死に気づくこと

 死に気づくこと....もし人間が意識的な状態で死ぬことができれば、彼にとって死はもはや存在しない。
言い換えれば、もし人間が死ぬ時に意識したままでいられるなら、
彼は自分がまったく決して死ななかったということに気づく。
死は彼に対して単なる妄想として現われる。
けれども、死が妄想であると証明されることは、死は妄想として何らかの形で残るという意味ではない。
むしろ、人が十分に意識して死ぬ時、彼は全く死がないことがわかる。
その時、死は虚妄になる。・・・

 ・・・あなたは死にかけている人を見る。それからあなたは、彼は死んだと考える。
あなたは死んでいないので、あなたにそのように考える権利はない。
人間は死んだと結論付けることはあなたの非常に愚かな部分だ。
あなたが言うべきすべては、
「私は以前に彼を知っていた方法で、彼が同一人物であるかどうかを判断することはできない。」だ。
これ以上の何かを言うことは危険であり、それは妥当性の限度を超えている。・・・

 ・・・・これに反して活動的な瞑想の技術がある----どうやって意識的に死に入るかという技術が---。
チベットではこの技術はバルドとして知られている。
ちょうど人々がある人の死ぬ瞬間に彼に催眠術をかけるように、
同じく、バルドに関わる人々は死にかけている人に反催眠的な提言をする。
バルドでは、人々はある人の死ぬ瞬間に彼の周りに集まり、
彼に「あなたは死にかけていない、なぜなら誰もこれまで死んでこなかったからだ。」と言う。
彼らは彼に反催眠的な提言をする。
そこでは涙を流すこともなく、泣き叫ぶこともない。他のどんなことも為されない。
人々は彼の周りに集まり、村の聖職者や僧侶が来てこう言う。
「あなたは死にかけていない、なぜなら誰もこれまで死んでこなかったからだ。
あなたはくつろぎ、そして十分に意識して出発するだろう。
あなたは死なない、なぜなら誰もこれまで死んでいないからだ。」

 その人は目を閉じて、プロセス全体が彼に語られる。
今、彼の生命エネルギーは彼の足から去った、今、それは彼の手から去った、今、彼は話すことができない、等々----
それにもかかわらず、その人は告げられる、彼はまだいる、彼はまだ留まるだろう、と。
そして彼の周りすべてにこれらの提言が与えられる。提言はまったく反催眠的だ。
と言うことは、それらはその人が自分はまさに死につつあるという社会的な幻想に囚われないことを確かめさせるための手段だ。
彼がそれをすることを防げるために、人々は解毒剤としてバルドを使う。・・・

 ・・・意識が身体から撤退する時、それは忽然と去ることはない。身体のすべてが同時に死ぬことはない。
意識は内側に収縮し、徐々に、身体の各部分から去る。
様々な段階を経てそれは撤退し、この収縮のすべての段階は、死につつある人に彼に意識を保させるための手段として、順を追って話すことができる。

 死につつある人を目覚めたままにさせる多くの方法があり得る。
例えば、特別な種類の香りは人が意識的なままでいるための助けになり得る。
ちょうどある種の香り、匂いが人を無意識にさせることができるように。
お香や安息香が主に発見されたのは、それらが人を目覚めたままにするのに役立つからだ。

 ある人を意識したままにさせるために、ある種の音楽を彼の周りに作ることができる。
そして人を眠りに落とすことのできる音楽が存在し得る。
あなたは自分を眠りにつかせることができる音楽にふと出くわす---
さらにあなたを目覚めさせたままにできる音楽もあり得る!
特定の言葉、特定のマントラは、人を目覚めたままにして、眠りにつかせないための役に立ち得るものを発することができる。
死にかけている人間の身体の特定の部分は、彼が眠りに落ちるのを止めて、
彼の意識を生きたままにさせるために軽くたたくことができる。
彼は自分が眠りに落ちるのを防ぐために、自分を意識したままにさせるために、一定の姿勢で座るようにすることができる。・・・

 ・・・故意に死ぬことができるというのは矛盾した言葉だ。誰も故意に、意識的に死ぬことは全くできない。
なぜなら彼は自分が死にかけていないことに、何かが彼の中で死のうとしているが彼は死にかけていないことに、その間ずっと気づいたままでいるからだ。
彼はこの分離を見守り続け、それで最終的には自分の身体が自分から離れて、少し離れて横たわっているのに気づく。
その時、死とは単に分離であることがわかる。それは接続の切断になる。・・・

 身体と意識の分離が死だ。
この分離のため、それを死と呼ぶことは無意味だ----それは単に連結をゆるめること、連結の分断にすぎない。
それは服を変えること以外の何ものでもない。
だから、覚醒して死ぬ人は決して本当に死なない。そのため、死の問題は彼にとって決して生じない。
彼は死を幻想とさえ呼ばないだろう。彼は誰が死ぬか、誰が死んでいないかと言うことさえない。
彼は、私たちが昨日まで生と呼んでいたものはただの連合に過ぎなかったとただ単に述べるだろう。
その連合が分断された。今や前の感覚での連合ではない新しい生が始まった。
おそらくそれは新しい連結、新しい旅だ。

 死は覚醒して死ぬ人にとっては幻想であることを証明する、と私が言う時、
あなたは今、私が意味していることを理解できるだろうか?
幻想とは、死は決してなかったことを意味する。
それは死ぬ方法を知らなかった人、死んでいなかった人、死の知識がなかった人によって作られたただの社会的信念だった。
そしてこの信念は永遠の時からずっと広く行き渡ってきて、将来的に存在し続けるだろう。
なぜなら死んでいない人々が死んでいる人々について永遠に判断を下すからだ。
死んだ人はその情報を持って戻ることは決してない。・・・

 ・・・あなたが覚醒して生きてきたなら、覚醒の状態で死ぬことは可能だ。
あなたが意識的に生きる方法を学んできたなら、あなたは確かに意識的に死ぬことができるだろう----
なぜなら死ぬことは生の現象だからだ。それは生の中で起こる。
言い換えれば、死とは、あなたが生として理解しているものの最終的な出来事(ハプニング)だ。
それは生の外側で起こる出来事(イベント)ではない。・・・

                       〜死ぬこと 生きること  3章 〜 




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