1月 9日

 2018年の新年を迎えたところで、特に何も変わらない。あえて言うなら、翻訳作業の要であるノートPCのHDDを交換したくらい。交換した理由は、容量を250GBから500GBに増やしたいのと、旧HDDの使用時間が約1万5000時間くらいになっていて、新HDDの使用時間はほんの10時間であるため。
 容量を増やしたのは、息抜きに映像や音楽映像を見るので、そのファイルを多く保存したいため。旧HDDは使用時間が長くても特に何も問題はないが、毎日ほとんど丸一日PCを使っているので、今の生活では一番大切なものであり、できるだけ壊れずに長持ちさせたいため。
 データのバックアップにはMOを使っている。ワードのファイルなので640MBで十分余裕がある。

 クリシュナの翻訳については、やはりヒンディー語講話からの英訳であるため、Oshoの英語の講話ではまず使われないような単語が多く出てくるし、文法的にもおかしなところが多い。ということで翻訳には手こずらされている。
 ヒンディー語講話からの英訳は、内容は確かに深いが、翻訳はより難しくなり、それだけ時間もかかってくる。




 
1月16日

 現在翻訳しているKRISHNA: The Man and His Philosophyは1970年の講話で、英訳本が出版されたのは1985年。
 ようするに1970年当時のインド人相手の講話だから、その時代の世相とインド特有の社会問題などが講話に反映されている。それだけを表面的に見るなら、その話題は古くて日本人にはあまり関係がないように思えるが、本質的な部分では非常に関わっている内容が多い。そこをどう読み取るかはまさに読み手に委ねられているとも言える。
 そういう意味でもこの講話は深い。




 
1月18日

 「反逆の軌跡」の校正が昨日届く。この校正は去年の9月に一度しているが、その時は校正者の指摘した文だけをチェックしていたので、今回は改めて全文を見直すことになる。するとやはりおかしな、意味の通じない文章が見つかる。後から読み返すとそれがよく見つかるが、それでもこれは他の校正者がチェックしたものを私のところに送ってきたものだから、となるとその校正者はそれを見つけられなかったのか、またはさほど気にならなかったのかのどちらかになり、結局は自分で全て見直すことになった。

 見直す・・・、つまり、改めてOshoの伝記を読み直すことで、Oshoの凄さを再認識し、Oshoを他人に伝えることの困難さ、不可能さを感じ、あくまで自分自身のフィーリングに従うことの大切さを再認識した。
 周囲と合わずに、なじめずに半生を生きてきて、自分のフィーリングを信頼することの難しさをずっと感じて、自己否定して生きてきたから、自分を受け入れ、愛することは、今一人で生きている中で、少しずつ実践していくことになるだろう。
 Oshoがよく言う、個であること、独りあることは、私にとっては自然なこと、自分に返ることであり、苦もなくそうあることができる。子供の頃からほぼ1年単位で転居し、人間関係も1年で変わり、結局、長い関係性を築けた友人は一人もいない。だから、個であること、独りあることは、私にとっては自然なこと、なのだ。それは寂しさというネガティブなものはなく、まったく自由で気楽で心地良い。




 
1月23日

 「反逆の軌跡」の校正を全て出版社に返送する。あとは3月の出版を待つだけ。Oshoの伝記だから、けっこう反応は期待しているがどうなるだろう・・・

 クリシュナの翻訳は微妙になってきた。非常に興味深い章と、インド人にとって関心の高い問題を扱った章のばらつきが多い。一番興味深い章は、やはり最初に翻訳した15章 「死後の生と再誕生」だろう。そこから抜粋したものが、死の過程チベットに現われる仏陀のヴィジョンだ。それと最終章のサニヤスについて。
 まだ全部を訳したわけではないから確かなことは言えないが、これこそ編集で出した方がよさそうに思える。

 ということで、興味のあるところを優先的に翻訳するため、From Misery to Enlightenment の翻訳を始める。これはOshoがオレゴンのコミューンで長く沈黙していた後、再び語り始めた頃の講話の一つで、Oshoの生い立ちに関するエピソードが述べられている。これも30章あってけっこう長い。これだけに専念できるかどうかもわからない。また気まぐれに他の講話を翻訳しだすかもしれない。あくまで自分の興味を優先して翻訳することになる。









Osho日記 2018年 1月

OSHO TOP  徒然想記  翻訳・出版暦  日記TOP  

inserted by FC2 system