何らかの誓いや訓戒もない。彼はただ自分の愛と個人的な自由からそれに加わっただけであり、自分がそうしたい瞬間に去ることができる。
 そして彼はこの集いの一部である時でさえ、どんな教義やイデオロギーにも縛られていない。その時でさえ彼は異なる意見を持つ自由があり、自分自身の考えを持ち、自分自身の考えに従い、自分自身の知恵に従う自由がある。彼は誰かの追随者になるためにそこにいるのはではない。そこで友人たちの集い“ジーヴァン・ジャグルティ・ケンドラ”が生れてくるかもしれない。私たちはこの線に沿って考えなければならない。

 確かに、友人たちの集いが形作られる規則は、組織が形作られる規則とは異なる。友人たちの集いとは、完全に私たちが無政府主義的な制度と呼ぶかもしれないものだ。組織は規則や原理や法規によって縛られているうまく計画されたシステムだ。私は法律や規則や原理によって人々を縛るつもりはない。なぜなら私はまさにそれらの事柄に対して戦っているからだ。そのような組織なら既に世界中に存在している。そんなものをもう一つ作っても何の意味もない。

 確かに、組織にはより大きな効率性があり、集いにはそれほどの効率性はありえない。だが自由を犠牲にして効率を持つことは高価な取引だ。民主主義は独裁政権ほど効率的ではないが、効率は犠牲にできても、自由を犠牲にすることはできない。友人たちの集いとは、それは自由な個人の自発的な集まりだという意味だ。もしその中にいくつかの小さな法規や制度があったとしても、それは個人よりも下位にあるものであって、上位にはない。それは機能的だろうが、目的(ゴール)であることはできない。私たちはいつ何時でも自由にそれを崩壊させることができる。決してそれらが私たちを崩壊させる能力を持つべきではない。法規は私たちのためにあるのであって、その反対ではない。これを心に留めておくことが重要だ。

 さて、ある友人たちは憲章があるべきだと考えている。確かに憲章はあるべきだが、それは組織のための憲章のようであってはならない。それは友人たちの集いのためのものであることを心に留めて形作られるべきだ。それは非常に機能的であり、実用的なもので、この目的のための大要を述べているが、それを固守することを強要するものではない。それはいつ何時でも投げ捨てて燃やすことができる。そしてその憲章にどれほどの価値があっても、私たち個々の友人たちのほうがそれより価値があることを心に止めておくことが重要だ。
 なぜならこの憲章はこれらの友人たちのために作られたのだからだ。彼らはこの憲章のために集まってきたわけではない。だから私たちは、全員ひとりひとりの個人の価値と尊厳が守られるような友人たちの集いを作らなくてはならない。明らかなことだが、個人の数が多くなればなるほど、その人たちの考え方や理解の仕方は多様になるだろう。友人たちの集いが大きくなればなるほど、当然、彼らの中での相違点は大きくなるはずだ。

 だから私たちは画一性を作り出そうとすべきではない。そうしないと組織が存在に入って来始める。そして私たちが画一性を作り出そうとすればするほど、その人の個性、彼の尊厳、彼の自由は破壊され始める。重要なのは画一性ではなく、すべての友人に対する、さらには意見の異なる友人に対してさえの尊敬だ。なぜなら私の全ての展望は、国中に自由な考え方が生まれうるということだからだ。だから自由な思考を生み出すことを望む人々自身が統制された思考の罠にかかるなら、そこには危険があるだろう。
 だから私に対してさえも、この友人たちの集いはどんな特別な崇敬も示すべきではない。私に対しても、どんな崇敬の感情もあるべきではない。私に対しても、合理的なアプローチと知性的なアプローチがあるべきだ。もし私の言うことがあなたにとって正しく思えるのなら、それがあなたの好みなら、有益に見えたら、その時にだけあなたはそれを人々に伝えるべきだ。ただ私がそれを言ったからという理由だけで、私の言うことを人々に伝えるという過ちを犯してはならない。

