途上にある者、彼らには覚悟が必要だ。途中の落とし穴について、彼らは知らされていなければならない。
 この道は単純ではない。たくさんの場所でたくさんの道が枝分かれしている。
 行き止まりになる道を選ぶこともありうる。
 だが、そこが行き止まりであることがわかるのは、何年も何年もたってから、
 ときにはいくつもの生涯を経てからだ。
 するとあらゆる努力、すべての旅が無駄になり、メインロードから迷ったその地点まで、
 もう一度戻らなければならないことになる。しかもそこに里程標はない。
 手に入る決まった地図など何もなく、作ることもできない。神は変化しつづけるからだ。
 神の存在とは絶えざる変化だ。変化すること以外、何もかも変化しつづける。
 だから決まった地図などありえない。
 与えることができるのはヒントだけだ。これはヒントだ。
 そのヒントがわかれば、あなたは正しい道に従うことができ、誤る可能性があるときにはいつでも、
 その理解があなたを助けてくれる。



 ○無力感を感じてはいけない

 まず、急いではいけない、そして絶望してはいけない。
 今日失敗しても、無力感を感じてはいけない。
 今日失敗しても、それは自然なことだ。何日か失敗しつづけても、それは自然なことだ。
 そして当然だが、内なる世界に入って行くためには、何度も失敗しなければならないだろう。
 あなたは、まだ一度もそこに行ったことがないのだから。
 あなたが持っている技量と能率はすべて、外の世界での活動に関するもの、外向的なものだ。
 あなたは内側に入る方法を知らない。

 人びとは「内に入る、内に向かう」ということばを耳にするが、それはその人たちにはあまり意味を持っていない。
 彼らが知っていることはすべて外に出る方法、知っていることはすべて他人に向かうことだ。
 人びとは自分自身に行き着く道など知らない。失敗は起こらざるを得ない。
 過去の習慣のせいで、あなたは何度も失敗することになる。
 希望をなくしてはいけない。成熟はゆっくりとやって来る。
 成熟は確かにまちがいなく来るが、それには時間がかかる。
 そしていいかね、その人その人でそれは違うぺースでやって来る。

 だから比較してはいけない。
 「あの人はあんなに静かに、あんなに喜びにあふれてきているのに、私はまだそうなっていない。
 私はどうなっているのか?」と、考え込んではいけない。
 誰とも比較してはいけない。ひとりひとりが過去世において別な道を生きてきている。
 この生涯においてさえ、人びとは違った生き方をしてきている。
 だからそれは、あなたの技量、あなたのマインド、あなたの条件付け、あなたの教育、
 あなたが育てられてきた宗教、あなたが読んできた本、あなたが一緒に生きてきた人びと、
 あなたが自分のなかに生み出してきた波動に依存することになる。
 それは数えられるかぎりの、千とひとつのことに依存することになる。
 だが、それが来ることは確かで、まちがいはない。

 必要なことはただ忍耐、黙って実行すること、辛抱強く実行することだ。
 すると集中が起こり、成熟がやってくる。
 それどころか、成熟している人と集中している人とは、同じ現象のふたつの側面にすぎない。
 子どもたちが集中できないのはそのためだ。
 子どもたちは絶えず動いている。子どもたちはひとつのところにじつとしていることができない。
 あらゆることが彼らを惹きつける。車が通り過ぎた、小鳥の声がする、誰かが笑いだした、
 近所の人がラジオをつけた、蝶々が飛んでいる。あらゆることが、全世界が彼を惹きつける。
 子どもたちは、ただひとつのことから別のことに飛び移るだけだ。
 子どもは集中できない。
 子どもは、ほかのすべてが消えてしまうほどに、存在しなくなってしまうほどに、
 ひとつのことを完全に、全身全霊で生きることはできない。

 成熟とともに集中が起こる。成熟と集中はひとつのことのふたつの名前だ。
 だがまず覚えておくべきことは、それがゆっくりとやって来るということだ。
 比較しないこと、急がないことだ。

        
Osho, The Secret of Secrets, Vol.2-1、「黄金の華の秘密」第9話:大地が明るい春を迎える P311〜



 ○リラックスしなさい

 2番目は、一旦内に向かう道に従うと決断したら、一旦サニヤシンになると、
 瞑想者になると決意したら、一旦、いまや内なるものが自分を呼んでいる、
 「私は誰か?」の問を探索し探求しようと決意したら、
 覚えておくべき第一のことは、緊張するような方法を選ばないということだ。
 ごくリラックスした方法を選びなさい。必ず自分の内なる旅を快適なものにしなさい。
 今度は、これがこの上もなく重要なことだ。
 通常、誰にもこの最初のまちがいが起こる。

