Oshoのカジュラホについての講話

  祖母は・・・彼女はカジュラホの生まれだった。あの城塞の、あのタントリカたちの最古の城塞の生まれだった。 祖母はいつでも私に、「もう少し大きくなったら、カジュラホに行くのをけっして忘れるんじゃないよ」と言っていた。 子供にそんな忠告をする親はまずいないと思う。だが私にカジュラホに行くようにと説得する私の祖母は、その稀な例だ。カジュラホは何千という美しい彫刻で成り立っている。すべて裸で、交接をしている姿だ。
 カジュラホは比較を絶している。世界中には何千という寺院がある。だが、カジュラホに似たものはひとつもない。 当時、カジュラホというものはまったく知られていなかった。
  最初に私がカジュラホを訪れたのは、祖母がしつこく私にそこに行くようにと勧めたからにすぎなかった。 だがそれ以来、私は何百回となくあそこを訪れている。世界中で私がこれほど何度も訪れた場所はほかにない。 その理由というのは簡単だ。あそこを経験しつくすことはできないからだ。それは経験のつきない場所だ。 知れば知るほど、ますます知りたくなる。カジュラホの寺院のひとつひとつの詳細が、ひとつの神秘だ。 ひとつの寺院を造るのに何千人という芸術家、何百年という年月がかかったに違いない。 そして私は、カジュラホ以外に完全といえるものに、ほかに何ひとつ出会ったことがない。
                                            ★「ゴールデン・チャイルドフッド」 P55〜

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 カジュラホ、あるいはコナラク --- もしそこで瞑想するなら、あなたはタントラのマスターたちがやっていたことを知るだろう。究極のオーガズムの喜びの中で感じたものを、彼らは石で創っていた。 石の中へエクスタシーをもたらすこと、それは最も困難なことだった。 そして、もしその石がエクスタシーを示せるのなら、誰でも簡単にそのエクスタシーの中へ動いてゆくことができる。

 しかし、カジュラホへ行く人々は愚かな人々だ。彼らはカジュラホの彫刻を、猥褻なものとして見る。 --- その時、彼らは要点全体を取り逃がす、彼らは自分自身の無意識の内側にある何かを見ている。 あるいは彼らがあまりに道徳的であれば、--- その時、彼らはどんな彫像にも瞑想しない、 彼らはどうにかしてその寺院から外へ出ようと急ぐ、彼らはただ一瞥を投げるだけだ。

 カジュラホの彫刻は、ただ見るためのものではない。それは瞑想のためのものだ。 何時間も静かに坐って瞑想してごらん。もしカジュラホに行くなら、人は少なくとも3ヶ月はそこに住まなければならない。 そこで彼は、それぞれ可能なオーガズムの喜びの内的姿勢に瞑想できる。 そしてそれから、ゆっくりゆっくりと、その償いが、ゆっくりゆっくりとその調和が生じる。 それから突如してあなたは別の世界へ、この寺院を創ったその神秘家たちの世界へ運ばれる。これは客観芸術だ。

              ★「アティーシャの知恵の書」 (下) 第24章 (自身訳)
 カジュラホの寺院には、性交のすべての体位をあらわした美しい群像がある。その寺院や群像を作ったのは、タントラ学派だ。 さて学生が最初にしなくてはならないことは、それぞれの像について瞑想することだった。

 それらは一つの角から円を描いて、寺院を回るように配列されていた。それには六ヶ月かかることもあったが、人はそれぞれの像を、そこに少しも性的関心を抱かず、単に一つの像として見られるようになるまで、じっと見つめなくてはならなかった---しかもそれは性交の体位だった。しかしじっと見ることによって、何ヶ月も見続けることによって、それは一つの純粋な美術作品になり、すべての猥褻性は消えてゆく。それからあなたは別の群像に移動する。そして群像には、人間精神のすべての性的倒錯が込められてきたのだ。

  そしてあなたが寺院全体を回り終えたなら、そのとき初めて、マスターはあなたに寺院の内部に入ることを許す。この六ヶ月の計り知れない瞑想と途方もない解放によって、すべての抑圧は消え去り、あなたはまったく屈託のなさを感じる。そのときマスターはあなたに入ることを許す。そして寺院の内部には性的な像は一つもなく、何もない。内部は空なのだ。