 友人たちの集いは、ある個人に中心を置くべきものでもない。なぜならその人が、私が、または他の誰かが崇拝の中心になりかねないからだ。私たちはどんな崇拝も持たないし、誰の信者でもなく、また私たちにはどんな指導者もいない。集団的には、私たちはあるビジョンを、あるメッセージを愛しており、それがより多くの人々に達すれば彼らは利益を得るだろうと感じている。それが私たちが集まってきた理由であり、このビジョンを人々にもたらしたい理由だ。

 だからまず最初に、私たちは組織について少し話そう。私たちは組織を作りたいのではなく、ただ友人たちの集いを作りたいだけだ。そこでこの二つの間の微妙な違いを理解してみたい。この友人たちの集いを組織になることから守るために努力するのは、すべての個人の責任になるだろう。それは私ひとりの手中にはない。私はそれを言うことができるだけで、それは私ひとりの手には負えない。そしてもし私たちがまったく油断していたなら、それは組織になってしまう危険がある。だから非常に警戒している必要がある。そしてそれは組織にならないように非常に意識的な実験でなければならない。

 カルトが形作られる特定の未知の方法がある。私たちがそれに気づきもしないうちに、カルトは形成され始める。だから私たちはそれについて気をつけなければならない。そして前もってそれに気づいていれば、それが起こらないような方法で物事を処理できるかもしれない。これは一つの対処法だ。そしてもう一つの可能性は、それが組織かカルトになるかもしれないと恐れて、私たちがまったく何もしないということだ。それはもう一つの危険だ。
 もし何も為されないなら、広めなくてはならないメッセージを広めることはできない。そうなると、このメッセージを人々にもたらすために出来る限り駆け回ることが、私一人の肩にかかることになる。私はいずれにせよそれを続けるだろう。私にとっては何の違いもない。だがその同じメッセージは、より多くの人びとに届けることができた。協力する友人たちが多ければ多いほど、それはより遠く、より容易に達することができる。

 そして今日は、科学が多くの技術を開発して社会を近代化しているから、それを利用しないのは馬鹿げているだろう。それを利用しなかったら、私たちは間違いを犯していることになるだろう。例えばここで、私がマイクを使わずに話したとしても、それはその用途に足りている。それからたとえ私の声があなた方にあまりはっきり届かなかったとしても、それでもその用途に足りている。人数がより少ないなら私の声を聞くことができる。だが人数がもっと多かったら、私の声は充分遠くには届かないだろう。マイクを使えば、私の声は長い距離に達することができる。今日ではとても多くの科学技術が利用できるので、それがすべて使われるなら、仏陀やマハーヴィーラが二十回の人生で成し遂げられたものより---彼らがそう望んだものより---多くのワークを、一人の人がその生涯ですることができる。

 仏陀とマハーヴィーラは不利な立場にあった。彼らに利用できた手段が何であろうと、それを使うことで、彼らは十二分にそのワークを為した。だがもし誰かが、現在の時代に同じ方法でそのワークをするように求めたなら、それは全く馬鹿げているだろう。今日ではたくさんの技術を手に入れることができ、そのすべてを使うことができる。そして一人の人は、現代の技術がなければ四百年間生きてもできなかったほどのワークを、一回の生涯で為すことができる。だから私たちはこれらの技術をすべて利用しなくてはならない。
 これもまた考えるべき重要なことだ。私がひとりでそれをすることは不可能だ。そのためにはもっと多くの友人たちが必要であり、多くのタイプの友人たちが必要だ。ある人は手仕事ができるだろうし、ある人は知性を使うことができるだろうし、金銭の管理ができる人もいれば、ほかのことで役に立てる人もいる。その人の理解がどんなものであれ、その人の気質がどんなものであれ、人はそれに応じて手伝うことができる。友人たちの多様性が広ければ広いほど良いということを覚えておくのも重要だ。なぜなら異なったタイプの人たちが来て、異なった方法で貢献し、異なったタイプのワークをし、異なった手助けを提供すればするほど、ワークはより豊かになるからだ。

