OSHO との出会い

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日本のOshoワークの流れ

 1978年頃だったか、そのころ東京に住んでいた私はなぜか瞑想というものに興味を持ち始めていた。理由は単純に自分を変えたい、今の自分が好きになれない、というもの、自意識過剰な自己嫌悪、半分ノイローゼ的な精神状態からで、失恋の痛手から立ち直りたい気持ちなど、瞑想をすれば自分が変わるのではないか、というバクゼンとした期待感を持ち、いろいろと本をつまみ読みしていれば、季刊雑誌「ザ・メディテーション」という本に出会う。平河出版社から出ていたもので、その本の中でバグワン・シュリ・ラジニーシ (当時の和尚の名) が紹介され、その当時のアシュラム(プーナ)の様子が描かれていた。

 瞑想については、この平河出版社の大元でもあろう桐山靖雄のニホン・メディテーション・センターに通ったりもしていた。入会時、心理テストをしてその人個人に合った独自の瞑想法を授ける、なとど言っていたが、実際はただヒーリング音楽が流れる部屋の中で40分瞑想するだけで、特別な瞑想指導もなく、心理テストなどついに行われなかったので約半年で止めてしまった。かなりいいかげんな所であった。その後TM -- マハリシ・マヘッシ・ヨーギの超越瞑想 -- などもやってみたが、これもイマイチだった。
 伝統的な禅の世界には行く気にもなれなかった。当時の私には禅寺の修行は運動部の合宿のようなものにしか見えなかった。

 和尚ラジニーシについては、その雑誌の中でもけっこう批判的な記事も見られた。精神修業的な場としては軽い雰囲気で、初心者でもすんなりと受け入れてくれそうな、悪く言えば少々チャラチャラしたところがあったのだ。
最初に読んだ本「存在の詩」にはすごい感銘を受ける。今でも刊行されている和尚の本の中ではこれがベストだろう。
その当時、日本でも最初のセンター、アッシーシ・ラジニーシ瞑想センターが開設されていたようであったが、そのヒッピー風な風貌に近づく気にはなれなかった。

 しばらくして田舎暮らしにあこがれ、東京の職を辞めて長崎・平戸に移住した頃、昔の友人がなんと和尚の弟子になって訪ねてきた。全身赤い服をまとい、首から妙な数珠をかけている。良く見ると和尚の写真がついている。その派手な姿にかなり引いてしまったが、熊本にセンターがあるので一緒に行かないかということで、とりあえずのこのことついて行った。

 その後、そこで二度のグループ・セッションを受けたり、他の瞑想キャンプでリバーシング・セッションをうけたりして、どういうわけか流れにまかせて弟子になってしまった。別に弟子になることに抵抗はなかったし、体験してみなければわからないことも多いだろうし、というわけで。ただ、このリバーシングは私にとっては強烈だった。たった三日のセッションだったが、ここで受けた体験は今でも自分の内に大きな影響を与えている。

 ただ、その後九州のサンニャーシン(和尚の弟子の名称)ばかりで瞑想キャンプを行ったとき、ゲストとして東京からサンニャーシンのミュージック・グループを招く。
これがいろいろと問題を起こす。お客であるはずの東京のサンニャーシンがキャンプの運営について事細かく仕切り始めたのである。いわゆる主客転倒というやつだ。とにかく口うるさい。ヒステリックにボスづらをする。自分たちのほうが和尚に近い存在だ、ということを提唱する、ようするに九州-地方を見下しているのである。
中央集権、全体主義。自分たちの価値観を押し付けてくる。和尚の本で感じた世界とはまるで反対の印象だった。
理想と現実のギャップか。彼らは非常に権力的で傲慢的であった。

 その後インド一人旅を思い立ち、出発の前に神戸の瞑想センターに立ち寄る。当然瞑想するために行ったのであるが、そこはとにかく騒がしいところだった。集中瞑想というイベントに参加したつもりだったのだが、なんと参加者は私ひとり・・・・、センターの住人は瞑想よりもパーティー的雰囲気を楽しんでいる、と言えば聞こえはいいが、ようするに瞑想などする気がない様子。イベントがあること自体を知らないスタッフもいた。スタッフは入れ替わりで参加するので最後まで通して瞑想をやり続けたのは私ひとり。スタッフのひとりが最後に言った言葉は「集中瞑想なんてやるもんじゃないよ。」・・・? 誰がこのイベントを企画したのだ? およそ瞑想的雰囲気とは程遠い、がさつで乱雑で落ち着かない所だった。
瞑想しないでパーティーばかりやっている、これが大凡(おおよそ)のサンニャーシンの現状であった。
 和尚はよく、「深刻になるな。」と言っている。この「深刻さ」と「真剣さ」とを履き違えている者がサンニャーシンに多い。

