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2013年1月5日-筆写
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The Sound of Running Water

ザ・サウンド・オブ・ランニング・ウォーター

 知られたものの彼方にあるギャップ ---14の段階


 私はどこまでもどこまでも駆けて行く、だが今も倦むことを知らない。今なお私は疲れていない。しかし、神は、私がすっかり疲れ果てて倒れるのを待っている。そして、私が崩れ落ちるのは神のひざの上だ・・・。

 私はほぼ完全な知識を持って生まれてきたと言ってよい。私がほぼと言うのは、いくつかの段階が意図的に省かれていたからにすぎない。
 これに関してもジャイナ教の考えはきわめて科学的だ。彼らは知識を14の段階に分けた。そのうちの13はこの世のものだが、14番目の段階は彼方にある。「グナスタナ gunasthana」---これら最初の13の段階---のなかのいくつかは省くことができる。それは自由に選べる。必ずしもそれらすべてを通り抜ける必要はない。すべての層を通り抜けることも可能だ。しかし、それらを飛び越す者は「ティルタンカール・バンドゥ teerthankar bandh」(他人を光明に導く師になろうとする願望)を残すことが絶対にできない。

 これら13の知識の段階の中には、自由に選べるものがいくつかある。覚醒するためには必ずしも知る必要のない知識の次元がある。人は解脱にまっしぐらに進むことができる。だが、師になる者は、これらの次元も知らなくてはならない。

 心にとどめておくべき大切なことがもうひとつある。それは、ある段階まで進むと、たとえば12の段階を達成したあとでは、残る段階を成就するのにかかる時間を引き延ばすことができるということだ。一度の生でそれらを達成することもできるし、二度の生でも三度の生でもいい。その時期を遅らせることで、すばらしい効果を得ることができる。

 完全な自覚を達成したら、最後に転生をもう一度以上繰り返すことは不可能だ。こうした覚者は、さらにもう一度生まれたら最後、それ以上転生することに協調したり手を貸すことはまずない。ところが、12番目の段階を達成したあと、ふたつの段階を残しておくことができたら、その人はもっとたくさんの生にわたって手を貸すことができる。それを残しておくことはできる。

 12番目の段階に至るやいなや、旅はほぼ終わりに近づく。ほぼというのは、すべての壁がくずれ落ちて、何でも透けて見える透明なカーテンしか残らないという意味だ。だが、カーテンはそこにある。それをめくったあとは、超えてゆくのはむずかしいことではない。カーテンを超えると、あなたが普段目にすることのできるもの全てをカーテンの向こう側からも見ることができる。そこに違いは何もない。私がほぼというのはそのためだ。あともう一歩でカーテンを超えられる。しかしそうなると、もう一度生まれ変わることしかできない。一方、もしカーテンのこちら側にとどまれば、望むだけ生まれ変わることができる。彼方に渡ってしまったら、カーテンのこちら側には、あと一度しか生まれることができない。

 この700年の空白は、私にとっていろいろと困難な時期だった。その困難とは、まず第一に、転生がますますむずかしくなってきたことだ。進化のある段階に達した人にとって、もう一度生まれ変わるのにふさわしい両親を見つけだすことは困難だ。マハヴィーラや仏陀の時代にはそういうむずかしさはなかった。こうした進化した魂が宿ることのできる子宮は、毎日のように得ることができた。

 マハヴィーラの時代、ビハール地方には完全に自己認識を得た人が8人いた。全員がマハヴィーラと同じレベルにいた。彼らは8つの異なる道で働きかけていた。何千もの人々が”あと一歩”の状態に達していた。ワークを正しく管理し、もっと先へ伝えるということを託せる人は、わずかではなく何千人といた。
 今日では、もしその高次のレベルに達した人が誕生を望むなら、数千年は待たなければならないだろう。もうひとつのむずかしさは、この空白期間に、その人が行ったかもしれないワークが失われることがあるということだ。この間に、彼が何らかの働きかけをするかもしれない者たちは、さらに10回の転生を繰り返すことになるだろう。そして、これら10回の転生という層を何層にもわたって切り開くのはむずかしい。