 自分たちのサークル内にいる友人たちが、見知らぬ他人を恐れるということはよく起こる。彼らは、知らぬ者が入って来るといろいろ問題を引き起こすということを恐れている。だから一般に起こることは、友人たちの集団がどこかでひとつに集合する時はいつでも、彼らは自分たちのサークルを作って、新しい友人がそこに加わるのを恐れるようになることだ。その恐れは新参者が面倒を起こすかもしれないということだ。
 そしてこの恐れは自然なことでもある。この防御的感情が全く悪いわけではない。だが二十五人の古い友人たちが一人の新参者を恐れるというのは大変な弱さのしるしだ。それよりも彼らの考えは、私たち二十五人がその新参者を変容するのであって、新参者が私たち二十五人を変化させるのではない、というものであるべきだ!そしてもし私たち二十五人が一人の新参者によって変えられるほど弱いのなら、私たちは変わらなければならない。その中にどんな害がある?それの何がそんなに悪いことなのだ?

 何らかのグループが集まる時はいつでも、それはサークルを形成し始める、ということが常に起こる。その時それとそのサークルの外側の人々との間に距離が作られる。それは知らずに起こることで、誰もそれを意識的にやってはいない。これはマインドの自然な特徴だ。

 あなたが見知らぬ村に行って、あなたに数人の友人たちがいたら、おそらくあなたはその村でどんな友人も作らないだろう。あなたはその数人の友人たちのサークルに取り囲まれたままでいて、そこから出て来ないだろう。自分がやむをえず独りであることにあなたが気づくような状況では、話は違ってくる。あなたは友人を作ることだろう。そうでなければ、あなたは新しい友人を作ることはないだろう。

 そのように、あらゆるグループにはそれ自身に閉じこもったままでいるという傾向がある。そこには閉じこもるようになる傾向がある。そして閉じこもっていることにはある種の安全性がある。すべては知られていて、すべては快適だ。私たちが好きなことは何でも、他の人たちも好きだ。誰か見知らぬ者が入ってきたら、新しい事を言うかもしれないし、全てをかき乱すかもしれない。私たちはこの恐怖を落とす必要がある。このワークが広範囲にわたって広大になるためには、この恐怖は落とされなければならない。
 強調点は非常に融通性を持ったままでいるべきであり、自分のハートを非常に広々と、開いたままにして、最も正反対の性質の人々でさえ同化できるほど自分の両腕を遠くへ広げるべきだ。たった一人の人も除外されてはいけない。私たちは自分自身の内側に、私たちとは完全に異なる人のための空間さえ作らなければならないし、私たちの役に立ち得るもので、彼にどんな能力があるのかを見つけなければならない。

 これに関連して、インドでは最近において(1967年当時)マハトマ・ガンディーが偉大な実験をした。彼は異なる見解を、それも対立する見解さえ持っている多くの人々を一緒に集めた。全く似かよっていない人々や、彼らとの間にどんな意見の一致も得られないような人々が同じ傘の下にやって来て、大規模な事業の手助けになった。

 特定の試みにおいて、異なる見解、考え、異なる個性の人々は含まれるべきではない、と誰かが考える時はいつであれ、その試みは偉大なものにはなり得ない。それは非常に制限されたままであるだろう。それは「他の遠い場所から来る全ての河川は私と一緒になるべきではない。どんな種類の泥やゴミを、どんな種類の物質や無機物を持ち込むのか、そしてその水が良いのか悪いのかが誰にわかるだろう?」と考えている小さな小川のように残るだろう。もし川がこういう線に沿って考え始めたら、それはただ小川のままでいるしかない。それは大河ガンジスになることはできない。だからもしガンジスになるつもりなら、それらのすべてを受け容れなくてはならない。だからあらゆるものを受け容れるというこの能力がそこでは必要になる。

