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2013年1月9日-筆写
The Sound of Running Water

ザ・サウンド・オブ・ランニング・ウォーター

TOP   燃え尽きたラジャス・エネルギー、誕生  
 1968年〜1973年 ネオ・サニヤス、そして内なるエクスタシーと光明のためのキャンプ
  ---あなた方を過度の高みにまでやるわけにはいかない

 
 追従者の数は増え、60年代の後半から70年代の初期にかけて、最初の西洋人の弟子たちが到着し始めた。”アチャリヤ”という呼び名は落とされ、代わってバグワン、祝福された者、”自己自身を知った者”として知られるようになった。当時、彼はこのように警告している。

 それは数年の間は役に立つだろう。それから私たちはそれを落とすことができる。遅かれ早かれ、あなた方は成長しなければならない。そしてあなた方が理解し、ここにいるあなた方の現存が異なる質の波動(ヴァイブレーション)を生み出したら、私は自らをバグワンと呼ぶことをやめる----。そうなったらもう必要ではない。そうなったらそこの空気全体が神々しく脈打っている。そのときそれは訪れる人々の上に降り注ぐ、彼らのハートに浸透する。そうすれば私を何と呼ぶ必要もない。あなた方は知る。
             〜 The Discipline of Transcendence 超越の道 Vol.2  4章
 その頃、彼は弟子たちをネオ・サニヤス----ある点で伝統的なヒンドゥー形式によく似た革命的なサニヤスへとイニシエートすることを開始した。誹謗者も初期の追従者もこの新たな旅立ちを実にさまざまな形で受けとめた。入門に際して求められる外的な条件はほとんど何もなかったが、代わりに多くのものが与えられた。しかし真摯な探求者と好奇心にかられた見物人を選り分けることになる深い自己投入を求める隠れた”条項”があった。サニヤスにおける”条項”とは、マスターと弟子の間に鍛え出された絆であり、それは弟子の側の全面的な明け渡しを求めていた。60年代後半の外面的な形式も今日(1980年代)と同じだった。黄褐色の長衣(ローブ)を着ること、マラとロケットを身につけ、名前を変えることだった。
 彼の健康は何年にもわたる国内旅行と粗末で不規則な食生活のために損なわれてしまっていた。そこには善意の追従者たちが、しばしば彼の糖尿病の症状を悪化させることを知らずに、無理に甘いものを勧めてますます悪化させたという事情もあった。けれどもそれは弟子や友人たちと身体的に親しく触れ合う時期であり、彼みずから70年代初頭の数々の瞑想キャンプを指導した。ラジャス・グナが燃え尽きる最後の頂について、多くの西洋人の弟子たちはそのキャンプが現在(1980年)プーナで行なわれているものとはずいぶん違っていたことを思い返している。ボンベイ時代のキャンプで起こった非常に劇的でしばしばメロドラマ風的出来事の触媒作用を果たしたのは、バグワンのダイナミックな肉体的現存だった。
 このキャンプは西洋でグループ・セッションとして知られるようになるものを実行に移したものだが、はるかにそれ以上のものでもあった。マスターは瞑想者たちをさらに大きな努力へ、さらに強烈な浄化へと絶え間なく駆り立て、彼らが狂気の場(スペース)に入り、爆発そのものである感激に満ちた強烈な体験を築きあげるよう勇気づけた。マスターのエネルギーはいつもそこにあり、ひとりひとりの探求者をより深い瞑想空間(スペース)へと駆り立てた。
 このキャンプは8日から10日しか続けることができないほど強烈なものだった。

 もし、キャンプがもっと長く続いたら、その高みはあなた方が受け容れることができないほど高いものになるだろう。そして後で必ずやってくる落下は、あまりにも破壊的なものになるだろう。私はあなた方が過度の高みに至るのを許すわけにはゆかない。


キャンプは衝撃的で驚くべきものだった。Oshoはまだラジャス・グナのピークにあり、その生の、活気ある激しい力は、全キャンプ中に伝わった。多くの古くからの弟子たちは、マスターの直接の指導下におけるこれらの実践や、初期の瞑想テクニックが自分たちの内側に作り出した爆発の感覚と、圧倒的で高揚した体験を二度と取り戻すことはないと認めた。
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