 人びとは自分の内なる旅を不必要に複雑で不快なものにし始める。
 これが起こるには、ある理由がある。
 生活のなかで、通常人びとは他人に腹を立てている。通常の生活で、彼らは他人に対して暴力的だ。
 普通の外向的な旅のなかで、彼らはサディストだ。
 他人を苦しめることを楽しみ、他人を負かすことを楽しみ、他人を凌駕すること、
 他人を征服することを楽しむ。彼らの喜びはひたすら他人に劣等感を持たせることにある。
 これがあなたたちの外交的な旅のなんたるかだ。
 人が内側に向かうとき問題が起こる。この怒り、敵意、攻撃、暴力をどうするか? 
 今度は彼は独りだ。つまり、彼は自分自身を苦しめ始め、自分自身に腹を立てることになる。
 それがあなたたちのいわゆるマハトマたちだ……。

 外の世界に向かう旅はサディズムの旅だった。
 内側に向かう旅はマゾヒズムの旅になる。自分自身を苦しめ始める。
 そしてそこにはある密かな喜び、自分自身を苦しめることの倒錯した喜びがある。
 歴史を調べてみればあなたは驚くだろう。人間が自分に対して何をしてきたかが信じられないだろう。
 あらゆる愚かしさが起こりえたのは、単純なまちがいのせいだ。
 そしてそのまちがいとは、人生で、あなたは他人の生をむずかしくしようとするということだ。
 内側に向かい始めると、この古いマインドが自分の生をむずかしいものにしようとする可能性がある。

 いいかね、内なる探求者は快適でなければならない。
 快適な状況でしか、リラックスした状態でしか、何事も起こりえないからだ。
 緊張した不快な状態では何も起こりえない。
 緊張し、不快な状態にあれば、マインドは心配し、あなたは静かな空間のなかにいない。
 お腹がすいていて、どうして静かなスペースになどいられるかね?
 ところが人びとは断食することを教えてきた。そして彼らは断食が瞑想する役に立つと言う。
 時には、断食がより健康になるのに役立つことがあるだろう? 肉体から数ポンド、ぜい肉を取ってくれる。
 だが、断食は瞑想の助けにはなりえない。真んなかにいること、中庸こそが正しい道だ。
 飢えを感じないように食べたらいい。
 しかし食べ過ぎて眠くなるほどには食べてはいけない。それで瞑想は容易になる。
 中庸はあらゆる道、あらゆる状況で従われなければならない。

 居心地良くしなさい、くつろぎなさい。自分を苦しめる必要はない。
 無用な困難を作る必要などない。怒りの、暴力の、攻撃の思い(マインド)を捨てなさい。
 そうして初めて内側に入って行くことができる。
 くつろいだ意識のなかでこそ、人はもっともっと内側に漂って行き始めるからだ。
 全面的なくつろぎのなかで、人は最奥の核に到達する。

       Osho, The Secret of Secrets, Vol.2-1、「黄金の華の秘密」第9話:大地が明るい春を迎える P319〜



 ○即席の悟りを求めてはいけない

 3番目に、あまり多くを要求してはいけない。
 なぜならあまり多くを要求すれば、緊張して不安が起こってくるからだ。
 ほんとうは、何ひとつ要求してはいけない。ただ待ちなさい。
 ただハートのなかに種を蒔いて、実行を始めなさい。春を待ちなさい。

 ところが人びとはあまりにも多くを要求し始める。
 彼らはすぐに悟りを、サマーディを求める。彼らはすぐにニルヴァーナ(涅槃)を求める。
 ときどきそれが起こる。馬鹿な人びとが私の所にやって来て、
 「7日間瞑想したのに、まだ何も起こりません」と言う。
 7日間? 7千万回もの生涯にわたって、瞑想と反対のあらゆることをしてきているというのに!
 それを7日間で……、まるで神や私に貸しでもあるかのようだ。
 彼らは不平を持ってやって来る。
 「何ひとつ起こりません。7日間も経ちました。あとキャンプは3日しか残っていません。
 それなのに私たちはまだ光明を得ていません」

 あまり多くを求めてはいけない。あまり欲張らないことだ。もう少し理解しなさい。
 何事にも時間がかかる。結果を思い煩う必要はないことを、覚えておきなさい。
 それは必ずあなたの必要に応じている、そしてあなたに値することが起こっている。
 なんであれ、あなたがそれに対して準備ができていることが起ころうとしている。
 それが起こっていないのだとすれば、それはただあなたにその準備ができていないということだ。
 その準備をしなさい。それを要求しても役には立たない。
 ただ、自分がまだそれに値しないのだということを覚えていなさい。
 そしてもっと自分のハートをきれいにし、もっと集中し、もっと瞑想し、もっと静かになり、
 もっとくつろぎ、もっともっと内側に同調しなさい。
 そして待ちなさい。なぜなら、ハートとエネルギーが協力するとき、結果はおのずから従うからだ。

 種を蒔いたら、毎日地面を掘り起こして種がどうなっているかを調べる必要はない。
 そんなことをすれば種を駄目にしてしまう。何も起こらなくなる。
 あなたはただ待つだけだ。何か月も何も起こらない。
 それでもあなたは水をやらなければならない、肥料をやらなければならない、
 世話をしつづけなければならない。何か月もの間、何ひとつ起こらない。
 そしてある日突然、ある朝早く、奇跡が起こる……種が芽を出す。
 小さなふたつの葉が出てくる。奇跡が起こったのだ。
 目に見えなかったものが目に見えるようになった……。
 だがそれはつねに、そのときにならなければ起こらない。

