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2013年1月8日-筆写
The Sound of Running Water

ザ・サウンド・オブ・ランニング・ウォーター

 祝福、恵み --- 全宇宙
 
 過去は消えつつあった---。まるで私のものであったことなど一度もなかったかのように、まるでそれをどこかで読んだことがあるかのように、まるで夢に見たことがあるかのように、誰か他人の話であるかのように、それは消えつつあった。境界は消えつつあった。区別は消えつつあった。マインドは消えつつあった。それは何万マイルもの彼方にあった。それを捉まえることなどむずかしかった。それは遠くへ遠くへと奔り去って行った。そしてそれを近くに繋ぎ止めておこうとする欲望もなかった。

 夕方にはそれに耐えるのがとても困難になってきた。それは痛みのあるもの、苦痛に満ちたものだった。それはまるで女性が出産するとき、子供が生まれ出ようとしていて女性がこの上もない痛みに、産みの苦しみにあるときのようだった。何かがひどく切迫していた。何かが起ころうとしていた。それが何であるかを知るのはむずかしかった。「これが私の死になるのだろうか?」・・・、しかし恐怖はなかった。私にはその用意ができていた。
 そして眼を開けているのは不可能だった。私は麻酔をかけられていた。私は8時頃眠りについた。それは眠りのようではなかった。身体は眠っていたが、私は醒めていた。それは実に不思議だった---。まるで人が二つの方向、二つの次元に引き裂かれたかのようだった。まるで両端が完全に一つに集中したかのようだった。まるで私は同時に二つの極であるかのようだった。肯定と否定が出会っていた。眠りと覚醒が出会っていた。死と生が出会っていた。

 それはこの世のものとは思われなかった。それによって初めてあなたはその根まで衝撃を受ける。それはあなたの基盤を揺り動かす。その体験の後であなたは決して前と同じではあり得ない。それはあなたの生に新たなヴィジョンを、新たな質をもたらす。
 12時近くに、私の眼は突然開いた。私がそれを開けたのではない。眠りが何かによって破られたのだ。私は部屋の中で私のまわりに大いなる現存を感じた。私はあたり一面に脈動する生命を、ほとんど台風のような大いなる波動を、光と喜びとエクスタシーの巨大な嵐を感じた。

 私はそのなかに溺れていた。それがとてつもなくリアルだったので、他のものはすべて非現実になった。あらゆるものが非現実になった。なぜなら今や初めてリアリティが存在したからだ。
 それは名前を持たなかった。だがそれはそこにあった---。あまりにも不明瞭で、あまりにも透明で、しかもなお触れることができるほど確固としていた。それは部屋の中でほとんど私の息を止めんばかりだった。それはもう限度を超えていた。私はそれを吸収することができなかった。

 部屋から飛び出し大空のもとに行きたいという強烈な衝動が湧いてきた。それは私の息の根を止めようとしていた。それはもう、あまりといえばあまりだった。それは私を殺したかもしれない! もし数瞬でも長く留まっていたら、私は窒息していただろう。それはそれほどのものに見えた。
 私は部屋から飛び出し通りに出た。ただ大空のもとで星と共に、樹々と共に、大地と共に、自然と共にありたいという強烈な衝動があった。私が外に出ると、即座に息の詰まるような感覚は消えた。それはこのような大きな現象にとってはあまりに小さすぎる場所だったのだ。それは大空よりも大きい。大空でさえもそれを容れることはできない。だがそれでもずっと楽な感じにはなった。

 私はすぐそばの庭園に向かって歩いて行った。それは全面的に新しい歩みだった。あたかも重力が消えてしまったかのようだった。私は歩いていた。あるいは走っていた。あるいはただ飛んでいた。それを判断するのはむずかしかった。重力はなかった。私は重さがないのを感じていた。まるで何かのエネルギーの手の中にあった。初めて私は独りではなかった。初めて私はもはや個ではなかった。初めて水滴は大洋に至り、大洋に落ちた。今や大洋全体が私のものだった。私は大洋だった。何の限界もなかった。途方もない力が湧いてきた。まるで何でも、どんなことでもできそうだった・・・。私はいなかった。ただ力だけがそこにあった。

 何かが私を庭の方へと引いていった。私には自分を止めるような能力はなかった。私はただ漂っていた。私はリラックスし、手放しの状態にあった。私はそこにいなかった。それがそこにいた。それを神と呼ぶなら、神がそこにいた。私はそれをそれと呼びたい。なぜなら神という言葉はあまりにもありふれ、使われすぎて手垢にまみれているからだ。だからそれをそれと呼ばせてほしい。それがそこにいて、私はただ運ばれていた。潮流に運ばれていた。

