自分史 日本でのOshoのワーク Osho 社会情勢
1974年 3月、大阪から京都へ移り、一人暮らしを始める。 3月、ムンバイからプネーに移る ルバング島で小野田少尉を発見。
長島茂雄引退。
1975年 6月、アッシーシ・ラジニーシ瞑想センター、神奈川県に開かれる。
「存在の詩」小冊子で毎月発行される
手書き本「存在の詩」-プラブッダ
ベトナム戦争終結。
日本赤軍の海外でのテロが続発する。
1976年 ロッキード事件
毛沢東死去
1977年 「存在の詩」めるくまーる社から発行される。
アッシーシ・ラジニーシ瞑想センター、東京・武蔵野市へ移る
1978年 東京に移る。
瞑想に興味を持ち始める。

桐山靖雄の瞑想センターに入る。
2月、アッシーシ・ラジニーシ瞑想センター、東京・昭島市へ移る。
   サハジ・ラジニーシ瞑想センター、愛知県下に開かれる。
5月、「ラジニーシ・ニューズレター」創刊。
グループ・セラピーがアッシーシ・センターで始まる
1979年 マハリシ・マヘッシ・ヨーギの超越瞑想を始める。 2月、スバガット・ラジニーシ瞑想センター、仙台市に開かれる。
ミュージック・グループ、スーフィ・ダンスがアッシーシ・センターで始まる
マザー・テレサ、ノーベル平和賞
1980年 「存在の詩」を読む。
他に、クリシュナムルティ、ハックスレー、ヘッセ、アダムスキー、横尾忠則等に影響を受ける。
1月、ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン (RPJ) 設立。
2月、アナンド・ニケタン・ラジニーシ瞑想センター、東京・杉並区に開かれる。
12月、シャンティユガ・ラジニーシ瞑想センター、東京・世田谷区に開かれる
ソ連のアフガニスタン侵入で、日本のモスクワ・オリンピックをボイコット
ジョン・レノン射殺事件。
1981年 東京・銀座で油彩画個展 5月、ウツサバ・ラジニーシ瞑想センター、神戸市に開かれる。
   「日本語版サニヤス 1」発行される。
8月、サンボーディ・ラジニーシ瞑想センター、京都市に開かれる。
9月、シャンティ・ユガ・ラジニーシ瞑想センター、東京・品川区へ移る。
10月、ネホ・ラジニーシ瞑想センター、山口県に開かれる。
  シャンティギート・ラジニーシ瞑想センター、福岡市に開かれる。
  ニクンジ・ラジニーシ瞑想センター、坂出市に開かれる。
  サマーグロ・ラジニーシ瞑想センター、熊本県に開かれる
5月31日、プネーを離れる。
6月1日、アメリカ、ニュージャージ州に滞在。
8月14日、プーナのアシュラムが閉じられる。
8月29日、ラジニーシ・プーラムへ向かう

ラジニーシズム
1982年 会社を退職。
長崎・平戸に移る。

6月、サニヤスを受ける
リバーシングで霊的体験を受ける。

 OSHOとの出会い 

2月、アッシーシ、アナンド・ニケタン、シャンティ・ユガの三つの瞑想センターが合併し、新たにシャンティユガ・ラジニーシ瞑想センターとして東京・目黒区に開かれる。
10月、シャンティギート・ラジニーシ瞑想センター、直方市へ移る。
  ウツサバ・ラジニーシ瞑想センター、大阪市へ移る。
11月、ニクンジ・ラジニーシ瞑想センター、香川県へ移る。
12月、ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン (REJ) 発足
7月3日〜7日: ラジニーシ・プーラムで「第1回ワールド・セレブレーション」が開かれる
1983年 インド旅行。
福岡のセンターに入居。

ラジニーシ・プーラム「第2回ワールド・セレブレーション」に参加する。
1月、東京、神戸で、Oshoのアメリカ永住ビザ申請拒否に対する抗議デモが起こる。
4月、シャンティギート・ラジニーシ瞑想センター、春日市へ移る

5月、加藤三郎、爆弾テロ容疑で逮捕される。彼がOshoの弟子になっていたため、全国のOshoの弟子たちに疑いがかけられる
1984年 神智学を知る。
鹿児島の開聞、屋久島へ行く。
この頃、オレゴンのラジニーシ・プーラム建設のために助力することと、ラジニーシズムを信奉することが、Oshoの弟子であるための義務のように見なされる
福岡のシャンティギート・センターは、これに反論して、ラジニーシの名前をセンターから外すが、そのことで東京のセンターから批判を受ける