         Osho, The Secret of Secrets, Vol.2-1、「黄金の華の秘密」第9話:大地が明るい春を迎える P325〜



 ○瞑想のためのスペースを創りなさい

 4番目は、バラ園を準備しているなら、土を全部替えなければならないということだ。
 石は取り除かなければならない。
 古い切り株は取り除かなければならない。
 雑草は取り除かなければならない。
 正しい条件と守られた適切な空間を創らなければならない。
 まわりにフェンスをめぐらさなければならない。
 バラを育てるとなれば、こういう準備がすべて必要になる。
 瞑想とはバラだ。もっとも大いなるバラ、人間意識のバラだ。

 正しい条件とは何か、そして正しい空間とは何か?
 あなたは瞑想を深めるような場所を見つけるべきだ。
 たとえば、映画館の前に行って坐ったり、鉄道の駅に行ってプラットホームに坐ったりするよりは、
 樹の下に坐るのが役に立つ。
 タオが波動し、鼓動を打ち、まわり中に流れているような自然のなかに、
 山に、樹々のなかに、川に行くことだ。樹々は絶えざる瞑想の中にある。
 沈黙して無意識であるのがその瞑想だ。私は樹々になるように、と言ってはいない。
 あなたは覚者(ブッダ)にならなければならない!
 だが仏陀には、ひとつ樹々と共通していることがある。
 彼は樹と同じように緑で、樹と同じように潤いに満ち、樹と同じように祝っているということだ。
 もちろんちがいもある。彼は意識しており、樹は無意識だ。

 だが、もしあなたが樹のそばで、さえずる美しい小鳥たちに囲まれて、あるいは踊る孔雀、
 あるいはただ音高く流れる川のそばで、あるいは滝のそばで、その大いなる音楽に囲まれて坐ったら……。
 もしできたら、家のなかに瞑想のための特別な部屋を持ちなさい。
 ほんの片隅でもかまわないが、瞑想のための特別な場所だ。
 なぜ特別なのか?なぜなら、あらゆる行為は固有の波動を生み出すからだ。
 その場所でただ瞑想するだけなら、その場所は瞑想的になる。
 毎日瞑想すれば、そこはあなたが瞑想状態にあるときの波動を吸収する。
 次の日あなたが来ると、その波動があなたに戻ってき始める。
 それが助けになる。それが返ってくる。それが応答する。
 聖なる場所とは、瞑想のための正しい場所、そして正しい条件にほかならない。
 ひどく腹が立っていれば、それは瞑想すべき時ではない。それでは流れに逆らうことになる。
 非常な貧欲を感じているなら、それは瞑想すべきときではない。
 瞑想するのはやさしくはないだろう。しかし瞑想にたやすく手がとどきそうな瞬間がある。
 太陽が昇り始め、あなたはその昇る太陽を見た。
 すると突然あなたのなかですべてが静かになり、あなたはまだ市場の一部にはなっていない。

 これこそが瞑想すべき時だ。
 あなたは気分よく、健やかな感じがしており、今日は誰とも闘っていない。これこそが瞑想すべき時だ。
 友だちが来て、あなたは愛に満たされる。これこそが瞑想すべき時だ。
 あなたは女性といっしょにいて、ふたりは途方もない幸せを感じている。
 いっしょに坐り、そして瞑想する。
 そして愛する人と、自分の友だちといっしょに瞑想することができれば、
 人生最大の喜びが起こっているのに気がつくだろう。
 正しい状況を見つけなさい、そしてそれはいつでも手に入る。
 正しい状況を見つけることができない者などただのひとりもいない。
 24時間のなかにはごく容易に瞑想に変容しうる瞬間がたくさんある。
 そういう瞬間は、人は自然に内側に向かっているからだ。
 夜、星がいっばいに出る。地面に横たわって、星を見上げ、同調するものを感じ、それから瞑想しなさい。
 瞑想しようとしている時には、電話の受話器を外し、自分を世間から離しなさい。
 1時間、誰もノックしてはいけない、自分は瞑想している、ということをドアに掲示しておきなさい。
 そして瞑想室に入る時には靴を脱ぎなさい。あなたは聖なる地を歩んでいるのだから。
 そして靴を脱ぐだけでなく、それまで心を占領していたものをすべて脱ぎなさい。
 靴といっしょにあらゆるものを意識して脱ぎなさい。
 何ものにも占領されずに、なかに入りなさい。
 24時間のなかから1時間を取ることはできる。
 23時間を自分の仕事に、欲望に、思考に、野心に、計画に与えたらいい。
 こういうもの全部から1時間を取り出しなさい。
 すると最後には、その1時間だけがあなたの人生の真の時間だったことがわかるだろう。
 他の23時間は、ただただ無駄だった。
 その1時間だけが取っておかれ、そのほかのすべては溝(どぶ)に流されてしまう。