 できるだけ多くの人びとを一致させられる方法を熟考することが必要だ。私たちは空間を作り出さなければならない。ゆっくり、ゆっくりと、私たちは、どうすれば人々に仲間に入れる機会を提供できるか、どうすれば彼らのためのワークと、彼らも参加するように援助できる方法を見つけられるか、を見なければならないだろう。

 とても多くの人々が全国からやって来て、ワークの手助けをしたいと私に言っている。とても多くの人々が、ワークの手助けをするために何をしたらいいのか、と手紙で尋ねてきている。これらすべての友人たちが貢献できる余地を作るのはあなた方の責任だ。そして何の役にも立たない人がありうるという観念を完全に落として手放しなさい。地上にはそんな人は存在しない。人のことなど言うまでもなく、動物や鳥たちでさえ手助けになる。彼らの助けさえも・・・。

 何の役にも立たない人は絶対にいない-----地上の誰ひとりとして無用ではない。

 だから私たちは、興味を持った人々にどうしたら一番いいワークをしてもらえるかを見つける必要がある。もし私たちが、この人はこのようだ、あの人はあのようだ、という考えに関わるなら、それは非常に難しいだろう。あなたはどれほど多くのワークが阻まれることになるか想像もできない。
 ある男がガンジーのアシュラムによく来ていた。人々は彼についての不満を言った。彼は本当に不道徳で、酔っぱらいで、あれもやったこれもやった、と。ガンジーはただそれを全て聞き続けただけだった。友人たちはみんな非常に心を乱されるようになった---ガンジーがこの男がアシュラムに来るのを禁止せず、それどころかその男をより近くに来させ続け、ついには追い出される心配がなくなって、その男がむしろ傲慢な態度でアシュラムに入ってくるようになったため-----。

 ある日、ガンジーの側近の何人かが、状況があまりにも酷くなったとガンジーに告げた。その日、彼らはこの男がパブに座っているのを自分の目で見て、その男がカディ、つまりガンジー・スタイルの服を着てワインを飲んでいるのはなんともみっともない不面目なことで、あんな男がアシュラムに来ているのはまったくの不運で、これではアシュラムの不名誉になってしまう、と---。

 するとガンジーは言った。「私はいったい誰のためにこのアシュラムを開いたのかね?善い人々のためだろうか?それなら悪い人々はどこに行ったらいいのだろう?それに彼らが善いなら、そんな人がこのアシュラムに来るどんな必要がある?そもそも私は何のために、また誰のためにここにいるのだろうか?そして第二には、彼がカディを身にまとってパブに座っていたので、人はどう思うだろうか?とあなたは言う。もし私が彼をそこで見たとしたら、私なら彼をこの胸に抱きしめたことだろう。というのも、私の心に最初に起こるのは、これは驚いた、どうやら私の言葉は大衆にまで届き始めたらしい、という思いだからだ。酒飲みまでが、カディを身にまとい始めた、と。あなた方には、カディを身にまとっている者がワインを飲んでいるように見える。私には、ワインを飲む者がカディを身にまとい始めたと見えただろう。そしてそれなら、その男がワインを飲むのを止める日もそう遠いことではない。変容がその男に始まった。彼は勇気を示した。少なくともカディを身に着けた。彼のハートに愛が生まれた、変容が彼に始まったのだ。

だから、この男をどちらの側からも見ることができる。彼はカディを着ながらワインを飲んでいるようにも見える。そうなるとあなたのマインドは彼をアシュラムから追い出したくなるだろう。だがそれは別の角度から見ることもできる。酔っぱらいがカディを身にまとっている、と。そうなれば大喜びでその男をアシュラムの中に歓迎したくなる。

