わたしは、1953年3月21日のあの運命の日のことを思いだす。 それまで幾多の生にわたって働き続け・・・自分自身と取りくみ、 奮闘し、できるかぎりのことはやってきていたが・・・・ なにひとつ起こっていなかった。

  いまなら、どうしてなにも起こっていなかったかは理解できる。 まさにその努力じたいが障壁だった。 まさにその梯子じたいが妨げになっていた。 探求しようとするまさにその衝動じたいが邪魔物だったのだ。 人が探求しないで到達できるということではない。 探求は必要だ。 が、そうしていつか探求も落とされねばならない地点が来る。 川を渡るには舟が必要だ。 が、いつかその舟をおりて、それのことはすべて忘れてしまい、 あとに残して行かなければならなくなるときがくる。 努力は必要だ。 努力なしにはなにひとつ不可能だ。 しかしまた努力だけでも、なにひとつ不可能だ。

 1953年3月21日の直前、 その7日前に、わたしは自分自身と取りくむのをやめた。 努力というものの虚しさ全体が見える瞬間があるものだ。 自分にできることはすべてやりつくして、なにも起こらない。 人間として可能なことはすべてやりつくした。 そうしたら、あとほかになにができる? まったくのお手上げ状態で、 人はいっさいの探求を落とす。

 そして、探求がやんだその日、 わたしがなにかを追い求めなくなったその日、 なにかが起こるのを期待しなくなったその日、 それは起こりはじめた。 ひとつの新しいエネルギーが、どこからともなく湧き上がってきた。 それはどんな源泉から出てきたものでもなかった。 どこからともなく、またあらゆるところから出てきていた。 それは樹々のなかにあり、岩石や空や太陽や空気のなかにあった。 それはあらゆるところにあったのだ。 なのに、わたしは必死で追い求めていた。 はるかかなたにあると思っていた。 ごく近く、ごく間近にあったのに・・・。

 ・・・・7日間、 わたしはじつに希望のないお手上げ状態で生きていたが、 同時になにかが湧き上がってきてもいた。 わたしが希望のないと言うとき、 それはあなた方が希望のないという言葉で意味するものとはちがう。

 それはただ、 わたしのなかに希望がなかったということにすぎない。 希望が不在だった。 わたしに希望がなくて、 悲しかったと言っているのではない。 じっさいには幸せだった。 わたしはとても平静で、 穏やかで、まとまっていて、 中心(センター)がすわっていた。 希望はなかったが、それは完全に新しい意味でだった。 そこに希望がなかったとしたら、どうして絶望がありえよう。 両方とも消え失せていた。

 その希望のなさは、絶対的で全面的なものだった。 希望が消えて、それといっしょに その片割れである絶望もまた消え失せていたのだ。 それはまったく新しい経験だった。 希望がないという状態・・・。 それは否定的消極的な境地ではなかった。 ・・・・完全に肯定的、積極的だった。 それはただの不在ではなかった。 ある<現存>が感じられた。 わたしの中でなにかがあふれ出していた。 氾濫していた。

 そして、わたしがお手上げだったと言うのも、 辞書に出ているような文字どおりの意味ではない。 それは単に、わたしが無自己だったということだ。 それがわたしのお手上げという意味なのだ。 わたしは自分がいないという事実を認識した。

 だとしたら、自分というものに依って立つことはできない。 だとしたら、自分自身の地歩に立つことはできない。 ・・・わたしは・・・底なしの奈落に落ちこんでいた。 しかし、そこに恐怖はなかった。 なにひとつ守るべきものはなかったからだ。 そこに恐怖はなかった。 だれもこわがる者がいなかったのだから・・・。
 
 その7日間はすさまじい変容の、全面的変容の7日間だった。 そしてその最終日、ひとつのまったく新しいエネルギー、 新しい光と新しい歓喜の<現存>が、 ほとんど耐えがたいほどに強烈なものとなった。 まるでわたしは爆発しているかのようだった。 至福(bliss)で気が狂うかのようだった。 西洋の新しい世代ニュージェネレーションはそれをうまく表現している。 わたしはぶっ翔んでいた(blissed out)、ストーンだった。

 なにがどうなっているのか・・・さっぱりわけがわからなかった。 それはじつにナンセンスな世界だった。 割り出すのも難しい、カテゴリーに分類するのも難しい、 言葉や言語や説明を用いるのも難しい・・・。 すべての経典類は死んでみえたし、 この体験をあらわすのに使われてきたあらゆる言葉も じつに色あせて、貧血気味に映った。 それはそれほどまでに生きていた。 ちょうど至福の大津波のようなものだった。

 その日は一日中奇妙で、気の遠くなるような日だった。 しかも、それはなにもかも木っ端みじんにするような経験だった。 過去は消え失せていった。 あたかも、 それが一度としてわたしのものだったことなどなかったかのように。 あたかも、 それについてはどこかで読んだことがあるにすぎないかのように。 あたかも、 それは夢だったかのように。 あたかも、 それはだれかほかの人の話で、 だれかがそれを語ってくれただけのものであるように・・・。