愛知のサハジ・センター、香川のニクンジ・センター、閉じる
マハマニ・ラジニーシ瞑想センター、沖縄に開かれる
仙台のスバガッド・センター、大阪のウツサバ・センター、閉じる
オウム神仙の会
インド、インディラ・ガンジー首相暗殺。
1985年 福岡のセンターを離れ、大阪に戻る。後、奈良に移る。 9月14日: Oshoの個人秘書シーラとコミューンの管理を任されていた何人かのメンバーが突然立ち去る。
ラジニーシ・プーラム解体
ソ連、ゴルバチョフ政権確立。
1986年 ワールド・ツアー チェルノブイリ原発事故
1987年 「ラジニーシ・ニューズレター」100号で廃刊される
日本版「ラジニーシ・タイムス」発刊
Osho、インドに戻る オウム真理教発足
1988年 最初のOshoの翻訳 Oshoサクシン瞑想センター、東京・西荻窪に開かれる 「バグワン」という名を棄て去る
1989年 11月29日、菊池霊鷲(太母さん)、プネーのアシュラムで和尚に会う
12月10日、和尚マルチバーシティ日本、伊勢からの報告
12月: インナー・サークル設立 ベルリンの壁崩壊
天安門事件

薬害エイズ裁判
1990年 6月、母死亡 1月19日、Osho、肉体を離れる
1991年 プネー、アシュラムに行く。
Oshoの洋書を収集する。

「秘教の心理学」翻訳
三重県でシャルノを中心とした日本マルチバーシティ計画が起こる
OSHOマルチバーシティ・ジャパン 
ラジニーシ・堕ちた神(グル)」発刊 
インナー・サークルから4人が離脱。 バブル崩壊
1992年 ドイツ人サニヤシンと結婚 市民出版社設立
1993年 1995年まで約3年間、ダイナミック瞑想を続ける。 OEJ、和尚アートユニティ設立
1994年 プネー、アシュラムに行く。 OSHOプレム・コミューン (山梨) -サクシン Oshoアーカイブ
1995年 Oshoの世界から離れる。
以後、約10年ほど風景写真撮影に没頭する。
離婚。
オウム真理教強制捜査に伴い、各マスコミからオウム真理教とOsho〜そのワークと日本人弟子〜を混同した報道がなされる 阪神淡路大震災
地下鉄サリン事件
オウム真理教強制捜査
1997年 一戸建て家、購入 Oshoの誕生地、クチワダが整備・再建され、新たにコミューンが作られる
2001年 インナー・サークルからニーラムが離脱。
-- OSHO WORLD設立
アメリカ同時多発テロ
2003年 玉川信明、独自にOshoの編集本を4冊出版。
2004年 OSHO MIXI アシュラム・本・出版について
2005年 OSHO MIXI シャルノの動向について
2007年 スピリチュアリズム、シルバー・バーチ、シュタイナー、ケイシー、スウェーデンボルグ等を学ぶ OSHO MIXI プネーのアシュラムの変化について
2008年 ホームページ開設。
2010年 1月19日: 退職 2月14日、プネー、ジャーマン・ベーカリー爆破事件。死者9人、負傷者45人。 尖閣諸島問題
2011年 Oshoの翻訳を始める 山の椒エコビレッジ〜OSHOマルチバーシティ・ジャパンの成れの果て 東日本大震災
2012年 「アティーシャの知恵の書(上)」発行
HP-Oshoのページ開設。  
  インド旅行
2013年 「アティーシャの知恵の書(下)」発行 山川紘矢/亜希子の翻訳者によるOshoの編集本「Joy 喜び」が発行される
阿部敏郎により初期のOshoの邦訳本の版権が買い取られ、まず「究極の旅」が改訂再販される。
2014年 「死ぬこと 生きること」発行
「炎の伝承 1」発行
 〜入院〜
2015年 「炎の伝承 2」発行 4月、シャルノ亡くなる。 イスラム国脅威
韓国 MERS
2016年 「真理の泉」発行 3月、ナルタン「インナーラビリンス」出版 熊本地震
2017年 2月、ミーラ、南アフリカで亡くなる。 北朝鮮ミサイル脅威
2018年 「OSHO・反逆の軌跡」発行

年金
オウム真理教の麻原彰晃(63)ら7人の死刑が執行された。
異常気象が続く。大阪北部地震。北海道地震
2019年 「ブッダ-最大の奇跡」発行
「心理学を超えて 1」発行
「ブッダの悟り」発行
Oshoアーカイヴ・ビデオ全巻入手-HDD保存
    元号が「令和」になる
台風により各地で洪水被害
2020年 「心理学を超えて 2」発行 中国新型コロナウイルス世界的流行
2021年 4月、ナルタン亡くなる。 プネーのアシュラム閉鎖(?) 新型コロナウイルス世界的流行
2022年 ブッダの真実」発行 ロシア、ウクライナ侵攻
安倍元総理襲撃事件。これに関連して統一教会と政治との関係問題が浮かび上がる。
2023年 インド哲学研究翻訳
ブッダの道」発行
     

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