 もしこのアシュラムが拡大していくべきものなら、また大衆にまで広がっていくべきものなら、あなた方は一番目の観点ではなく二番目の観点を取らなければならないだろう。そうすれば誰が私たちに近づいて来ようとも、その人のいい点だけが見え、彼が役に立つことのできる方法が見えるだろう。そして私たちは愛をもって見始めたその人に対して、計り知れない、きわめて貴重な多量のエネルギーと、善く在ることへの弾みを与えている、ということも私はあなた方に言いたいと思う。」

 もし二十人の善い人々が悪い人を善人として受け入れ始めたら、彼にとって悪く在り続けることは難しくなる。だが全世界が誰かを悪い人間だと言い始るなら、その人が悪くなったりそう在り続けることは簡単になる。もし誰かが泥棒であって、別の人がまるで彼は泥棒ではないかのような信頼を示したら、彼の盗む能力と彼が盗みそうな見込みは弱まるだろう。なぜなら他人のハートの良い感情を尊敬しない者などどこにもいないからだ。

 もし泥棒が私たちの中に来ることがあったとして、私たちが彼をまるで善人であるかのようにただ信頼することができたら、彼はここで盗むことはできなくなるだろう。それは全ての普通の法則に反するようだが、それは不可能になる。なぜなら自分を尊敬し信頼してくれる非常に多くの人々のほうが、盗むことよりずっと貴重になって、彼はそれを拒否できなくなるからだ。

 あらゆる個人には善く在りたいという感情があるが、問題は誰も彼らを受け入れる用意がないということだ。そして彼らが自分を善いものとして受け入れる用意のある誰かに出会う時、どんなものが彼らの中で目覚めて上昇するのか、あなたは想像することができない。

 あなたはアメリカの女優グレタ・ガルボの名前を聞いたことがあるかもしれない。彼女はヨーロッパのある小さな国の貧しい家庭に生まれた。そして十九歳まで彼女は二束三文で床屋の手伝いの仕事をしていた。彼女が泡立てていたその髭のアメリ力人旅行者が、鏡に映った彼女の顔を見て言った。「非常に美しい。あなたの顔は非常に美しい。」グレタは彼に言った。「あなたは何をおっしゃっているのですか?私はこの仕事を六年もやってきましたが、私を美しいだなんて言ってくれた人はこれまで誰もいませんでした。何をおっしゃっているのですか?私は本当に美しいのですか?!」

 そのアメリカ人は言った。「あなたは非常に美しい。こんなに美しい女性を私はめったに見たことがない。」それからグレタ・ガルボはその自叙伝にこう書いている。「まさにその日、私は初めて美しくなった。一人の男性が私を美しいと言ってくれた。私自身はそれに気づいていなかった。その日、家に帰って鏡の前に立った時、私は自分が完全に違う女性になっていたのに気づいた。」

 十九歳まで床屋の手伝いをしていたこの少女は、後にアメリカの最も偉大な女優になった。そしてそれに対する感謝の相手としては、彼女には初めて彼女に美しいと言ったそのアメリカ人しかいなかった。彼女はこう言った。「もしこの男性がその日、私にこのわずかな言葉を言ってくれなかったら、私はたぶん生涯床屋の助手のままだったでしょう。私は自分が美しいなどとは全く思ってもいませんでした。」彼がそれを全く何気なく言ったに過ぎない、ということはありえる。彼は単に儀礼的だった、ということはありえる。そしてこの男性は自分の言ったことに気づいてさえいなかった、それはさりげない意見に過ぎなかったのかもしれない、という可能性はある。そして彼は、自分から出たその単純な言葉が、ある女性の中に美しさのイメージを誕生させ、眠っていたものをどういうわけか彼女の中に目覚めさせたことを感じてさえいなかったかもしれない。

 あなたがその人々のために何かをしたいと望むなら、その人々の中に眠っているものを目覚めさせることが必要だ。そのため彼らは何であるかよりも、彼らは何であることができるか、にもっと焦点を合わせることが必要だ。もしあなたに為すべき大きな仕事があり、助けなしにはどんなワークもすることができなくて、私が助けになるあれこれを得るようにとあなたに言うなら、あなたは「しかしあの人間は悪いです。彼は不正直で信頼できません。」と言うかもしれない。