 わたしは自分の過去から解放されていった。 自分の歴史から根こそぎにされていった。 自分の自叙伝を失っていった。 わたしはひとつの非存在になりつつあった。 ブッダがアナッタ(無自己)と呼ぶもの・・・。 さまざまな境界線が消え失せていった。 区別が消え失せていった。

 心(マインド)が消え失せつつあった。 それは何百万マイルもむこうにあった。 それはつかまえるのが困難だった。 どんどんと遠くの方へ、遠くの方へ飛び去って行ったし、 それを近くにとどめておこうという衝動はまったくなかった。 わたしはただ、そのすべてにたいして無頓着だったのだ。 それでかまわなかった。 過去と継続したままでいようとする衝動はなかった。

 夕方までに、それはじつに耐え難いほどになった。 それは痛んだ。苦痛だった。 それはちょうど、子どもが生まれるときに女の人が産気づいて、 すさまじい痛みに苦しむのと似ている。 陣痛だ。 そのころは夜中の12時か1時に眠る習慣だったが、 その日はとてもそれまで起きていられなかった。 まぶたが自然に閉じてきて、あけているのが難しかった。

 なにかがごく切迫していた。 いまにもなにかが起ころうとしていた。 それがなんであるかはわからなかった。 ・・・もしかしたらわたしの死であるかもしれない・・・ が、そこにはなんの恐怖もなかった。 わたしはその準備ができていた。 それまでの7日間があまりにも美しかったので、 わたしはもういつ死んでも良かった。

 それ以上なにも必要なかった。 その7日間がじつに途方もないくらい至福に満ちていて、 わたしはあまりにも満足していたから、 もし死がやってくるのなら大歓迎だった。 しかし、とにかくなにかが起ころうとしていた。 なにか死のようなもの。 なにかとても劇的なもの。 死でなければ新生、 磔(はりつけ)でなければ復活のようななにか・・・。 とにかく、とてつもなく重大ななにかがすぐそこの角まで来ていたのだ。 そして、目をあいているのが不可能だった。

 わたしは8時ごろ眠った。 それは眠りとはちがっていた。 いまなら、パタンジャリが睡眠とサマーディは似ている という意味を理解できる。 ちがいはただひとつ・・・ サマーディのなかで、 あなたは完全にめざめていて、また同時に眠ってもいる。 眠っていて同時にさめている。 からだ全体はリラックスしている。 肉体のどの細胞もひとつ残らず完全にリラックスしている。 あらゆる機能がリラックスしている。 しかし、なおかつ覚醒の光があなたの内で燃えている。 明るく、煙もださずに・・・。 あなたは目を見はっていて、しかもリラックスしている。 ゆったりとしていて、しかも完全にめざめている。 肉体は可能なかぎりもっとも深い眠りにはいっていながら、 意識はその絶頂にある。 意識の頂点と肉体の谷間が出会うのだ。

 わたしは眠りについた。それはとても不思議な眠りだった。 からだは眠っていたが、わたしはさめていた。 それはじつに奇妙だった。 まるで、自分がふたつの方向に、 ふたつの次元に引き裂かれているかのようだった。 まるで、二極性がその極致に達したかのようだった。 自分が同時にその両極であるかのようだった。 正と負が出会っていた。 睡眠と覚醒が出会っていた。 死と生が出会っていた。 それこそ、「創造主と創造物が出会う」と言うにふさわしい瞬間だ。
 
 それは気味が悪かった。 生まれてはじめて、 それはまさしく根底からあなたにショックをあたえる。 あなたの基盤を揺るがす。 その体験のあと、あなたは二度ともう同じあなたではありえない。 それはあなたの生にひとつの新しいヴィジョンを、 ひとつの新しい質をもたらすのだ。

 12時近くになって、突然目が開いた。 わたしが開いたのではない。 眠りがなにかべつなものによって破られた。 わたしは、部屋の中の自分のまわりに ひとつの大いなる<現存>を感じた。 それはとても小さな部屋だった。 わたしはあたり一面に脈動する生命を感じとった。 大いなる波動だ。 ほとんどハリケーンといってもいい。 光の、よろこびの、エクスタシーの大いなる嵐・・・。

 それが実に途方もなくリアルであるあまり、 なにもかも非現実的になってしまった。 部屋の壁が非現実的になり、家が非現実的になり、 自分自身のからだも非現実的になった・・・

 その夜、もうひとつのリアリティーがその扉を開いた。 もうひとつの次元が姿をあらわしたのだ。 突如として、それはそこにあった。 もうひとつのリアリティー、本当にリアルなるもの・・・ あるいは呼びたければどう呼んでもいい。 <神>と呼んでもいいし、 <真理>と呼んでもいい。 <ダルマ>と呼んでもいいし、 <タオ>と呼んでも、ほかのどんな呼び方をしてもいい。