 インドから帰国後、たいした瞑想の経験もなしに、流れにまかせて福岡で瞑想センターを開設する。自分もまだ初心者なのにそこへそれ以上の初心者たちが集まり、わけのわからない者同士が集まってガヤガヤやり始める。

 その年(1983年)、アメリカ・オレゴン州にあるラジニーシ・プーラムというコミューンにて7月にフェスティバルがあり、世界中の弟子たちが一同に集まりお祝いをするという。ただこれも、行きたい者が行けばいいのであるが、またまた東京センターからのお達しで、ようするに、和尚の弟子ならフェスティバルに参加することは当然だろ? 行くのが当たり前だろ? 弟子ならなぜ行かないのだ? ということである。半ば強制的だ。ファシズムを感じた。行かないやつは弟子ではない、というわけだろう。

 日本人弟子の参加意識が低いということで、東京のセンターに各地方の瞑想センターのリーダーたちが集められた。私もそのリーダーたちのひとりだった。ミーティングではひとりの外国人サンニャーシンが中心になって、こつこつとコミューンのイベントに参加することの意義を説いていた。異様な雰囲気だった。集まったセンター・リーダーたちの誰一人として意見を言ったり、反論したりする者はいない。みんなおとなしくその外人の話を聞いているだけだった。息がつまりそうなミーティングだった。みんなの参加意識が低い理由は単純にお金の問題だった。確か参加費は20-30万円くらいしただろう。みんな自分の生活だけでせいいっぱいの中でセンター運営にも結構お金がかかる。そんな状況でこの参加費を捻出することはけっこうきびしいことだった。

 私としては別に自分が弟子であることにそんなにこだわりはなかったし、そもそも和尚の弟子とは何ぞや、というところもはっきりつかめていなかったが、これも流れにまかせてというか、実際に生身の和尚に会える唯一のチャンスでもあるし、体験してみなければわからない、という気持ちから、行くきっかけとなったものには幾分納得できない部分も感じながら、7月、アメリカへ出発する。

 ラジニーシ・プーラムは確かに刺激的だった。多くの外国人と接することは楽しかったし、同じ「場」を共有しているという同等感、連帯感のようなもの、西洋人コンプレックスを気にすることもない、開かれた場であった。和尚には、昼過ぎのドライブと、夕方のブッダホールでのサットサングで会える。和尚は、確かに、光っていた。周囲のミーハーな雰囲気にのまれ、自分もミーハーになっていた。その一週間は楽しい夢のひとときであった。
 私が参加したセレブレーションは第二回目で、その後第四回まで続いたと思われるが確かではない。和尚はすでに沈黙に入っていて、彼の個人的秘書がコミューン運営をきりもりしていたようだが、そこで彼女のエゴが働き出す。
そのへんの詳しい経緯は知らないが、とにかく、和尚自身が自分はどんな主義にも反対すると言っておきながら、ラジニーシズムという提唱を掲げる。あきらかな矛盾であるが、東京センターは何の疑問も持たずラジニーシズムを全国のセンターへ押し付ける。

中央集権的、ファシズム的傾向はますます強まる。正直、全国のサンニャーシンたちは混乱していたろう。
・・・・これは本当に和尚の意向なのか、単なる秘書の支配・権利欲からきているものか、確かめようも無く、すべては方便だとする仏教の基本的教えが逆に混乱を大きくする。ようするにラジニーシ・プーラムを中心とする一大宗教組織なるものが作り上げられようとし、日本では東京のセンターがその出先機関となる。全体主義的な組織化がはじまる。弟子であるなら従うのは当然だ、とまたまた弟子の資質を問いただすような雰囲気がただよう。個人の意見などとるにたらないもの、ラジニーシ・プーラムの意向が最も重要なものというわけだ。私たちは直接国際電話でそのへんについて問い合わせた。反応はそれほど強制的なものではなかった。どうも東京のセンターがそのへんを強固にすすめようとしている向きが感じられた。