 その人間が悪いとか不正直だというのはかまわない。誰がそうではないだろう?そして問題は、彼は何であるかではなく、むしろ彼は何であることができるか、にある。もしあなたが彼に何か大きなワークをしてもらうつもりなら、あなたは彼がそうなることのできた範囲内で、それを呼び起こさなければならないだろう。

 クリパラーニはガンジーのアシュラムで料理人としてよく働いていた。あるアメリカ人のジャーナリストがアシュラムに滞在していて、彼はこう尋ねた。「あなた方の食事を料理しているこの人はJ.B・クリパラーニのように見える。」クリパラーニは皿を洗っていて、彼は「この老人には驚いた!実際、私は料理人にしか向かない人間だったが、この人は言葉に言い尽くせない何かを私の中に目覚めさせた。」と言った。

 この目覚めは最も取るに足らない人間にさえ起こり得る。いったん私たちが彼を呼び起こすなら、彼の魂の中に眠っているものを近くに引き出して彼を信頼するなら、いったん私たちが彼の中で眠っているものに呼びかけて、それに対して挑戦を作り出すなら、多くのものが彼から出てくることができる。そしてあなたは最も偉大な人間でさえ意気消沈させることができる。最も偉大な人間にお前はつまらない人間だと言ったら、そしてこれを彼が色々なところで度々聞いていたとしたら、疑いなく彼はつまらない人間になるだろう。

 だからもし精神(スピリチュアル)革命がこの国で大規模に実行されるとしたら---そしてそれが起こることは絶対に必要だ---そしてもし私たちにそのための道を開く以上のことができなくても、それだけでも充分だ。なぜなら誰か他の人がそれを完成させるだろうからだ。誰を通してそれが起こったところで、何の違いもない。要点は、それが私たちだけを通して起こらなければならないということではない。そうではなく、もし私たちがその道さえ開くことができ、そうして後ほど、いつの日か革命がそれを受け継ぐことができるなら、それで充分すぎるくらいだ。問題は既に対処されている。

 だからもしそれが為されるべきなら、非常に包括的なグループが形成されなければならない。組織は決して包括的ではあり得ない。友人たちのグループは非常に包括的で、非常に広範に及ぶものであり得る。なぜならその中に多様性を受容できるものがあるからだ。誰も強制されたりコントロールされない。グループの中では誰もが自由であり、誰もがコントロールされるべきではない。なぜなら知性的な人が自分はコントロールされつつあると感じ始める時はいつでも、彼はそれによって苦しめられるからだ。知性的な人は誰も束縛されることを喜ばない。

 劣等感のある人々はコントロールされることを望む。劣等感に満ちている人だけが足枷をはめられたがっている。他の誰もそんなことを望む者はいない。そのためこのグループは、誰かが中に入って来た時、自分はどこかに入ってしまった、自分はどこかに縛り付けられた、と感じることさえないほど開かれたままにしなければならない。彼は自由を感じるべきだ。彼が中に入ろうが外へ出ていこうが、それが彼に違いを感じさせないように、またはそれが何らかの違いを作ったと感じさせないようにすべきだ。

 私はそのようなグループが起こってほしい、友人たちのそのような包括的なグループが起こってほしいと思っている。なぜなら最初、革命のために集まる人々は、それがどれほど大きな革命になろうとしているのかに気づいていないからだ。レーニンの仲間たちは、一九一七年に起こったことがあのような広範囲の現象になるとは思っていなかった。ヴォルテールと彼の仲間たちも、フランス革命が何をもたらすのかを知らなかった。ガンジーと彼の友人たちも何が起こるのか、あるいは起こらないのかを知らなかった。キリストはそこで何が始まっていたのかを全く知ることはできなかった・・・。キリストにはわずか八人の友人がいただけで、その彼らもあまり教育を受けた人々ではなく、ただの野人にすぎなかった。ある者は大工であり、ある者は靴職人であり、ある者は漁師だった-----教育を受けた人々ではない。キリストにはそれが非常に広大な革命になることを、いつか世界の半分が彼のメッセージを認知する日が来ることを想像する方法さえなかった。彼はそれを想像することさえできなかった。