 それは無名なるものだった。 しかし、それは厳然としてそこにあった。 じつにすきとおっていて、実に透明で、 しかも手でさわれるぐらい確固としていた。 そのおかげで、部屋の中は窒息しそうだった。 それはトゥーマッチで、わたしにはまだそれを吸収する力がなかった。 わたしのなかに、部屋を飛びだそう、 空の下に出ようという深い衝動が湧き上がった。 それは息づまりそうだった。 それはトゥーマッチだったのだ! 殺されてしまう! もしあと数瞬でもそのままだったら、 わたしはそれに窒息させられていただろう。 そんな気がした。

 わたしは部屋から飛びだすと、道路に出た。 とにかく大空の下で星々とともに、 木々とともに、大地とともにいたい・・・ 自然とともにいたいという大きな衝動があった。
 
 そして、外に出たとたん、窒息しそうな感じは消え去った。 部屋という場所は、あれほどの大現象には小さすぎたのだ。 あの大現象にとっては、空でさえ小さい。 それは空よりも大きいのだ。 空でさえその限界ではない。 しかし、そのときは部屋のなかよりも楽になった。 わたしはいちばん近い庭園にむかって歩いていった。 それはまるで重力が消滅したかのような、まったく新しい歩行だった。 歩いていたのか、走っていたのか、 それとも空を飛んでいたのか、どれとも決め難かった。 そこには重力がなかった。 わたしは重さがないような感じだった。 まるで、なにかのエネルギーに運ばれているかのように・・・。 わたしはなにかべつなエネルギーの手中にあった。

 生まれてはじめて、わたしは孤独(alone)ではなかった。 生まれてはじめて、わたしはもう、ひとりの個ではなかった。 生まれてはじめて、水滴は大洋に落ちたのだ。 いまや、海全体がわたしのものだった。 わたしが海だった。 そこには限界というものがなかった。 まるでなんでも好きなことができるかのような、 途方もない力が湧いてきた。 そこにわたしはいなかった。 ただその力だけがあったのだ。

 わたしは毎日のように行っていた庭園に着いた。 庭園は夜は閉まっていた。 遅すぎた。ほとんど夜中の一時に近かった。 庭師達は眠りこんでいた。 わたしは泥棒のようにしてその庭園にはいらなければならなかった。 門をよじのぼらなければならなかった。 だが、なにかがその庭園に向かって引っぱっていた。 わたしには自分をひきとめることができなかった。 わたしはただ浮かび漂っていたのだ。 それがわたしのくり返しくり返し言う 「川といっしょに浮かび漂いなさい。川を推し進めることはない」 という言葉の意味なのだ。 わたしはリラックスしていた。 手放し状態だった。 わたしはそこにいなかった。 そこにはそれがあった。 それを神と呼ぶならば・・・神がそこにいた。

 庭園に足を踏み入れた瞬間、なにもかも光り輝きだした。 あたり一面に・・・その天恵、その祝福があった。 わたしは生まれてはじめて樹々を見ることができた。

 その緑、その生命、樹液そのものが昇ってゆくところ・・・。 庭園全体が眠りこんでいた。 樹々も眠りこんでいた。 しかし、わたしには庭園ぜんぶが生きているのが見えた。 小さな草の葉でさえ、たとえようもなく美しかった。

 わたしはあたりを見まわした。 1本の木が途方もなく光り輝いていた。 モールシュリの木だ。 それがわたしを惹きつけた。 それ自身にむかってわたしを引き寄せた。 わたしがそれを選んだのではなかった。 神自身がそれを選んだのだ。 わたしはその木のところへ行くと、 その下に腰をおろした。 そこへすわると同時に、 ものごとが落ち着きはじめた。

 全宇宙がひとつの天恵となった。 わたしがどのくらいその状態にいたかは断定しにくい。 家に帰ると、朝の4時だった。 だから、時計上の時間でいえば少なくとも3時間そこにいたにちがいない。 が、それは永遠だった。 それは時計の時間とはまったく無関係だ それは時をもたなかったのだ。 その3時間は永遠の全体、終わりなき永遠となった。 そこに時はなかった。 時間の経過はなかった。 それは純潔なるリアリティーだった。 犯されず、触れられず、計測もされえない・・・。

 そしてその日、なにか今日まで継続していること・・・ ひとつの連続としてではないが・・・ いぜんとしてひとつの底流としてひきつづいているなにかが起こった。 永続性とはちがう。 毎瞬のように、それはくり返し、 くり返し、起こりつづけているのだから・・。 一瞬一瞬がひとつの奇跡だった。




   〜「反逆のブッダ」より。原書:The Discipline of Transcendence Vol.2  11章〜 






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