                  
Osho, The Secret of Secrets, Vol.2-1、「黄金の華の秘密」第9話:大地が明るい春を迎える P327〜



 ○正しい姿勢

 5番目に、正しい姿勢をあまり気にしすぎてはいけない。
 そうでないと、ある特定の姿勢で坐らなければならないということが、ひとつの思い込みになってしまう。
 そう、坐れるならそれでいい。だが、それが無用な思い込みになるようなら。それは捨てなさい。
 たとえば、蓮華座(結跏趺坐)ができなければ、
 ずっと椅子に座ってきている人たちには、それはむずかしい。
 それがむずかしいのは、その人たちの筋肉がそういうふうに発達しているからだ。
 そうなれば、足の具合が悪くなる。足がしびれるか、あるいは何か問題を起こし始める。
 絶えずそればかりが気になり始める。だから無理に結跏趺坐する必要はない。
 結跏趺坐は、簡単にできるならいいものだ。そうでなければ、どんな姿勢でも蓮華座だ。
 地面の上に坐れないなら、それがむずかしいなら、椅子に坐ったらいい。
 瞑想は椅子を怖がってなどいない。それはどこでも起こりうる。
 つい先日もレヌが質問をした。「ゆり木馬の上で光明を得ることはできますか?」と。
 それは起こりうる。光明はゆり木馬の上でさえ起こりうる。そんなことを心配する必要はない。
 ただちょっと注意すればいいだけだ。それだけだ。
 だがあまりそういうことを心配しすぎてはいけない。
 背骨が真っ直ぐ立っているかどうか、頭が背骨の真上にあるかどうかなどと……。
 そういう細かなことをあまり気にしすぎてはいけない。そういうことはたんなる目安にすぎない。
 それを理解しなさい。それを呑み込んで、そして自分の道を行きなさい。
 自分自身のやり方を見つけなさい。
 覚えておくべき基本的な注意は、居心地よくリラックスしていなければならないということだ。

        Osho, The Secret of Secrets, Vol.2-1、「黄金の華の秘密」第9話:大地が明るい春を迎える P331〜
 


 ○真ん中にいなさい

 6番目に、人はまさに真ん中にいなければならない。
 人びとはあまりにも行動的になるか、あるいはあまりにも無為になるかのどちらかだ。
 あまりにも行動的になれば、不安が生まれる。
 一種の焦り、忙(せわ)しさ、速さ、落ち着きのなさが生まれる。
 あまりにも無為になれば、眠りが、一種の無感覚、怠惰が生まれる。
 真ん中にいなさい。この真ん中にいるということが、つねに用いられるべき判断基準だ。
 あまり多く食べてはいけない。あまりに飢えてもいけない。寝すぎてはいけない。
 必要より寝足りなくてもいけない。いつでも真ん中にいることを覚えていなさい。
 極端はよくない。あらゆるたぐいの極端は捨てなければならない。
 それは、真ん中にしかマインドのリラックスした状態はないからだ。
 もしこのようなバランス、努力と無努力のあいだに、目的と無目的のあいだに、
 存在と不在のあいだに、マインドとノーマインドのあいだに、行為と無為のあいだに、
 このようなバランスを達成できたら……、
 その時あなたは、ものごとが流れるのといっしょに自分が流れるのを許すことができる。
 あなたは自分を手放すことができる。

        Osho, The Secret of Secrets, Vol.2-1、「黄金の華の秘密」第9話:大地が明るい春を迎える P333〜




 ○ユーモアの感覚

 いいかな、宗教的な人物にとって最大の問題は、深刻(シリアス)にならないということだ。
 宗教的な人物にとって最大の問題は、悲しくならないということだ。
 宗教的な人物にとって最大の問題は、否定的(ネガティブ)にならないということだ。
 なぜなら、普通はそれが起こるからだ。
 宗教的な人物は非常に悲しく、非常に深刻に、非常に生否定的になる。
 彼らは春についてすべてを忘れてしまい、枯れ木と燃え尽きた灰のことだけを考える。
 彼らはバランスを失っている。
 真に宗教的な人物とは、ユーモアの感覚を知っている人だ。
 真に宗教的な人物は誠実だが、けっして深刻ではなく、自分の仕事に完全に献身的だが、
 それはけっして「我は汝よりも神聖なり」という姿勢ではない。
 決して。それによって何かの優越感を感じるということは決してなく、謙虚だ。
 真に宗教的な人物とは、風や雨とともに踊ることができ、
 子どもたちとともに笑ったり微笑んだりすることができ、
 生のあらゆるたぐいの状況を楽な気持ちで受け止めることができる人だ。
 それは自由、自我(エゴ)からの自由だ。エゴは人を深刻にする。
 あまりにも深刻になると、あなたは暗闇の世界、否定的な世界に沈み込んでしまう。
 いいかな、あなたは冷たくなるべきではない。
 いわゆる聖者たちが非常に冷たいのに気がついただろう。彼らは要点をそっくり誤解している。
 クールになるのはいいが、決してコールドにはならないこと。
 このふたつの間には多くのちがいがあり、そこには非常に深い逆説(パラドックス)がある。
 私は、それを「クール」と呼ぶ。情熱の熱っぽい状態と比べたらそれはクールだが、
 死の冷たさと比べたらそれは温かい。
 死の冷たさと比べたら温かだが、生を求める情熱的な渇望と比べたらクールだ。
 それは温かくもあり、またクールでもある。
 真に宗教的な人間は、渇望を持っていないがゆえにクールであり、
 また彼は悲しくなく、深刻ではないがゆえに温かい。

