〇ザ・サウンド・オヴ・ランニング・ウォーターより・・・

 
たくさんの伝統が、彼がそこを通り過ぎていったことを記録している。チベットでは、神堂「The Halls of Incarnation」に彼の黄金の像が安置されているという。

 彼のこの前の生は、山地のなかであったとも言われている。彼は、さまざまな伝統や大きく異なる道からやってきた弟子たち、彼が旅をしてきたあらゆる場所や時間からやってきた弟子たちのミスティック・スクールを招集していた。彼らはファミリーとして共に仕事をし、マスターは106歳になるまで彼らと共にあった。そして、この大いなる歳にもついに死が訪れようとしていた。

 老齢のマスターは、21日間の断食に入った。それは彼の<究極の覚醒>のクライマックスに達するものだった。意識のそのピークからは、あとひとつの生のみが可能だった。ひとつの生ではほとんど成しとげ得ないことを承知の上で、彼はファミリーを吟味した。彼はそこに、非常に多くの道の可能性を、多くの道の統合を見た。彼は新しい人間、そして過去とまったくつながりを持たないものを作り出せるという可能性を見た。だが、用意ができている者はほとんどなく、実に多くの者が助けを必要としていた。

 その頂から顔をそむける困難は、想像を絶する。自分がいくたの生にわたって努力し求めてきた究極のゴールが、視野に入ったまさにその最後の瞬間に、ふたたび彼は暗闇の中に後戻りした。愛と慈しみから、彼はファミリーに戻ってくることを約束し、それを成し遂げる方策を考えだした。

 断食の18日目に、賢者は殺された --- 彼の最終的な帰還には3日足りなかった。

 700年が過ぎた。約束が成就されるときがきた。
 彼は、今ふたたびインドに生まれた。失われた3日間は、3回の7年周期に持ちこされた。
 21歳のとき究極の悟りが起こり、ワークが始まった。
 

                       

 私の前回の生涯は約700年前に起こった・・・。

 私はほぼ全面的な知識を持って生れて来たと言ってもいい。私がほぼと言うのは、いくつかの段階が意図的に残されたからに過ぎない。そしてそれは意図的になされ得る。

 これに関連しても、ジャイナ教徒の考え方は非常に科学的だ。彼らは知識を14の段階に分ける。13の段階はこの世のものであり、14番目の段階は彼方のものだ・・・。

 ある段階まで進むと、例えば、12の段階を達成した後では、残りの段階を達成するのにかかる時間を引き延ばすことができるということだ。それらの段階は1度の生涯で達成することもできるし、2度ないし3度転生することで達成されることもできる。その時期を遅らせることですばらしい効用を得ることができる。

 全面的な自己認識を達成してしまうと、転生する可能性はあと1度しか残されていない。が、こうして光明を得た人は、それ以上転生することに協調したり手を貸そうとはしないものだ。だが12の段階を達成した後に、もし残りの2つをそのままとっておくことができれば、そういう人はさらに多くの誕生を迎えることができる。それらを残しておくことによって、それが可能性になる。

 12番目の段階に達すると、旅はほぼ終わりに近づいている。私がほぼと言うのは、あらゆる壁が崩れ去り、そこを通して何もかも透けて見える透明なカーテンだけが残っているという意味だ。だがそこには、カーテンがあることはある。それを引いてしまえば、彼方に行くことは何も難しくない。そのカーテンを越えてしまうと、普段こちら側から見えているものはすべて、カーテンの向こう側からでも見える。そこに違いは何もない。

 私がほぼと言うのはそのためだ。もうあと一歩で、そのカーテンを越えていくことができる。だがそうなってしまうと、もう1度の転生の可能性しかないのに対して、カーテンのこちら側に留まれば、本人の望むだけ何度でも転生を繰り返すことができる。向こう側に渡ってしまったら、カーテンのこちら側にはあと1度しか戻って来れない。

