微細身と粗大身

 身体には二つのタイプがある。
一つは私たちに見える粗大身であり、もう一つは私たちに見えない微細身だ。
死の瞬間に、粗大身は離脱するが、微細身はそのまま残る。

 魂は二つの身体---微細身と粗大身---の内側に在する。
死の時点で粗大身は死ぬ。土と水で作られた身体、肉、骨そして骨髄から成る身体は、脱落して、死ぬ。
その後、微細な思考、微細な感情、微細な波動、微細な繊維から成る身体が残る。
この身体は、これらの微細な物すべてで形成され、魂と一緒に、もう一度旅に赴き、
そして再び新しい誕生のため粗大身に入る。
新しい魂が母親の子宮に入る時、それはこの微細身が入ることを意味する。

 死の出来事においては、粗大身だけが崩壊して、微細身は崩壊しない。
しかし究極の死、私たちがモクシャ(解脱)と呼ぶものの発生とともに、微細身も同様に粗大身と一緒に崩壊する。
その時、魂にとってもはや誕生はない。
その時、魂は全体と一つになる。
これはたった一度だけ起こる。それは水滴が海に合流するようなものだ。

 三つのことが理解されなければならない。
まず、魂の要素がある。身体の二つのタイプ---粗大と微細---が魂のこの要素に接触する時、両方が活動的になる。
私たちは粗大身、肉体に精通している。
ヨーギは微細身に精通している。
そしてヨーガを超えた人々は魂に精通している。

 普通の目は粗大身を見ることができる。
ヨーギの目は微細身を見ることができる。
しかしヨーガを超えていること、微細身を越えて存在することは、ただサマーディにおいてのみ体験される。
瞑想を超えた人はサマーディを達成する。そして人が神を体験するのはサマーディの状態においてだ。

普通の人は肉体の経験を持つ。
普通のヨーギは微細身の経験を持つ。
光明を得たヨーギは神の経験を持つ。
神は一つだが、無数の微細身があり、無数の粗大身がある。

 微細身は因果体だ。新たな肉体を獲得するのがこの身体だ。
この辺りの多くの電球を見てごらん。電気は一つで、そのエネルギーは一つだが、それは異なる電球を通して現われる。
電球には異なる身体があるが、彼らの魂は一つだ。
同様に、私たちを通して現われる意識は一つだが、この意識の現われの中に、二つの乗り物が適用される。
一つは微細な乗り物、微細身であり、
もう一つは粗大な乗り物、粗大身だ。

 私たちの経験は粗大身、肉体に限定されている。
この制限された経験がすべての人間の惨めさと無知の原因だ。
しかし肉体を超えた後でさえ、微細身で止まるかもしれない人々がいる。
彼らは「そこには無限の数の魂がある。」と言う。
しかしさらに微細身を超えて行く人は「神は一つだ、魂は一つだ、ブラフマンは一つだ」と言う。

 私の言っていることに矛盾はない。
私が魂の入る様子について言及する時、私はまだ微細身に関連付けられている魂のことを意味している。
それは魂を包んでいて、まだ崩壊していない微細身を意味する。
だから私たちは、究極の自由に達する魂は誕生と死のサイクルから踏み出る、と言うのだ。
魂にとって誕生や死は本当にない。
それは決して生まれなかったし、まったく死ぬこともない。
誕生と死のサイクルは微細身の終わりで止まる。
なぜなら新たな誕生を引き起こすのは微細身だからだ。

 微細身は私たちの思考、欲求、色欲、熱望、経験、知識から成る統合した種だ。
この身体は私たちの継続的な旅に私たちを連れて行く働きをする。
しかし、その思考をすべて消滅させ、その情熱がすべて消えて、その欲望がすべて消えて、
彼の中にどんな欲望も残っていない人は、彼にとって行くべき場所はない。
彼にとってどこかに行くべき理由は何も残っていない。
その時、彼にとって再び誕生する理由はない。

                       〜死ぬこと 生きること  2章 〜

 

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