         Osho, The Secret of Secrets, Vol.2-1、「黄金の華の秘密」第9話:大地が明るい春を迎える P334〜



 ○闘ってはいけない、分析してはいけない

 人は流れてゆく思考から離れているべきだ。
 それらはやって来て、いたるところからあなたを包む。それはまるで雲のようだ。
 ほんのわずかの青空も失われてしまう。
 そして思考があまりにも多くなったとき、瞑想とは無思考の状態を意味するのだと本で読んでいるあなたは、
 自然の本能からそれと闘おうとする。
 が、人は闘いによってはけっして無思考にはならない。闘ったら負けてしまう。
 そのまさに闘いが、あなたの敗北の原因になる。
 影と闘うことはできないし、それをやったら、あなたの負けだ。
 試しに自分の影と闘ってみなさい。あなたは負けてしまう。
 それは影が非常に強力だからではなく、影が存在しないからだ。
 存在しないものと闘って、どうして勝つことができるだろう?
 思考は影なのだから、それらと闘ってはいけない。
 そして闘わない時、もうひとつの選択の可能性が開かれる。精神分析が選んだのがそれだ。
 その時は、それらとともに動き、それらをどこであれ行きたいところに行かせる。
 「思考の自由連想」と呼ばれているものだ。
 そうすると、ひとつの思考がもうひとつの思考と結び付き、それがもうひとつの思考と結び付き、
 それがさらにもうひとつの思考と結び付き、それが永遠に、吐き気がするほど延々とつづいてゆく。
 これはある種のリラクセーションのように感じられる。
 人びとが、精神分析を終えたあとに、助けられた、救われたと感じるのはそのためだ。
 彼らは救われていないし、助けられていない。
 闘争が消え失せただけだ。
 というのも、闘えば緊張するからだ。闘っていないとき、緊張は消え失せる。
 そしてその緊張の消失が、あなたに、まるで救われたかのような感覚を与える。
 それはいい感じがする。
 自分の思考と闘ってそれに勝てないとなると、あなたは闘いを落として、思考が動くのを許し、
 自分もそれとともに動き始めるが、それはよい感じがするものだ。
 それが精神分析のすべてだ。精神分析はまったく助けにはならない。
 闘いを落とすことを助けるので、それはあなたをよい感じにさせるが、ただそれだけのことにすぎない。
 闘う必要はないし、思考を許して、その追従者になる必要もない。

 あなたは見守る人、目撃者にとどまるがいい。
 主人が呼び戻されねばならない。あなたは召使ではなく、主人であるべきだ。
 主人の資質とはなんだろう?
 目撃者でいることが、主人でいることだ。それらの思考をただ見守りなさい。
 完全に穏やかに静かになって、見守りなさい。
 それが来るのもいいし、去るのもいいし、起こるのもいいし、消え去るのもいい。
 あなたはただ注意をしている。思考が起こってきて、思考がそこにあり、思考が行ってしまう??
 まもなく、あなたはだんだんと思考が起こらなくなる地点にやって来る。
 そしてある日、隙間(ギャップ)が……、すべての思考が消え失せる。
 その隙間のなかで、最初の神性の体験が起こる。

         Osho, The Secret of Secrets, Vol.2-1、「黄金の華の秘密」第9話:大地が明るい春を迎える P336〜



 ○瞑想をあなたの渇きにしなさい

 人びとの99パーセントは、瞑想が話題になっているのでそれを始める。
 それが流行になるような時代がある。アメリカはそういった時期を通過している。
 瞑想が話題になる。誰もが瞑想をやっている。
 それをやっていないのだとしたら、あなたはなにか大事なことを見逃している。
 あなたはそれにいかなる必要も感じないし、それはあなたの存在のなかに起こってきていないし、
 瞑想がひとりでに起こる進化の地点にまでは到達していない。
 が、誰もがそれをやっており、誰もが師のもとに行っているし、誰もが静かに坐っている。
 誰かは座禅をやっており、誰かはTMをやっているし、誰かはダイナミックをやっている。
 あなたはなにかを見逃しているにちがいない。
 それで強欲が起こってくる。その強欲から、あなたは努力をし始める。
 それは瞑想のための努力ではない。
 その努力は、自分が瞑想からえられると思っているなにかをえようとする努力だ。
 こういった時期が来ては去る。こういった熱狂が起こっては消えてゆく。
 こういったものは単なる流行にすぎない。
 真の瞑想者は、ほかの者たちが瞑想をやっているから来たのではなく、
 自分のなかに深い必要が起こったから。
 それが彼のハートを叩き、絶えざるノックになったからやって来た。
 全世界が無意味なように感じられる。
 彼は内側に入りたい。自分が誰であるかを知りたい。
 ほかの者たちが知っているからではない!
 たとえ誰ひとり瞑想を宣伝する者がいなくても、一冊の本も手に入らなくても、
 すべての本が焼き捨てられ、すべての師がヒマラヤの洞窟に行って、そこで隠れているとしても、
 それでも瞑想をする少数の人たちがいて、彼らは自分で瞑想の仕方を見つけ出す。
 彼らこそ真の瞑想者だ。そして彼らにとっては、瞑想はほかのことと同じように容易なものだ。
 それはまるで呼吸のようだ。