 この700年の空白は、私にとっていろいろと困難な時期だった。それは、まず第一に、転生がますます難しくなってきたことだ。進化のある段階に達した人にとって、もう一度生まれ変わるのにふさわしい両親を見つけだすことは困難だ。マハヴィーラや仏陀の時代にはそういう困難はなかった。

 今日では、もし高次のレベルに達した人が誕生を望むなら、数千年は待たなければならないだろう。もうひとつの困難さは、この空白期間中に、その人が行なったかもしれないワークが失われることがあるということだ。この間に、彼らが何らかの働きかけをするかもしれない者たちは、さらに10回の転生をくり返すことになるだろう。
 そして、これら10回の転生という層を何層にもわたって切り開くのは困難だ。

 私の母は、私が生まれてから3日間泣き声を上げなかった、そして3日間乳をまったく飲まなかった、と語った。


 700年前の私の前生では、死の前になされる21日間の霊的(スピリチュアル)な行が行なわれた。私は21日間の完全な断食ののちに、肉体を放棄することになっていた。それにはいくつかの理由があった。だが、私はこの21日間の断食を完成させることができなかった。3日足りなかった。私は今生でその3日を完成しなければならなかった。この生はそこからの続きだ。

 このことに関して、あの空白期間は何の意味も持たない。前生であと3日間だけを残して私は殺された。21日間が完結されなかったのは、私がわずか3日前に殺されたからだ。そして、これらの3日間が省かれた。
 これらの3日間は今生で完結された。これら21日間が前生で完結されていたら、恐らく一度以上の転生を得ることは不可能だっただろう。

 私を殺した人も、私の敵と思われ、またそう扱われてもいるのだが、私に対しては何の敵意も持っていなかった。その殺人は価値あるものになった。死に臨んで、この3日間が残された。

 前生で光明を得ることを求める懸命な努力を払ったのち、前生でならそれら3日間で達成できたものを、私は今生で21年かけて達成することができた。前生での3日間のそれぞれに、私は今生で7年を費やさねばならなかった。

 今、私はさらにもう一度転生できる。今、あと一度の転生が可能だ。だがそれは、わたしがそれを有意義だと感じるかどうかにかかっている。私は今生において、もう一度転生することが何かの役に立つかどうかを見るために努力し続ける。もしそうなら、転生することには価値がある。さもなければことは終わりを告げ、それ以上の努力を払う意味はない。だから、あの殺人には価値があり、有益だったのだ。
 
 前生の最後の瞬間だったら、時間はとても密度が濃いので、残った仕事をわずか3日で為すことができただろう。私の齢は106だった。時間はとてもすばやく過ぎた。この3日間の出来事は、今生の子供時代にひきつがれた。前生では、それはもう少しで終わろうとしていた。だが今生でそのワークを終えるために21年かかった。

  よくあることだが、機会を見逃すと、一日のために7年も費やすことが必要になることがある。そういうわけで、今回の生涯で、私は全面的な自己認識をもってやってきたわけではないが、全面的な認識に近い状態でやって来た。

 700年と言えば非常に長い期間だ。だが700年後に生まれてくる者にとってはそれはさほど長くはない。なぜなら肉体にいないときには、一瞬と700年の間には何も違いはないからだ。時間を測ることは肉体を持って初めて起こる。肉体の外にあれば、700年いようが、あるいは7,000年いようが、何も違わない。肉体を獲得してその違いが始まる。

 全面的な自己認識を達成してしまうと、転生する可能性はあと一度しか残されていない。

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神秘の次元・・・・


            


 ふたつの生(過去生と現在の生)の間には何もおきていない。ふたつの生の間には、隙間がある。その隙間では、何も起きてはいない。人はそれをただの隙間として覚えていられる。何かで埋められてはいない。

