★死、誕生、再生について〜 (2)

本当は死において何が起こるのだろう?
周辺に広がり、拡散した全部の生命エネルギーは収縮し、その中心に戻る。
私たちの身体の至る所に達しているこの本質的なエネルギーは回収されて、その核に戻ってくる。
例えば、もし私たちが拡散した光を暗くし続けるなら、それは縮小し始め、闇が増してくる。
ある時点で光はランプそのものに近づく地点に縮小される。
そして私たちがそれをさらにもっと暗くするなら、光は種の形に追い込まれて闇があなたを取り囲むだろう。

 そのように私たちの生命エネルギーは縮小して、それ自身の中心に戻る。
再びそれは種になり、原子になり、新たな旅の準備となる。
その本質的なエネルギーのまさにこの収縮のせいで、まさにこの縮小のせいで、
人は「私は死にかけている!私は死にかけている!」と感じるのだ。
人がその時まで生であると思ってきたものは無くなり始める。
すべてが後退し始める。人間の手足はその体力を失い始める。
彼は息切れするようになり始める。彼の視力はより弱くなり、彼の耳は聞こえ難くなる。

 実際は、これらすべての感覚が生きていて、そして身体全体も生きていたのは、あるエネルギーとの連結のせいだ。
そしていったんエネルギーが退き始めるなら、身体は---それは本質的には生命のなかったものだ---
もう一度生命のないものになる。
主人は去る準備をし、家は陰鬱になり、荒れ果てるようになる。
そして人間は「ここで私は去る!」と感じる。
死の瞬間に彼はこう感じるようになる。「私は消え去っている。私は衰えている。終わりは近い。」

 彼は死にかけているという神経質な感覚----心配や憂鬱状態、死の苦悶や不安、彼の終わりが近づいているという感覚---が人間のマインドに大変恐ろしい苦しみをもたらすので、彼は死の体験そのものに気づくことに失敗する。
死を知るためには、人は穏やかでいる必要がある。
その代わりに、人間がとても落ち着かなくなると、彼は死とは何かを知ることは決してない。

 ・・・人は計画的な死を確かに持つことができる。
計画的な死とは瞑想、ヨーガ、サマーディだ。サマーディはただ一つのことを意味する。
それは、死そのものによって生じる出来事を別の方法でもたらすことだ。
サマーディにおいて探求者は、彼の全生命エネルギーを内側に故意に引き寄せるという努力によってそれをもたらす。
明らかに、彼にとって落ち着かなさを感じる必要はない。
なぜなら彼は意識を引き寄せ、引き込む実験をしているからだ。
冷静なマインドを用いて彼は意識を内側に縮小する。死がすることは何にせよ、彼は自分自身にする。
そしてその沈黙状態の中で、彼は生命エネルギーと身体が2つの別々のものであることを見い出す。

 ・・・もしあなたが30分間、内側に向きたい、死にたい、自分自身の内側で溺死したい、
すべてのあなたのエネルギーを回収したいと決心するなら、
数日以内にあなたはエネルギーの収縮を体験するようになるだろう。
それは身体があなたから分離しているという状態だ。

 深い3ヶ月間の長い実験はあなたに、自分から分離している自分の身体を見せる。
あなたは自分の身体が自分から遠く隔てているのを見ることができる。
まずあなたは内側からその内部を見るだろう。
あなたは分離して立っている----炎のように放射している。
あなたはこの建物を見るように内側から身体全体を見るだろう。
もう少しの勇気で、あなたはこの内的な生の炎を外側にもたらすこともでき、
そして外側からあなたは、身体があなたから離れて、そこにあるのを見ることができる。

                                         
 〜死ぬこと 生きること 1章 〜


                        

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