2013年1月5日-筆写

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The Sound of Running Water

ザ・サウンド・オブ・ランニング・ウォーター

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   序:事実と真実
            
 マスターのこの伝記は、影のパッチワークだ。

ゲオルギィ・グルジェフが弟子たちに話すと、その場に居合わせた者たちひとりひとりが、まったく異なる出会いの印象を持ち帰ったと伝えられている。グルジェフは、声を荒げて腹を立て、あることに対して烈火のごとく怒っていたという印象を受けた者もいれば、彼は笑っていたと確信する者もいた。しかもなお、三番目の弟子は、その時間はすべて事実上、沈黙のうちに過ぎていたとはっきり感じていた。

 和尚と共にいると、同じ現象が体験される。それは、その場に居合わせた者たちひとりひとりが、実際に起こったことのなかから、各自まったく異なってはいるものの、それぞれが確信に満ちた評価をくだすからだ。

 これら回想録をより正確に調べようとすればするほど、事実は霧のなかにかすみ、実体を失ってゆく。そして、マスター自身の言葉のなかに、どんな実地検証の確認を求めてみても、ほとんど役に立たない。彼には、事実や歴史に対する実に気持ちのいいさげすみがある。彼は証拠を泥まみれにすることに大きな喜びを感じているようだ。時間や空間の彼自身の感覚がどのようなものであれ、伝記作家なら誰もが役に立つと思う日付けや、他の資料がそにはまるで含まれていないことは確かだ。もし読者が直線的な時間内の事実に興味を寄せていたら、がっかりするだろう・・・
 事実とは、無自覚のまま、盲目のまま、眼を閉じたまま、知性を欠いたまま、非瞑想的に見られた真実のことだ。
そのとき、真実は事実になる。たとえば、あなたは仏陀のような人に会う。もしあなたが、彼を無意識のうちに見たら、彼はたんなる事実、歴史的な事実にすぎない。ある日生まれて、ある日死んでゆく。彼は眼で見ることのできる肉体だ。
彼はある人物であり、ある人格だ。歴史が彼に注目することはある、あなたが彼の写真を手にすることはある。だが、もしあなたが見たら---無意識にではなく、大いなる意識、自覚、大いなる光、沈黙で見たら---そのときには事実はもうそこにない。あるのは真実だ。
そうなると、仏陀はある日生まれた誰かではない。仏陀は決して生まれたことのない、決して死ぬことのない誰かだ。そのとき、仏陀は肉体ではない、そのとき、肉体はただの住み家だ。そのとき、仏陀は、あなたにはそう見えるような限られた存在ではない。
そのとき、仏陀は全一なるもの、全体なるものをあらわしている。そのとき、仏陀は限りなきものの一条の光、彼方なるものからこの世への贈りものだ。そうなったら、突如として、事実は消えている。今や、真実がある。だが、歴史はそれに気づき得ない。歴史は、事実から成り立っている。

 インドにはふたつの異なるシステムがある。そのひとつを私たちは歴史と呼ぶ。歴史は事実に注目する。もうひとつを私たちは、プラーナ、神話と呼ぶ。それは真実に目を向ける。私たちは、仏陀やマハヴィーラやクリシュナについての歴史を書かなかった。
いいや、そんなことをすれば、この上もなく美しい何かを人類の濁った無意識のなかに引きずり込むことになってしまっただろう。私たちは、これらの人々についての歴史は書かなかった。私たちは神話を書いた。

                     〜 The Boof of Wisdom アティーシャの知恵の書 上巻 10章


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