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2013年1月7日-筆写
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The Sound of Running Water

ザ・サウンド・オブ・ランニング・ウォーター

 渦巻と最初のサトリ---第二の7年間の最後の7日間

 またあるとき、少年は妹の死に深く心を痛め、長いあいだ食を断ったという。断食の期間中、彼は腰布をまとい、托鉢の鉢を手にした厳格で伝統的なジャイナ教の僧侶に出会った。少年は僧侶の質素な姿に深い感銘を受け、同じ長衣(ローブ)を身につけ、托鉢によって得た鉢の食べ物しか食べないと言って聞かなかった。
 14歳の誕生日が近づくにつれて、彼の死に対する興味と熱中は、彼のまわりのあらゆるものを死の現象の探究に変えた。
 ふだんはゆっくり流れる穏やかな河も雨期になると荒れ狂う奔流に姿を変え、その頃の彼の風変わりな実験にひとつのはけ口を与え、その奔流のひとつの著しい特徴は、速くて危険な渦を巻くことだった。

 私は河が大好きだった。そして渦にまれるのは最高に素晴らしい体験のひとつだった。
 とりわけ河が雨で氾濫すると、河には猛烈な勢いの強い渦がたくさんできた。水はスクリューのように回転する。それに捕まったが最後、強力に底へ引き込まれる。そして深くゆけばゆくほど渦は強力になる。エゴの自然な傾向は、無論それと闘うことだ。それは死のようだし、エゴはひどく死を恐れているからだ。エゴは渦と闘おうとする。もし氾濫する河や、たくさん渦が巻く滝の近くで渦と闘おうものなら、あなたに勝ち目はない。渦の勢いが非常に強くて、とても太刀打ちできない。力ではどうしようもない---。闘えば闘うほどあなたは弱くなる。渦はあなたを引っ張り続け、あなたはそれと闘っているからだ。闘おうとする努力こどに、あなたはエネルギーを失ってゆく。すぐにあなたは疲れ果て、渦はあなたを飲み込む。

 そして渦巻現象とはこういうものだ。渦は表面では大きいが、深く行けば行くほどだんだん小さくなる---。より強くなるがより小さい。そして底の近くになると、渦はとても小さいので闘わなくても簡単にそこから出られる。実際、底の近くでは渦そのものがあなたを放り出す。だが底まで待たねばならない。表面で闘い始めたら、もう駄目だ。あなたは助からない。
 私はたくさんの渦で試してみた。その体験は素晴らしい。

彼が好んだのは「渦巻ガート」の寺院の近くに巻く渦だった。少年の最初のサトリの光景は次のようなものだった。
14歳の時、再び家族の者たちは、私が死んでしまうのではないかという不安に襲われた。私は再び生き延びたが、そのときも意識的に死んだ。私は彼らにこう言った。「占星術師の言葉どおりに死がやってくるのなら、準備をした方がいい。死にチャンスを与えてやろう。途中まで死を迎えにいこう。死ぬんだったら、意識的に死んだ方がいい」

 私は7日間学校を休んだ。私は校長のもとに行き、こう言った、「僕は死ぬんです」 彼は、「馬鹿なことを言うんじゃない。自殺でもするつもりか? 死ぬとはどういう意味だ?」と言った。
そこで私は、占星術師が語ったことが7年ごとに起こるという予言を彼に明かした。「だから僕は死を待つために7日間籠るつもりです。死がやってくるなら、意識的に死と出会うのがいいでしょう。そうすればそれはひとつの体験になりますからね」
 私は村をちょっと出たところにある寺院に入り、僧侶が私の邪魔をしないように彼と打ち合わせをした。そこはとても古くて淋しい訪れる人もいない寺院----、荒れ寺だった。誰ひとりやってくる者はいなかった。そこで私は彼に言った。「僕はずっと寺院にいます。日に一度、何か食べ物と飲み物をもらえれば結構です。僕は一日中ここに横になっていますから」

 7日間、私は待った。この7日間は素晴らしい体験になった。死はやってこなかったのだが、私の方ではあらゆる手を尽くして死んでみようとした。
 奇妙な不思議な感覚が起こった。いろいろのことが起こったが、基調はこれだった。つまり死んでゆく感じがすると人は穏やかに静かになるということだ。そうなったら心を煩わせるものは何もない。心配事はみんな生にまつわるものだからだ。生があらゆる悩みの元なのだ。あなたが死のうとするとき悩みは消える。

 ある日私がそこに横たわっていると、3日目か4日目のことだが、蛇が一匹入ってきた。私は蛇を見たが恐怖はなかった。そこで私はこう考えた。「もし死がくるのなら、この蛇を通じてくるのかもしれない。だったら恐れるには当たらない」私は待った。蛇は私の上を横切って行ってしまった。恐怖はなくなっていた。もしあなたが死を受け容れたら、恐怖はない。あなたが生にしがみつけば、あらゆる恐怖がそこにある。

 何度も蝿が私のまわりにやってきた。次々にやってきては身体の上や顔の上を這った。いらいらして追い払いたい気分になったこともあるが、そんな時にはこう考えた。「そんなことをしてみて何になる? 遅かれ早かれ僕は死ぬんだ。だとしたらここで身体を守ってくれる者はいない。彼らの好きにさせておこう」蝿を放っておこうと決心すると、たちまちいろいろは消えた。

 蝿はまだ身体にとまっていたが、私には関わりのないことだった。彼らはまるで誰か他人の身体を這い回っているかのようだった。即座に距離が生まれた。死を受け容れると、距離が生まれる。生はそのあらゆる心配事やいらだち----その全てのものと共にはるか彼方に遠ざかる。私はある意味で死んだ。だが不死の何かがそこにあることを知るに至った。死を全面的に受け容れたら、あなたはそれに気づくようになる。


                   Vigyan Bhairav Tantra 24章: 「第3の眼」8章



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