                「神秘家の道」 第38章 P776 1986年5月23日
 タントラは、セックスを霊性化する試みを早くからやっていた。私たちは何千年も前にタントラについて考えるのを禁じたが、それにもかかわらず、カジュラホの遺跡やプーリ、コナラクの寺院は生きた証拠としてある。
 あなたはカジュラホへ行ったことがあるだろうか? あなたはそこにある彫像を見たことがあるだろうか? もし見たことがあるなら、あなたは二つのすばらしい現象を体験したはずだ。

 まず、交合する裸の男女の像を見た後でも、あなたは俗悪な感じを受けない。裸の、交合している男女の像のなかに、あなたは、醜いもの、不快なものを見ることはまったくない。そして二番目は、あなたは安らかな感じを体験するということだ。神聖な感じがあなたを包み込む---。あなたは自分の反応に驚くだろう。これらの像を創った「ヴィジョンを見る者たち」は、霊的(スピリチュアル)なセックスを親しく見、そして知った人たちだった。 

 これらの彫像の顔に、あなたは仏陀の光輝ある影、マハヴィーラの至高の反映を見い出す。彫像の顔に表われた落ち着きと平穏は、サマーディのものだ。そこからは、静かな神聖さがただよっている。もしこれらの像に瞑想するとしたら、あなたは永遠の平和の波に完全に取り巻かれる。あなたは畏敬の念にかられる・・・・
 もしあなたが、裸の像を見たら性欲に圧倒されると恐れるのであれば、私はあなたにお願いしよう。先に延ばすことなくまっすぐカジュラホに行ってほしい。カジュラホはこの地上のユニークな遺跡だ。

 ところが、今は故人となったシュリ・プルショッタムダス・タンドンとその仲間のような道徳家たちは、その像が人々を性的にすると信じていたので、カジュラホの壁を焼粘土(テラコッタ)でおおい隠すべきだという意見を持っていた。
 私はこのことを聞いて驚いた。カジュラホを造った者たちには目的があった。それは、もし人々が彫像の前に坐ってその像に瞑想したら、その人たちは欲望から解放されるというものだった。
 何千年にもわたってこれらの像は瞑想の対象だった。セックス過剰になっている人たちは、像に瞑想し、その中に自分を失うようにとカジュラホの寺院へ行くことを求められたものだが、それは、私たちにすばらしい実例を示してくれる。 ・・・・・・・

 カジュラホ、コナラク、そしてプーリにあるような寺院はこの国のありとあらゆるところにあるべきだ。ほかの寺院には何一つ重要なものはない。それらの寺院には科学的なところがまったくなく、無計画で意味がない。それらはまったく必要ないものだ。
 しかし、カジュラホの寺院群、そしてそれと同じような寺院はおおいに意味がある。セツクスへの過剰な不安を抱いているマインドの持ち主は誰であろうとそこへ行き、瞑想すべきだ。帰ってくるときには、その人はマインドが明るくなっているだろう、安らいでいることだろう。


         「セックスから超意識へ」 第5話 P219〜 1968年10月1日
 インドには、仏陀、マハーヴィーラ、その他の神秘家たちの無数の美しい彫刻があった。彼ら (イスラム教徒) はそれらを全て破壊してきた。 誰かの頭が欠けている、誰かの手が欠けている。彼らは何千もの寺院を、数百年の間に建てられた寺院を台無しにした。
  カジュラホには、---私は数年間カジュラホの寺院を勉強してきた---、そこには100の寺院があった。 70の寺院は完全に破壊されてきた。30の寺院は、その恐怖から、ヒンドゥー教徒たちが泥で覆った。 それらは谷間にあったのでそれらは救われた。現在それらは修復されてきた。泥は取り除かれてきた。
 その30の寺院を見てみると、ただひとつの寺院でさえ、あなたは彼らが何を破壊してきたかを理解することができる。 70の寺院だ・・・! ひとつの寺院は数百年かけた数多くの彫刻家たちの作品のように見える。 それにはとても多くの美しい彫像がある。たった1インチさえも寺院全体で彫られていないところはない。 そして寺院は大きい。それらは全て、寺院の全ての壁を隠している数多くの彫像を持つ。 そしてそれぞれの彫像が芸術の一部分だ。そのようなものは世界のどこにも存在していない。