                               Osho, The First Principle



 ○瞑想は遊びだ

 瞑想を求めることができないのは、欲望がなくなって初めて起こるのが瞑想であるからだ。
 解放、ニルヴァーナを求めることができないのは、それが無欲の状態のなかでしか起らないからだ。
 それを欲望の対象にすることはできない。
 そして知っているすべての人たちにとっては、欲望はまさに世間だ。
 世間的な物事を欲望するからではない。欲望、欲望という現象そのものが、世間だ。
 あなたは遊ぶことができるし、そして遊びを通し、瞑想が遊びになった時に、あらゆることが可能になる。
 それもあらゆることがただちに可能になる。
 なぜなら、あなたはいらいらしていないし、せっかちではないし、まったく急いでいないし、
 どこかに行くわけではないし、どこに到達しようともしていないからだ。

 あなたは今、ここにいる。瞑想が起るなら、それでいい。
 起らなくても、それでもいい。
 欲望はなく、期待もなく、未来もないのだから、なにひとつまずいということはない。
 そしていいかな、瞑想と非瞑想が同じになった時、あなたに瞑想が起っている。
 あなたは到達している。いまや目的地がやって来て、究極なるものがあなたに降りてきた。
 これは奇妙に思えるかもしれない。
 が、私は言う??瞑想を練習にしてはいけない、むしろそれを遊びに、楽しみにしなさい。
 それをやっている時には、いかなる結果のためでもなく、ただそれを楽しみなさい。
 しかし私たちの心(マインド)は深刻だ、死ぬほど深刻だ。
 たとえ遊ぶ時でも、遊びを深刻なものにしてしまう。私たちはそれを仕事に、義務にしてしまう。
 幼い子どものように遊びなさい。
 瞑想テクニックとともに遊ぶなら、それらを通じてさらに多くのことが可能になる。
 深刻になるのではなく、それを遊びとして受け止めなさい。
 が、私たちはあらゆるものを深刻にしてしまう。遊んでいる時ですら、それを深刻にしてしまう。
 そして宗教に対して、私たちはつねにきわめて深刻だった。
 宗教が楽しいものだったことは一度もなく、そのため地球は非宗教的な状態にとどまってきた。
 宗教は楽しみとお祝い、祝祭にならなければいけない。
 瞬間の祝祭、何であれやっていることを楽しむ、というものに。
 それほどまでに、それほど深く楽しむ時に、心は止滅する。

                            Osho, Vigyan Bhairav Tantra



 ○瞑想はマインドに対立しない

 人はマインドに感謝しなければならない。
 それが敵としてではなく、友人として心を超えることの第一歩だ。
 私がいつも絶え間なく、心を超えなさいと言っているのを聞いて、あなた方が誤解に陥ることもありうる。
 私はマインドにとてつもない敬意を感じている。
 私たちは心に実に多くのことを負っていて、その感謝を返すすべはない。
 だから、まず第一に、瞑想は心に対立するものではなく、心を超えるものだということ。
 超越と対立は同義語ではない。
 この友情が深まれば、瞑想をしている時はいつでも、マインドは妨げにはならないだろう。
 というのは、瞑想はマインドに対立するものではないからだ。
 瞑想は実のところ、マインドの成就に、究極の開花になる。
 マインドを超えることは敵対的な姿勢を示すことではなく、友好的な進化になる。
 だから、これがすべての瞑想者の下地にならなければいけない。