 その庭に入ったとたん、すべてが輝き始めた。それはまわり中至る所にあった---。祝福が、至上の喜びが。私は初めて樹を見ることができた・・・。その緑を、その生命を、その流れる樹液そのものを。庭全体が眠っていた。樹々は眠っていた。だが私は庭中が生きているのを見ることができた。小さな草の葉さえもが実に美しかった。私はあたりを見まわした。一本の樹が途方もなく輝いていた。マウルシュリー樹だった。それは私を惹きつけた。それはそれ自身の方へと私を引き寄せた。私がそれを選んだのではない。神自身がそれを選んだのだ。私はその樹のものに行き、その樹のもとに坐った。そこに坐るとものごとが落ち着き始めた。全宇宙が祝福となった。

 どれくらいその状態のなかにあったかを言うのはむずかしい。家に戻ると朝の4時だったから、私はそこに時計の時間にして少なくとも3時間はいたに違いない。だがそれは無限だった。それは時計の時間とは何の関係もなかった。それは無時間だった。この3時間が全永遠、終わりなき永遠になった。そこに時間はなかった。時間の経過はなかった。それは無垢のリアリティ、汚されていない、触れ得ぬ、測り得ぬリアリティだった。その日何かが起こり、そして続いている---。継続としてではなく、不変としてではなく、だがひとつの底流として今も続いている。瞬間ごとにそれは繰り返し繰り返し起こり続けている。それはいつの瞬間にも奇蹟であり続けている。

 その夜、そしてその夜以来、私は肉体の中にはいない。私はその周りに舞い上がっている。私はこの上もなく力強くなった。そして同時に、とても壊れやすく繊細になった。私は非常に強くなった。だがその強さは岩の強さではない。それはバラの花の強さだ・・・。とても壊れやすい強さだ。きわめて壊れやすく、感受性に富み、デリケートだ。岩はそこにあり続けるが、花はいついかなる時にも逝ってしまう。しかもなお花は岩よりも強い。なぜならそれはより一層生きているからだ。

 しかし、以来私は二度と肉体の中にいたことがない。私は肉体の周りで舞い上がっている。私がそれは途方もない奇蹟だと言うのはそのためだ。一瞬一瞬私は驚いている。まだ私はここにいるのだろうか? そんなはずはない。私はいつ逝ってもおかしくない。それなのにまだ私はここにいる。毎朝、私は眼を開けるたびにこう呟く、「では、やはり私はまだここにいるのか?」なぜならそれはほとんど不可能に見えるからだ。奇蹟は続いている。

           
  〜 The Discipline of Transcendence 超越の道 Vol.2  11章
 私はそれが起こるまで何が起こったのかわからなかった。そしてその時でさえ、それが宗教的な出来事であることを理解してはいなかった。どうして私に理解できただろう? 認識や理解は常にあらかじめ知られているものについてのものだからだ。それが私の上で爆発した時、私はその出来事を認識できなかった。私が感じたのはこれまで知らなかった新しい何かが起こったということだけだった。私が感じたのは、かつてそこにあったものが今はもうなく、今度起こったことはかつてなかったということだった。

 慣れるには時間がかかった。それは「あなたは誰か、そして何なのか?」と尋ねることで初めて知られるような面識だった。この面識はまた、私自身とのものにすぎないだけに実に奇妙だった。私が認識できるもので外側からやってきたものは何ひとつなかった。むしろ、何かが私から落ちた。残ったものは未知のものだった。そして、私はそれに慣れなければならなかった。
慣れるようになってもこの面識は決して完全にならない。というのも、それは日ごとに新しさを加えてゆくからだ。我々がそれを知る頃には、さらに新しくなっている。これはまさに自己知識の果てのない旅だ。終わりもなく、始まりもなく、しかも無限だ。

 宗教性とは行き止まり、dead end ではなく至高の終着地、supreme end だ。それは流れる河のようだ。両岸の風景は日々変わってゆく。連なる樹々は日々変わってゆく。新しい岩や丘が通り過ぎてゆく。そして新しい月や新しい星が見える。何であれ昨日知っていたものは今日は失われる。この究極の体験のなかでは人は決して、「私は行き着いた。私は実現した。
私は知られるべきものを知り尽くした」とは言えない。その言葉を使う者がいれば、彼はまったくたどり着いてはいない。人はその体験のなかに入ることができるだけだ。その終着地にはたどり着かない。終わりはないからだ。誰かが海に入ったとしよう。彼は「私は入った、もう岸はない」と言うことはできても、「私は海に出会った」とは決して言えない、なぜなら新しい岸は決して発見されず、見渡す限りあたり一面海ばかりだからだ。


 だから宗教的な人は自らの到達、自らの成就についてのメッセージを書くことができない。彼に言うことができるのは、古いものはそこになく、現在起こっていることは瞬間瞬間、日ごとに変化してゆくということだけだ。その本性からしてそれは新しい、そしてまた新しい。明日それがどのようになるかを言うことはできない。なぜなら、何であれ昨日あったものは今日はないからだ。何であれ今日あるものは除々に崩れてゆく。あらゆる瞬間の生こそ宗教的な体験だ。そして我々にはそれを達成するために努力することも、完全に達成することもできない。




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 あなたは誰か、そして何なのか? ---- 慣れるには時間がかかった 

 新しい存在の状態が落ち着き、未知の主人に慣れるには少し時間がかかった。

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