 今日では、師は誰でも最終的にカーテンをめくり、超えてゆく前に、ずっと長い期間を通り抜けなければならない。彼は自分自身をひきとめておかねばならない。一度カーテンを超えてしまったら、彼にはもう一度転生するだけの準備がないか、あるいは転生したがらない。彼はなおもう一度転生するかどうかを選べる。だが、彼はそれは無益だと考えるだろう。これにはわけがある。もう一度転生できるにしても、誰のための転生か? 一度の転生でたくさんのことを成し遂げるのは不可能だ。

 700年前の私の生涯では、死の前になされる21日間の霊的な行があった。私は21日間の完全な断食ののちに、肉体を放棄することになっていた。それにはいくつかの理由があった。だが、私はこの21日間の断食を完成させることができなかった。3日足りなかった。私は今生でその3日を完成しなければならなかった。この生はそこからの続きだ。

 このことに関して、あの空白期間は何の意味も持たない。前生であと3日間だけを残して私は殺された。21日間が完結されなかったのは、私がわずか3日前に殺されたからだ。そして、これらの3日間が省かれた。
 これらの3日間は今生で完結された。これら21日間が前生で完結されていたら、おそらく一度以上の転生を得ることは不可能だったろう。

 そのカーテンの前に立ちながら、それを超えずにいるのはとてもむずかしい。カーテンを目にしながら、それをめくらないのは、とてもむずかしい。カーテンをめくれば、どういう事態になるかに絶えず醒め続けるのはむずかしい。そのカーテンの前に立ちながら、それをめくらずにいるのはほとんど不可能に近いわざだ。だが、これが起こり得たのは、断食が完結する3日前に私が殺されたからにすぎない。

 その殺人は価値あるものになった。死に臨んで、この3日間が残された。前生で光明を得る懸命な努力を払ったのち、前生でならそれら3日間で達成できたものを、私は今生で21年かけて達成することができた。前生での3日間のそれぞれに、私は今生で7年を費やさねばならなかった。だから私は、あの前生だけで完全な自己認識を得て、生まれてきたのではないと言うのだ。代わりに、私はほぼ完全な自己認識を持って生まれてきたと言う。カーテンをめくることはできたが、そうすればあと一度の転生しか可能ではなかっただろう。

 今、私はさらにもう一度転生できる。今、あと一度の転生が可能だ。だがそれは、私がそれを有意義だと感じるかどうかにかかっている。私は今生において、もう一度転生することが何かの役に立つかどうかを見るために努力をし続ける。もしそうなら、転生することには価値がある。さもなければことは終わりを告げ、それ以上の努力を払う意味はない。だから、あの殺人には価値があり、有益だったのだ。

 すでに話したように、肉体のなかにいるあいだの時間の長さと別の意識状態のなかでの時間の計算は異なる。誕生の頃は、時間は非常にゆっくり進む。死のときは、時間は実にすばやく過ぎてゆく。私たちは時間の速さを理解していない。なぜなら、われわれの理解では、時間に速さはないからだ。われわれはすべての事物が時間の中で動くことしか知らない。

 子供の時間は遅い。だが、老人の時間は非常に速く、密度が濃く、凝縮されている。老人にとって時間はとても早く、瞬く間に過ぎる。一方、子供にとって時間は非常にゆっくり進み、ゆったりとしている。
 前生の最後の瞬間だったら、時間はとても密度が濃いので、残った仕事をわずか3日で為すことができただろう。私の齢は106だった。時間はとても素早く過ぎた。この3日間の出来事は、今生の子供時代に引き継がれた。前生では、それはもう少しで終わろうとしていた。だが今生でそのワークを終えるために21年かかった。

                                     〜 神秘の次元2章 〜 


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