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2013年1月8日-筆写
The Sound of Running Water

ザ・サウンド・オブ・ランニング・ウォーター

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以前存在したものはすべて、私でもなければ私のものでもない ---- 最後の爆発
1953年3月21日、午前2時、21歳の時、ついに意識の爆発が青年を覆いつくした。バンヴォルタール園のマウルシュリー樹のもとから現れた存在はこのように語ることができた。
 その爆発のなかで昨日の古い人間は死んだ。この新しい人間は絶対的に新しい。道を歩いていた人間は死んでもういない。存在するのはまったく新しい人間だ。

 今や私の側で考えることはない。これまであなた方がしてきたように、もし誰かが何かを尋ねれば、私は話す。私は考えることすらせず、ただすぐに話すだけだ。記憶に関しても、私のものだとは思わない。それは誰か他人のもののように見える。私が言おうとしているのは爆発以前に起こったこと、そしてそれについて私が語っていることは、私のものではないということだ。それさえもが誰か他人のことのように見える。それはまるで、どこかで聞いたことがあるか、あるいは何かの小説で読んだか、あるいは、芝居か何かで見たことがあるもののようだ。

 その爆発のあとには物語はない。それ以降には何の事件もない。事件はすべて爆発以前のものだ。爆発のあとには真空のみがある。以前存在したものはどれも、私でもなければ私のものでもない。

 何生にもわたって私は働きかけてきた。自分自身に働きかけ、苦闘し、為し得ることはすべてやった。だが、何も起こらなかった。
 今ではなぜ何も起こらなかったのかがわかる。その努力そのものが障害だったのだ。その探求しようとする熱望そのものが妨げだったのだ。
 人が探求なしで到達できるというのではない---。探求は必要だ。だが探求を落とさなければならない地点がやってくる。努力は必要だ。努力なしでは何ごとも可能ではない。そしてまた努力だけでは何ごとも可能ではない。
 
 1953年3月21日の少し前、7日前に私は自分自身に働きかけることを止めた。努力というものの虚しさ全体を見る瞬間がやってくる。できることはすべてやったが何も起こらない。人間として可能なことはすべてやった。だとすれば他に何ができる? 完全な絶望のなかで人はすべての探求を落とす。そしてその探求が止んだその日、私が何かを探し求めてはいなかったその日、私が何かが起こることを期待していなかったその日、それは起こり始めた。
 どこからともなく新しいエネルギーが湧き起こってきた。それはどこの源泉からきたのでもなかった。それはどこでもないところから、そしていたるところからやってきた。それは樹のなかに、岩のなかに、空のなかに、太陽のなかに、大気のなかに---、あらゆるところにあった。私はとても激しくそれを求めていた。私はそれはとても遠くにあるものだと思っていた。それはとても近くに、身近にあった。ただ私が探し求めていたために、近くを見ることができなくなっていたのだ。努力が止んだその日、私も止んだ・・・。
 7日間私は実に絶望的な、救いようのない状態で過した。けれども同時に何かが生まれつつあった。足元には地面がなかった。私は奈落の中に、底なしの奈落の中にいた。しかし何の恐怖もなかった。なぜなら何も守るものがなかったからだ。恐怖はなかった。なぜなら恐れる当人がいなかったからだ。この7日間は途方もない変容、全面的な変換の期間だった。
 
 そして最後の日、全面的に新しいエネルギー、新しい光と新たな喜びの現存は、ほとんど耐え難いほど強烈になった。まるで私が爆発してゆくかのようだった。まるで私は至福のために気が狂ってしまうかのようだった。
 そこに、その起こっていることに意味を見い出すのは不可能だった。それはまるで意味を持たない世界だった---。それを表現するのはむずかしい。分類するのはむずかしい。言葉や言語や説明を用いるのはむずかしい。一切の経典は死んで見え、この体験のために使われてきた一切の言葉はひどく色褪せて血の気もなく見えた。これはそれほどにも生き生きとしていた。まるで至福の潮流のようだった。その日一日、不思議な気の遠くなるような素晴らしさだった。そしてそれは、木っ端微塵に吹き飛んでしまうような体験だった。
 

         〜 The Discipline of Transcendence 超越の道 Vol.2  11章
バンヴォルタール園のマウルシュリー樹
ジャバルプール、バンヴォルタール園空撮図
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