 私は自分の成長のために弟子になったのである。なにも和尚やコミューンのために生きているわけではない。ただし、和尚の基本的な教えの中に、サレンダー(明け渡し)というのがある。弟子は師に対して自分の全てを投げ出す、明け渡しをしなければ、真の意味での師と弟子の関係、成長は始まらない、というもので、これは別に和尚のコミューンに限らず、伝統的チベット仏教のイニシエーション(入門)においては当たり前のことである。
しかし、この理念が権力のために悪用され始めた。自分を犠牲にしてセンターのために奉仕しろ、という共産主義的スローガンが生まれ出してきた。これはあらゆる宗教団体で起こっているトリックだ。教祖は信者たちを自分の好きなように利用することができる。教祖の前では弟子はまったく無力だ。

 またもうひとつ、和尚の教えに、すべてをあるがままに受け入れなさい、自分の作った観念を投影せずに、流れにまかせて生きなさい、というのがある。これも解釈しだいでは恐ろしいことになる。自分にふりかかってくる脅威に対して無抵抗であれ、という意味にもとれる。現実社会で無条件にこれを適用すると自己破滅に至る危険性は大きい。
宗教的教義を文字通り受け入れることのナンセンスさは、あらゆる宗教に見られる。

オレゴンのコミューンに数百万円もの大金を寄付した者もいたらしい。わけのわからぬ霊能的な女を中心としたコミューンを三重県につくろうとしたり・・・これをきっかけにサンニャーシンを辞めてオウム真理教へ移った者もいると聞いている。
 私の福岡のセンターにも、とある霊能力をもつ女性(彼女も弟子)が来てセンターを仕切り始める。とりあえず私たちは瞑想センターからラジニーシの名を外し、総合的な瞑想センターとして再出発しようとなった。一連のラジニーシズム布教運動から身を引くことにした。当然東京のセンターからは辛辣なバッシングを受ける。

 教祖の教えを真に理解できない信者たちの狂信的な宗教組織運動は、すべての宗教団体に見られる傾向だが、同じ状況がここでも起こったというわけだ。人間の愚かさはどこでも変わらない。

 私は福岡のセンターには都合二年間居て、後、経済的理由からセンターを離れた。
この二年間に受けた傷は大きい。しかし同時に外的なものに依存することの危険性を学んだ。

 和尚が肉体を離れて数年後、初めてインド・プーナのアシュラムを訪れた。その中でくつろいでいるとそばにいた西洋人が話しかけてくる。英語がうまく話せないので日本人のサンニャーシン通訳をさがすと、その男は私のことは何も知らないのに勝手な自分の思い込みで私の事を西洋人に紹介し始めた。例えば、「日本人は会社に貢献することを美徳と考えているし、退職することは困難だ。だから彼(私)は休暇を長く取ることはできない。」と説明する。なんという古めかしい考えだろう! ちなみにその時点では私はすでに10種類ほどの転職をしてきているのだけれどね。
また彼は私がまだサンニャーシンになっていない初心者だと決め付けていた。ちなみにその時点では私はサンニャーシンになってすでに10年近くなっていたのだが。

ようするに大方のサンニャーシンとはこの程度なのである。ミーハー的な人間が多い。それにやたら英語を交えた日本語で会話する。それがどうも胡散臭い。それにその話の内容はだいだいが、セラピー・瞑想テクニックの凄さ・効果の宣伝、セラピストの評価、だれが瞑想的であるかという他人との比較、どんなすごい体験をしたかという自慢、など・・・ようするに外面的なことばかり。いかにハイ(高揚感)になれるかが関心事のようだ。
トゥルンパの言う精神の物質主義をここでも感じる。
だいたいアシュラム自体がセラピーのスーパーマーケット的なところがあるが、確かにこの場のエネルギーは凄い。そのパワーにみんな酔ってしまう。うかれてしまう。なにもしなくても、ただ居るだけで、瞑想的な気分に浸れる。ブッダフィールドの恩恵を授かることができる。ただそれに浮かれているだけのサンニャーシンが多い。瞑想に専念している者はいたって少数だ。
そのようなサンニャーシンに対する違和感は、最初に出会った時から感じていた。

 現在は和尚の各センターには、まったく関わりは持っていないし、また関わる気も無い。正直うんざりしている。










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