 闘う人になってはならない。
 闘ったら、しばらくの間、マインドを黙らせることができるが、それはあなたの勝利ではない。
 あなたはそれを必要としているから、マインドはまた戻ってくる。
 それなしでは生きてゆけない。それなしで世界のなかに存在することはできない。
 マインドとの友好的な関係を作り出すことができたら、愛情の橋を架けることができたら、
 それは瞑想の障害になるよりは、むしろその助けになり始める。
 それはあなたの静寂を護るようになるが、それは静寂が単にあなただけのものではなく、
 マインドの宝物でもあるからだ。
 その土壌から瞑想のバラが花開き、土壌もまたバラと同じように幸せになる。
 自分のもっとも外側の部分である、肉体を愛するところから始めなさい。
 自分のマインドを愛するようになれば、自分のマインドを愛すれば、
 肉体を飾り立てるのと同じように、あなたはそれを飾り立てる。
 それをきれいに保ち、それを新鮮に保つ。
 他人からお前の肉体は悪臭がすると言われたい人はいないし、
 あなたも自分の肉体が他人から愛され敬意を払われるものであってほしいだろう。
 あなたがそこにいるということは、たんに我慢されるべきものではなく、歓迎されるものであるべきだ。
 あなたは自分のマインドを、詩で、音楽で、芸術で、偉大な文学で飾り立てるべきだ。
 あなたにとっての問題は、あなたのマインドがただ些細なものごとだけで占められているということだ。
 そういった三流のものごとがあなたのマインドのなかをめぐっているのだから、
 それを愛することはできない。
 あなたは偉大なものごとについて何ひとつ考えない。
 自分のマインドを偉大な詩人たちと、もっと調和させなさい。
 自分のマインドをフィヨードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイ、
 アントン.チェーホフ、ツルゲーネフ、ラビンドラナート、カリール・ジブラン、
 ミハイル・ナイミーといった人たちと調和させなさい。
 自分のマインドが、マインドが達したもっとも偉大な高みで満たされるようにしなさい。
 そうなれば、あなたはマインドに対して非友好的にはならない。
 そうなれば、あなたはマインドの中で喜び祝う。
 静寂のなかにマインドが入って来たとしても、それにはみずからの詩と音楽があるのだから、
 そういった洗練されたマインドを超えることは非常にやさしい。
 それはより高い峰々への好ましい一歩になる。
 詩は神秘主義に変わり、偉大な文学は偉大な実在への洞察に変わり、音楽は沈黙に変わる。
 そしてこれらのものがより高い峰々に変わり始め、マインドを超えるようになると、
 あなたは名前すら付けられていない新たな世界、新たな宇宙を発見するようになる。
 それを至福だ、歓喜(エクスタシー)だ、光明だと言うことはできるが、
 実際にはどんなことばもそれを説明できない。
 それはただことばの力の外側にあって、説明に、理論に、哲学におとしめることはできない。
 それはただ超えている……が、マインドはその超越のなかで喜び祝っている。
 それが私のあなた方へのユニークな貢献だ。絶対的な謙虚さをもって、私はあなた方に言いたい。
 私はゴータマ・ブッダすらも越えて、そのはるか先まで進んでいると。
 その単純な理由は、彼がいまだにマインドと戦っているからだ。
 私は自分のマインドを愛し、その愛を通じて、それを超越した。
 私の瞑想へのアプローチは絶対的に新しく、絶対的に新鮮だ。
 なぜなら、それは愛に依っているからだ。闘いにではなく、戦争にではなく。

 ただ愛だけが道だ。
 自分のマインドをできるかぎり美しくしなさい。それを花々で飾り立てなさい。
 私は人びとが「ミルダッドの書」を知らず、一度も荘子の不可解な物語に目を通したことがなく、
 禅の絶対的に非合理な物語を一度も理解しようとしたことがないのを見て、ほんとうに悲しくてたまらない。
 まず自分のマインドを飾り立てなさい。
 この芳しいマインドの庭園を超えて、はじめてあなたはいかなる闘いもなく、
 静寂のなかを進むことができる。
 マインドは障害ではなく、助けになる。
 私はそれを障害だと思ったことがない。
 だから、私は絶対的な権威をもって言う。マインドは障害ではない。
 あなたはただ、その使い方を知らないにすぎない。

                        Osho, The Great Pilgrimage; From Here to Here



 ○見守ることを自分のなかで育てなさい

 精神霊的な成長は技術的な現象ではないのだから、いかなる技法(テクニック)も障害になりうる。
 あなたは技法にしがみつき始めるかもしれない。
 それが何百万という人びとに起こっている。
 精神霊的な成長を探し求めているうちに。彼らは技法を与えてくれる教師に出くわす。
 技法は、彼らがもっと静まり、もっと穏やかに、もっと静かになり、
 大きな幸福(ウエル・ビーイング)を得るのを助けるが、
 そうなると技法は絶対的に欠くことができないものになる。
 彼らは技法を捨て去ることができない。技法を捨てたら、そのすべての体験も消えてゆく。
 たとえ何年も実践していた技法だったとしても、3日もしないうちに、すべての体験が消え失せている。
 技法はほんとうは精神霊的な成長を与えるのではなく、精神霊的に見える幻覚を作り出すのにすぎない。
 というのも、あなたは精神霊的な成長が何であるのかを知らないからだ。
 そしていいかな、目撃することは技法ではなく、それはあなたの本性だ。