 最初に種を蒔く者は誰も、その樹がどれほど大きくなるかなど想像さえしない。それが想像されたなら、そのワークは考えられないほど美しいものになっていただろう。

 ますます多くの人々と国中で出会っているうちに、私はこのワークは巨大なバンヤン樹に成り得ると感じ始めた。何千人という人々がこの樹の下に日陰を見つけることができるだろう。それは何百万という人々の渇きを潤すことができるほどの巨大な泉に成り得る。だがこのことは、最初にここに集まった友人たちにはまだはっきりしていない。もし彼らがそのことに気づくことができたら、おそらく彼らは組織化されたやり方でワークを始めるかもしれない。

 最近、私はある科学の本を読んでいた。ロシアでは道路を建設する時、百年間にどれだけ多くの人びとがその道路を使うことになるかを計画し、それからそれに応じて道路を造るという。それからここでの私たちだが、私たちもこの国で道路を造るが、二年間にどれだけ多くの人々がそこを旅するのかすら考慮しない。だから、二年毎に道路をまた掘り起こして幅を広げなくてはならない。そして五年毎に私たちは、交通量が増えてその道路がもはや適当ではないことに気がつく。私たちは目が見えないのだろうか、どれだけ多くの人々がその道路を使うか、算定すらできないのだろうか!百年後の特定の街にどれだけの人びとがいるか、百年後にどれだけ多くの人々がその道路を使うことになるか、そして百年後にその道路がどれほどの広さである必要があるのかを計画することができ、それで現在はそれに沿って建設したほうがいいと決定する彼らは驚くべき人々だ。

 先見の明を持つ人たちのワークは容易になり、再発する困難も少なくなる。

 ただ今(1967年)は友人たちのグループは小さいが、十年という時間でそれはあなたが想像もできないほど大きくなっているかもしれない。だから私たちはそれをふまえてワークをしなければならない----その可能性に適応させるに十分な広さの道路を造らなければならない。十年という時間では、見知らぬ人々がこの道を歩いていることだろう。
 あなたはここにいないかもしれない、私はここにいないかもしれない、私たちの誰もここにいないかもしれないが、誰かはこの道を歩いていることだろう。だから私たちは、ワークをしている間それを頭に入れておかなければならない。そして私たちは、自分たちが貴重なのではないということも覚えているべきだ。貴重なのは私たちが創っていて、私たちがその生涯を捧げているこの道だ。もしそれが大きくて充分に広いなら、多くの人々がその上を歩くことができるだろう。

 私たちはこれらの点を詳細に考慮する必要がある。私は私たちが次の日に検討する問題の周辺にあるわずかな事柄についてちょっと言及しただけだ。そしてそれについて何ができるかを調べるには、それらの点をそれぞれ詳細に熟慮することが必要だ。細部についての私の理解はごく限られたものだ。それらのことについては、私よりあなた方のほうが理解がある。

 私があなた方に話すことができるのは、それについて考えておく必要があるいくつかの中心的要点だ。だが私は細部についてはほとんど何の理解もない。物事をどのように行うべきか、それをするのに何人の人間が必要になるか、どれだけの金が必要になるか、どれだけの労働が必要になるか。こういうことはすべて、たぶんあなた方のほうが私より良く知っている。それをどのように実用的な形にさせるか、どの程度までそれを扱うか、そのすべてについては確かにあなた方のほうが私より知っている。私はそのABCも知らない。