                 
 ★「炎の伝承」 2巻 第32章 (自身訳)
 カジュラホの寺院やコナラクの寺院を見れば、東洋のほんとうの姿を見ることができる。カジュラホだけで100の寺院が存在した。30だけが生き延び、70はイスラム教徒によって破壊された。途方もない美しさの何千という寺院と彫刻がイスラム教徒によって破壊された。この30が残ったのだが、それもたんなる偶然で、それが森の一部になっていたからだ。・・・ちょっとこれらの何百という寺院を創り出した人びとのことを考えてみるがいい、一つ一つの寺院の建設に数世紀を要したに違いない。それらの彫刻はあまりにも繊細で、あまりにも均整がとれ美しく、地上にはあれに比肩するものは存在しない。

  ・・・私は何百回となくカジュラホに行ったが、ひとつの彫刻もポルノグラフィーとして見たことはない。裸の写真や裸の彫刻はそれが自分の性的感情を喚起すればポルノグラフィーになる。それが唯一の判定基準だ。それが自分の性的感情を喚起する場合、それが自分の性本能をかき立てる場合だ。実際、あの寺院はまったく逆の目的のために創られた。 あれは愛し合っている男性と女性について瞑想するためにつくられたものだ。そしてあの石は蘇った。あれを創った人々は、この地上に現れたもっとも偉大な芸術家だったに違いない。あれは瞑想するために創られたもの、瞑想の対象だった。

  あれは寺院であり、瞑想者たちはそのまわりに坐ってその彫刻をただ見る。そして自分の内側に性的欲望が起こっているかどうかを見守ったのだ。これこそが判定基準だ。そこにいかなる性欲も起こってこないことが分かったとき、それがその寺院のなかに入るための許可証だった。これらの彫刻はすべて寺院の外側に、外側の壁の上にある。内側には裸体の像はひとつもない。


                     ★「Light on The Path」 #16
 インドにはカジュラホのような、あらゆるセックスの体位が彫刻されている寺院がある。サドやマゾも想像できないような、非常に馬鹿げた像が多くある。最も倒錯した人でも、そんなものは想像できない。たとえば、逆立ちして男性と女性がセックスしている---それらを試みようとしたり想像した者がいるとは思えない。なぜ彼らはこれらの絵を描いたのだろう? それらは客観芸術の例だ。

 カジュラホのこれらの寺院は、普通の寺院ではない。ある種のセラピーであり、セラピーとして存在する。何らかの性的倒錯に苦しんでいる者がいれば、常にカジュラホに送られた彼らはそれらの異常な、異様な像すべてを観照し、瞑想しなければならなかった。彼はマインドにおいて、何かが倒錯してしまった。その倒錯は無意識の中にあった。精神分析法としてはどうするだろう。ものごとを、無意識から意識へと持ち出そうとする。それだけだ。いったんそれが、無意識から意識へ解き放たれれば、それから自由になると精神分析では言われる。
 
そう、このカジュラホは偉大な精神分析だったのだ。異常に倒錯した人間は連れて行かれる。彼はその倒錯を抑圧してきた---ときどきそれらは爆発するが、彼は抑圧し続ける。何か傷のようなものがあると知ってはいても、それに直面できずにいた。

 彼はカジュラホに連れて来られる。彼はゆっくりと進み、それぞれの像、それぞれの異様な姿態に瞑想する。そしてある日突然、ある姿態が彼の内なる倒錯に一致する。突然、倒錯が無意識から意識へと浮上し、・・・それは解放される---ただ寺院が果たす。彼は寺院に残される。2,3週間、彼はそこにいる。真に深い瞑想へ入って行くことを望む瞑想者ひとりひとりにとって、その頃カジュラホのような寺院を訪れるのは良いことだった。
 寺院の壁にはすべて、これらの像があった----非常に異常な、非常に狂った、非常に倒錯したものだ。寺院の内側には性的な像もなく、性的な質はまったくない・・・。

  それは何を意味するのだろう?どうして外側の壁にばかりセックスがあり、内側にセックスはないのだろう? それは技法だった。セックスから自由になるためには、表面に向かわねばならない。これらの性的な彫像に、もう引きつけられなくなったと感じるとき---今、その前に座りつづけても、内側で何も起こらず、平穏静寂にとどまり、性的に興奮することも、動揺することもなく、数週間待って性的なものをまったく感じなければ---彼は寺院に入れる。

  それは象徴的だ。今、自分のセックスを越えていける。これらの寺院はタントラの寺院であり、これまで行なわれた中でも、最も偉大な試みのひとつだった。それらは猥褻なものではない。好色なものではない。霊的なものだ---霊性における偉大なる試みのひとつ、より高いレベルへ向けての、人間のエネルギーの変容におけるひとつの試みだ。


                  
★「タントラの変容」 第6章 P257
  

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