  私はこの700年の間、完全に意識的だった。完全に意識していた。私が意識していたのは隙間の意識、真空、空、何も起きていないことへの意識だ。何も起きていなかった。
 その隙間の間には、どんな欲望も不可能だ。欲望は、まさに死ぬ時に起こる。欲望は、死の瞬間に起こる---そしてひとつの生の最後の欲望は、新しい生が始まるときの最初の欲望になる。

 私が言う「700年間」とは隙間の記憶のことではない。その数字はたんに隙間の反映だ。隙間自体に時間はありえない。
 前生と次の生との間には夢は存在しない。夢を見ることはできない。なぜなら夢を見ることさえ肉体が必要だからだ。何事も肉体なしには経験できない---。肉体には、経験するためのすべての道具が含まれている。

 だからひとつの前生と次の生の間に意識的であることは、まぎれもなく自分の意識に醒めているということだ。その間には何もなく、思考も欲望もない。だが最後の欲望が、様々な影響を与える。・・・もし死の瞬間、何の欲望も思考もなく完全に意識的であれば、再誕は不可能だ。

 死の瞬間の最後の思考は、潜在的な種子として働く。その働きは自動的だ。再誕できる機会なり状況があれば、いつでも再誕することになる。そしてもしあなたが最後の生で意識的であったなら、今回の生でもまた意識的なものになるだろう。
 その時、その生は最後の生となる。・・・もうこの世に生まれてくることはない。

                                         
・・・・グレート・チャレンジ P352 ・・・ 


           

 子供が誕生する瞬間、あなたは、それはその人生の始まりだと思う。それは真実ではない。老人が死ぬ瞬間、あなたは、それは彼の人生の終わりだと思う。それはそうではない。生は誕生と死よりもはるかに大きい。

 誕生と死は生の二つの終わりではない。多くの誕生と多くの死は生の中で起こる。生それ自身には始まりも終わりもない。生と永遠は同等だ・・・。

 生はあなたの過去生の死の地点で始まる。あなたが死ぬ時、一方で人々があなたの生涯だったと思っている生の一章が閉じられる。それは無限の章を持つ本の中の一つの章にすぎなかった。一つの章は閉じるが、本は閉じられない。ちょっとページをめくってみると別の章が始まる。

 死にかけている人は自分の次の生を具象化し始める。これは知られている事実だ。なぜならそれは章が閉じられる前に起こるからだ・・・。

 仏陀はそのため言葉を持っている。彼はそれをタンハと呼ぶ。文字どおりそれは欲望を意味しているが、比喩的にそれは欲望の生涯を意味している。挫折、実現、失望、成功、失敗・・・これらすべての事は起こったが、これはすべてあなたが欲望と呼べる一定の範囲内で起こった。

 死にかけている人は、身体が消え去っているため、彼がさらに先へ進む前に、ただそれを回顧するために、事の全体を見なければならない。このマインドは彼と一緒ではなくなる。この脳は彼と一緒ではなくなる。
 だがこのマインドから解放された欲望は彼の魂に固執するだろうし、この欲望は彼の未来の生を決定するだろう。満たされずに残ったものが何であれ、彼はその目標に向かって動く。

 あなたの生はあなたの誕生前の、あなたの母親の受精前のはるか後ろで、あなたの過去生の終わりのさらに後ろで始まる。その終わりがこの生の始まりだ。一つの章が閉じて、別の章が開く。今、そのようにしてこの新しい生はあなたの死の最後の瞬間によって99パーセントが決定される。
 あなたが集めたもの、あなたが種のように自分にもたらしたもの、その種は木になり、果実をもたらし、花をもたらす。またはそれに対して起こるものは何でももたらす。あなたは種の中にそれを読み取ることはできないが、種は全ての青写真を持っている・・・。

 もし人が、彼が通過した地域全体を見て、それの全ての愚かさを見て、完全に油断なく死ぬなら、彼は自動的に鋭敏さを持って、知性を持って、勇気を持って生まれる。それは彼がすることではない。

                                   From Misery To Enlightenment  09




            


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