 それが、私が自分の考えをあなた方に話そうと、そしてあなた方の考えも聞こうと思った理由だ。そしてこの二組の考えの間で、それらが合体することで、おそらくは何かが可能になるかもしれない。私はあなた方に天上のことについていくつかの事を話すことはできるが、地上のことはあまり知らない。そして天上だけの話には、あまり価値はない。根は大地の中に入らなければならないし、大地から水と栄養を受け取らなければならない。だから私は、樹はどのように天上に広がることができ、そしてそれはどのように開花できるかを話すだろうが、あなた方は根について少し考えなければならないだろう。そして覚えておきなさい、花は根ほど重要ではない。花は根に依存しているのだ。

 ではこの樹が成長できるように、私たちはこのワークにどんな根を与えることができるだろう?私は、それがより大きく成長しようとしまいと、私の全ての努力とエネルギーをそれに与えるつもりだ-----私はそれをしている。それは私のためのワークではない。それは私の喜びであり、私の至福だ。私に仲間がいようといまいと、どんな違いもない。それは同じ様に続くだろう。だがもし仲間がいたら、このワークは広大なものになり得て、多くの人々のところに届くことができるかもしれない。

 私はこれらの二、三の要点についてあなた方にいくつかのことを言った。今やあなた方がそれに何らかの考えを示す番だ。詳細なことまで、何ができるか、どのようにそれをすることができるか?まったく開いた心でそれに対する何らかの考えを示してほしい。それから私たちはここでそれについて話し合おう。明日の朝、あなた方の全ての意見は求められ、それを言い表し、それについて検討し、それから決定に至る。

 私がここで行なっているキャンプは小さなキャンプだ。だがその時には、このワークに関心をもった全国からの私の友人すべてのためのキャンプを準備することを考えることになるだろう。このキャンプは実験的なものだ。それはより少ない人数のほうが、より容易に結論に達することができるからだ。大きな数の人々では、おそらくそれほど簡単ではないかもしれない。

 だから私たちは熟慮すべきであり、そのあとでもう一度全国から人々が集まれるキャンプを開催すべきだ。その人たち全員が互いに会うことも必要だ。彼らが互いに知り合うことが必要だ。彼らは自分の地域でワークをしている。あなた方の協力と激励が彼らのワークのために必要だ。彼らはそこで孤独を感じるべきではない。彼らは、全国にはもっと多くの友人たちもいること、自分たちは一人でどこかに立っているのではないこと、自分たちには旅の仲間がいること、そしてその仲間みんながもし助言を与えるために自分たちと共にある必要があったら、または為すべきワークがあったら、その仲間たちはやって来て助けてくれるだろう、と感じるべきだ。

 最近、ラジコットにいる友人が私に言ったことだが、彼らは私がまだ行ったことがない都市や場所で私のメッセージを広げたいと望んでいる。そして彼らは私がそこに行くことができるような基盤を作りたいと望んでいる。

 それは必要になってきた。私が新しい都市に行く時、何百または何千という人々が私の言葉を聞きに来る。もし何らかの準備作業が前もってなされていれば、一万人、五万人の人々が私の言葉を聞くことができるかもしれない。

 別の地域の友人たちは別の提案をしてきている。彼らの提案は非常に重要であり、非常に有益だ。それらの友人たちみんなが、この状況を考えるために会うことができる。この会合はそれが起こるための基礎になるだろう。だから今のところは私はこれ以上は何も言わない。明日の朝から私たちはその詳細について討論し始めよう。そしてあなたは私の話を聞くためにここに来たのではないことを心に留めておきなさい。これは私の講話のための集まりではない。私はあなたも話すことができるように、自分が話せるだけのことを話した。私は演説をしてきたのではない。それはただあなたが考え、話し合うように励ますためのものだった。

 そしてその考えは、私たちがワークを順番に終わらせるという断固たる決断に基づいて前進できるように、この二日間で私たちが集団的に考え熟慮して何らかの結論に至ったものだ。




    






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