 技法は何らかのものを作り出す。見守ることは、ただあるがままのものを開示する。
 むしろ逆に、それは引っ掛かっていたいくつかの幻影を破壊するだろう。
 充分に見守っていなかったせいで、あなたは一度もそれらが幻影的な現象であることに気がつかなかった。
 幻影は容易に作り出せるので、マインドはつねに技法を楽しむ。誰がその技法を使うのか?
 マインドが技法の主人になる。見守ることはマインドを超えている。
 マインドは見守ることができない。
 それはこの実在のなかにあって、マインドができない唯一のことだ。
 マインドがそれを汚すことができないのは、マインドがそれを邪道に導くことができないのは、そのためだ。
 幻覚のなかに生きて、見守ることの単純で自然なプロセスを一度も知ることがなかった多くの人たち、
 多くのいわゆる聖者、予言者、救世主たちがいた。

 どのようなテクニックにも巻き込まれない方がよい。
 見守ることはそれほど純粋だ。それを、ほかのいかなるものによっても汚してはいけない。
 そしてそれはきわめて全体的であり、きわめて完全であり、ほかの一切の支持を必要としない。
 が、マインドはいつもなにかの技法を欲しがる。
 なぜなら、マインドは技法なら操ることができるからだ。
 マインドはテクニシャンだ。テクノロジーがその得意分野だ。
 が、見守ることはコントロールを超えている。
 それはそれを超え、その上にあり、そして実際のところ、それはマインドにとって死だ。
 見守ることがあなたのなかで育ったら、マインドは死ぬ。
 そしてこれらすべての人びと、超越瞑想を教えているマハリシ・マヘシ・ヨーギのような人びとは、
 マインドが完壁な心地好さを感じるような技法を与えている。
 が、そこにはいっさい成長というものがない。
 これらすべての人たちは、技法を与えることよって、人類を搾取している。
 それは進化を停止させるものであり、ゆえに最悪の搾取だ。

 私はすべての技法に反対する。
 私はあなた方がすでに持っている、時おりあなた方も使うような、単純で、自然なプロセスに賛成する。
 腹を立てているとき、あなたはどうやって自分は腹を立てていると気がつくのだろう?
 そこにただ怒りしかなく、誰も見守っている者がいないとしたら、
 あなたはその怒りに気づくことができなかっただろう。
 怒りそのものには気づくことができない。
 だから、あなたは自分が怒っている時も、怒っていない時も、気分がよい時も、
 気分がよくない時も、それに気づいているということだ。
 が、この見守ることが、マインドのあらゆる位相に、一貫して、科学的に、深く、
 トータルに使われたことはなかった。
 私にとって、このことばには、瞑想のまさに本質が含まれる。

                          Osho, The Path of Mystic



 ○光明はおのずと訪れる

 光明は時を得て起こるものだ。
 光明に命令することはできないし、それを起こすこともできない。
 にもかかわらず、それを起こらせるためにできることが多くある。
 しかし何であれあなたが行なうことは原因として機能するのではない。
 なんであれあなたが行なうことが光明を起こすわけではなく、
 それが、あなたに受け容れる準備をさせるのだ。
 光明はおのずと訪れる。
 何であれあなたが行うことは、それを受け容れ、見きわめ、認識するための準備にすぎない。
 光明を起こすことはできない。
 光明はあなたを超えている。あなたが光明を起こすことができるなら、それはあなたより下にあることになる。
 あなたが光明を起こすことができるなら、それはあなたのエゴの新たな装飾にほかならない。
 あなたには、光明を起こすことはできない。
 光明が存在するためには、あなたが消えなければならない。
 だから世界中の経典を研究し、教養にあふれ、知識の豊富な人間になることはできても、
 光明には到達しないままだろう。
 実際は、それ以前よりもさらに光明から遠ざかってしまう。
 なぜなら、知識を持てば持つほど、さらにエゴを持つようになるからだ。
 禁欲的なテクニックを実践すればするほど、エゴは強化される。
 「あれもやったしこれもやった。何度も断食をしたし、数多くの誓いもたてた。
 これだけのことを行なったのだから……」
 やればやるほど、自分は光明を得ているにふさわしく、それを宣言できると思うようになる。

 光明は、探究によって見い出せるものではない。
 それはあらゆる探究が無意味だと気づいた時にやってくる。
 そして覚えておきなさい。私は、探究するなと言っているのではない。
 探究しないかぎり、探究が無意味だと知ることはないからだ。
 私は、瞑想するなと言っているのではない。
 瞑想しなければ、行為としての瞑想ではなく、訪れてくる瞑想が存在するということを、
 けっして理解することはない。
 瞑想はたんにあなたの目を浄化し、あなたをより明敏にするにすぎない。
 ハートは、より目覚め、気づきと愛にあふれ、感性豊かになる。
 あなたの存在は、以前は見えていなかったものを見るようになる。
 存在の内なる新しいスペースの探究を始めるだろう。
 毎日、毎瞬、何か新しいことが起こる。
 瞑想は、沐浴のようなものだ。それはあなたに新鮮さを与えてくれる。
 しかしその新鮮さは光明ではない。たんに道を整えているにすぎない。
 あなたが光明に到達することはない。
 それはつねにその逆だ。
 光明の方が、あなたに到達するのだ。

                      Osho, Enlightenment Comes When It Comes




   




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