死の瞬間に意識していること

 人は死の瞬間に意識したままでいられる前に、
まず痛みや苦しみに意識したままでいるための準備をする必要がある。
普通、惨めな中でさえ無意識になるような人にとっては、死の時に目覚めたままでいることは不可能だ。
人は惨めな時に無意識になる意味を理解する必要がある。
それは人に惨めな中で意識的になることの意味も理解させるだろう。・・・

 ・・・意識的な状態で死に入るための最大の準備は、まず意識的に痛みの中に入ることだ。
なぜなら死は頻繁には起こらないからだ。それは毎日やって来ない。死はたった一度だけ来る。
あなたがそのために準備をしていようがいまいが----。
死のためのリハーサルはあり得ない。
しかし痛みや惨めさは毎日やって来る。私たちは痛みや苦しみを経験する間に、自分自身を準備することができる----
そして覚えておきなさい。
もし私たちがそれらに直面している間にそうすることができるなら、それは死の時に役に立つことになるだろう。

 そのため、探求者は常に苦しみを歓迎してきた。他にその理由はない。
苦しみは良いものだ、ということではない。
その理由は単に、苦しみは自己準備、自己達成のための機会を探求者に提供するということだ。
探求者は常に自分が受ける苦しみのために神に感謝してきた。
それは、不幸の瞬間に、彼は自分の身体から自分自身を非同一化するチャンスを得るという単純な理由からだ。

 覚えておきなさい。サーダナ---精神霊的な訓練---は、あなたが幸せな時にそれに従うのは少し難しい。
あなたが惨めな時はより簡単だ。
なぜなら幸せな瞬間には、人は自分の身体から分離しているというわずかな感覚も持ちたくないからだ。・・・

 ・・・痛みの瞬間には、人は自分が身体ではないことを願う。
普通、自分自身を身体以外の何物でもないものと受け取る人も、
頭が痛い時や、彼の足が負傷したり、彼の身体が痛む時は自分が身体ではないことを願う。
・・・だから私はあなたに言うのだ、
痛みの瞬間は精神霊的な訓練の瞬間になり得る、それらはサーダナの瞬間に変えることができる、と。

 ・・・惨めさを忘れている人は決して惨めさに目覚めることはできない。
どうやって自分たちが忘れがちなものに気づくことができるだろう?
ただ覚えているという態度だけで私たちは何かに気づくことができる。
そのため、ただ痛みを覚えておくことだけで、私たちはそれに気づくことができる。

 だからあなたが惨めでいる時はいつでも、それをひとつの機会として受け取るがいい。
それに完全に気づいていなさい。するとあなたは素晴らしい経験を持つだろう。
あなたが自分の苦しみに十分気づくようになる時、あなたが痛みから逃げずにそれと対面して見る時、
あなたは自分がそれから分離している様相を垣間見るだろう。

 ・・・間違った人生を生きることは許されるかもしれないが、間違って死ぬことは決して許され得ない。
なぜならそれは究極の地点であり、それはまったく真髄そのものであり、人生の最終章だからだ。
人生のあちらこちらで犯したいくつかの誤りは見落とされるかもしれないが、
人生の最後の瞬間の誤りは永遠に、しっかりと永続的に確立されるだろう。
そして興味深いのは、あなたは人生で犯した誤りに対しては後悔できる---それらは改めることができる---が、
死後彼の過ちを改め、後悔し、それに対する許しを請うことのできる方法はない。
死は最終的な認証になる。
そのため、間違って生きた人生は免除されるかもしれないが、間違った死はそうすることはできない。

 覚えておきなさい。そもそも間違って生きてきた人が、どうやって正しく死ぬことができるだろう?
結局のところ、生は終わりを迎えざるをえない。
最終的にはそれが出発するところに到達する、というのが生だ。
実際、私が生涯の間にしたことは何であれ、私は死の最後の瞬間にその総和として出発することになる。
その瞬間、私の人生のすべては累積的に私の前に立つ。死の瞬間に、私は私の一生の総和になる。

 こういう言い方で言ってみよう。生とは広がる現象だ。死は濃縮されたものだ。
別の言葉では、死が生の全ての広がりの全一な、累積的な濃縮---それの要約---であるのに比べて、
生は巨大な広がりだ。
死は非常に原子的だ。すべては一つの原子の中で一緒に生じてきた。
だから死よりも重大な現象は他にないのだ。
しかしそれは一度だけ起こる。けれどもこれは、あなたは以前に死んでいなかった、という意味ではない。
いや、それは以前に何度も起こってきたが、それはひとつの生涯に一度だけ起こる。
そしてもしあなたがこの人生を眠ったままで生きたなら、死も眠りの状態で起こる。
これは次の生で新たに生じ、また一度だけ起こる。

 だから心に留めておきなさい。意識的な死に方で死ぬ人は、次の生で意識的に誕生する---
それは彼の死の別の部分になる。
そして意識的に死んで意識的に誕生する人の人生は、全く異なる水準で作用する。
初めて、彼は生の全ての意味を、生の全ての目的を、生の高みと深みを、正確かつ意識的に掌握することができる。
彼は生の全ての真実を把握することができる。
           
                     〜死ぬこと 生きること  5章 〜





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