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2013年1月9日-筆写
The Sound of Running Water

ザ・サウンド・オブ・ランニング・ウォーター

TOP  1960年〜1967年 ラジャス・グナの上昇 
 行為そのものが独り行為していた ---- 才気あふれる、が、いささか変わった卒業生

 私がその部屋に住む前からあった物はそのままにしてあった。何一つ変えられることはなかった。最小限必要なこと以外は何もやらなかった。まわりの物を変えるには何かをしなくてはならないので、物はそのままにして置かれた。だがこのおかげて、なかなかユニークな体験の兆しが始まった。すべてのグナにはそれなりのユニークな体験があるあからだ。部屋にどんなに多くゴミが溜まろうと、少しも気にならなかった。私はまるで隅から隅まできれいに掃除された場所にでも住むように、そんなゴミ状態のなかで暮らすことを身につけた。

 私が学んでいた大学にはまだ新しい校舎が建っていなかった。それは新設の大学で陸軍の兵舎が寄宿舎として使用されていた。兵舎は深い森のなかにあったので、蛇が姿を現わすことなどは毎度のことだった。私は寝台で眠りながら、この蛇たちを見つめるのが習慣だった。蛇はやってきて、部屋の中で休み、そして出ていった。彼らが私の邪魔をしたことは一度もないし、私も彼らの邪魔をしなかった。

 そのことに関して何かをやろうとする意識がなければ、多くのことが自然なこととして受け容れられるようになる。人生で何かをやろうとする気がなければ、突然不満足は落ちる。その頃不満を感じる理由は何もなかった。というのも何もしないのだから、私には何の要求もなかったし、何もしないことから生じる成果や結果を期待するはずもなかったからだ。何もしないとき、やってくるものはすべてあなたを満足させる。ときどき憐れに思って部屋をきれいにしてくれた友人もいて、私は感謝の気持ちで満たされた。

 試験が行なわれる8日から10日間は、寄宿舎の舎監が試験期間中に寝過ごさないように、私を朝7時に起こしてくれたものだ。彼は私を自動車に担ぎ込み試験場で降ろしてくれた。労せずに、私はみんなの同情や憐れみを得たが、それは私が何であれ、できる限り何もしないことにしているのを誰もがよく知っていたからだ。

 驚くようなことが多く起きていた。私はあなた方が、生が神秘に満ちていることを実感できるようにと思って、こんなことを話している・・・。私の教授は試験日の前にやってきては、ある特定の質問に答えるためには何を読んでおくべきかを教えてくれるのだった。私は誰かに何かを尋ねたことなど一度もない。教授は出そうな問題をそれとなく示したあとでさえ、ほのめかされた箇所を私が読むとは信用していなかった。そこで彼は、自分が言ったことを私が理解しているかどうかを知ろうと確かめるような目で私を見たものだ。その上彼は、今言った問題は必ず出ると、なにしろ自分もその試験を準備した一人なのだからと付け加えた。疑問の余地はなかった。これらの問題は必ず出るに違いない。
 当時、私はぼんやりと天井を見上げながら、ずっと寝台に横たわっていた。かなりあとでメハー・ババはこのやり方一本で瞑想していたのだと知った。こうするのには何の努力もいらなかった。寝台に横になっている間、他にすることはないのだから。眠りが過ぎ去ると、私は瞬きすらせずにただ天井を見続けた。瞬きさえする必要はない。それも一種の行為だ。それも活動の一部だ。私はただそこに横たわり続けた。何もすべきことはなかった。もし一時間、二時間とただ天井を見つめながらそのように横になり続けたら、あなたのマインドは雲のない空のように澄んでくる----。ただ無思考になる。もし誰かが非活動を生のなかで成就できたなら、彼は無思考をごく自然に楽々と体験することができる。

 その頃、私は神も魂も信じてはいなかった。信じないただひとつの理由は、信じることによって何かを為さねばならなくなるからだ。不活動にとって無神論は非常に助けとなる。なぜならもし神があれば、ある仕事を神のために行なわなければならないからだ。ところが、私の側に神や魂への信仰が全然なくても、ただ静かに横になっているだけで、神と魂いずれもの燦然たる光輝の様が目に見えるようになり始めたのだ。私は不活動が私を離れるまで不活動を止めなかった。そのときまで、私はそうやってそれを続けようと決意した----。ただ何もしないことを。

 私はもし人が不活動の原理を徹底して生き抜くことができたら、その後ラジャス・グナが内側からひとりでに展開し始めることを理解した。なぜならこれは生の第二ステージに秘められている二番目の特性だからだ。第一ステージが完了され超越されたなら、第二の、活動のステージがスタートする。活動は、いうなればあなたの内部で成長する。
この活動もやはり独特のタイプのものだ。それは選挙のために走り回る政治家の心配や緊張の活動ではない。もし不活動があなたを無思考へと導く道となったら、そのときは、活動が欲望から生じることはあり得ない。むしろ、それは慈愛から生まれる。この活動をも私は十全に生き抜いた。

 私は自然なプロセスの前に障壁を立てるような感じを一度も持ったことはない。何であろうと起こっていることは起こることを許された。もし物事がそのように起こるのをいつも許されたら、人は通常の存在を超える。その時人は行為者ではないからだ。行為そのものが独り行為している。

 これは無口で活気のない学生の印象を与えるかもしれないが、事実は時折そのような見解と矛盾する。彼は明快で冴え切った合理主義者のままであり、カミソリのように鋭い機知はどんな議論や討論の場においても彼を侮りがたい相手にした。彼は論理論証に力をそそぐ国において大きな栄誉であるインド全国大学弁論大会で金賞を手にした。彼は際立って才気あふれるが、いささか変わった卒業生として認められ、1957年に文学修士課程を修了した。
 彼はさっそくライプール・サンスクリット・カレッジの講師に抜擢され、1960年にはジャバルプール大学で哲学教授の座についた。
1955年頃
1957年、博士課程を終える
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