9月 2日

 クリシュナの講話全22章を自動翻訳して、おおまかな内容を把握した。クリシュナについてはもちろん、インドの宗教全体に関する問題、そしてスピリチュアル〜霊的な問題についてなど、多岐にわたっている。バガヴァッド・ギーターはもちろん、その元でもあるマハーバーラタについても語られていて、インドを研究する者にとっては興味深い講話ではないか、と思う。やっぱりこれはじっくり翻訳していくべき講話だな。
 それと、パタンジャリのヨーガの講話も・・・。

 中村 元の「インド古代史」というかなり分厚い本を読もうとしているが、その内容はほとんど政治的・民族的な面に関するものばかりで、その視点もやはり表面的に感じざるを得ない。中村氏自身、インドは歴史的な記録に乏しく、資料となるのはリグ・ヴェーダやマハーバーラタしかないが、その年代ははっきりしていない、と言っている。そのあたりのアプローチは、Oshoの翻訳を続けてくると、Osho以上に洞察の深さを感じさせるものは他に知らない。




 
9月 3日

 ちらっと思ったが、
 「サイレント・エクスプロージョン」でラマ・カルマパが語ったチベットの奥地の洞窟にある99体の神の化身の黄金の像は、Oshoの「ビヨンド・サイコロジー」によればポタラ宮殿の地下にあることは前にも書いた。 Osho日記 2015年11月28日
 そしてその99体の中にはOshoの前世の像も含まれていて、それは700年前のOshoの前世よりもう一つ前の生のものだということも。

 そこで、チベットの歴史を見てみると、ポタラ宮殿が造られたのは1645年で、それ以前はその洞窟はどう守られていたのかわからない。ポタラ宮殿がその洞窟を守るために造られたことは大いに考えられる。
 Oshoの700年前の前世より一つ前の前世がいつ頃なのかはわからない。おそらく現代と違って再生にはそんなに困難はなかっただろうから、すぐに生まれ変わったのだろう。それを仮に800年前としても、12世紀にな.る。出典のわからないOshoの講話によれぱOshoの2生前の黄金の像は97番目の身体と言っている。  
 Osho日記 2016年 8月-9月 9月29日

そしてチベットの歴史では、チベットに仏教が伝わったのは7世紀、その後一時廃れてアティーシャによって復興したのが11世紀。
 つまり、100年から400年の間に97人もの神の化身と扱われた聖人たちがチベットに生まれたことになる。

 ポタラ宮殿が造営されたのは17世紀で、おそらく最後の化身の像が収められてから500年後のこと。それ以降、神の化身は現われなくなったことになる。Oshoはその原因を「ビヨンド・サイコロジー」の中で、
 「なぜ彼らは99人で止めてしまったのだろう?奇妙な数字だ!100人の方がずっと適切に思われるのに。彼らがそこで停止せざるをえなかったのは、ダライ・ラマの法統がかつての高みから転落し、国が、その聖なる秘密の寺院の100番目の座を占めるにふさわしい人物を生み出すだけの力を失くしてしまったからだ。」
 ・・・と言っている。

 ポタラ宮殿を造ったのはダライ・ラマ5世と言われている。初代ダライ・ラマは15世紀の人で、それでもポタラ宮殿が造営される200年前で、仮にその像が作られなくなった原因がダライ・ラマの堕落にあったとしても、97番目と言われるOshoの像は12世紀で、初代ダライ・ラマより300年古い。そもそもOshoの言うダライ・ラマの堕落がいつなのかがわからないが、このあたりの年代はまったく計算が合わない。

 それとも、97番目とは新しいものから遡って数えたものだろうか? つまり、Oshoの2生前の黄金の像は99体の中で3番目に古い最も初期のものなのだろうか・・・・? それだとまだ計算は合うが・・・。




 
9月 7日

 「Osho 反逆の軌跡」の残りの校正ファイルが一度に届く。一応、今年中の出版を予定しているらしい。2年前に翻訳したもので、見直すとやはり結構翻訳ミスが多い。リバイスで直されてないのが残念。結局は全て自分で見直さなければならない。
 とりあえずは、ラジニーシプーラムでのシーラの権力行動に関する章を見直す。改めて、80年代当時の東京のセンターがシーラの言動に完全に従っていたことが思い出される。それに反対できなかった当時の自分の悔しさも・・・。その時の東京のセンターのスタッフが、これから出版されるこの本のこの章を読んだらどう思うだろう?

 いや・・・、たぶん、彼らはもうOshoには関心がないのかもしれない。または、あえて関心を持たないように、断ち切っているかもしれない。




 
9月 8日

 市民出版社から翻訳ワークの現状を聞いたが、そのワークをする人が少ないのは、結局はやはり個々のやる気・情熱の問題らしい。まあ、翻訳は本当に地味で根気のいるワークだから、強い熱意とやる気がないと続かないだろうな。その中では私の存在は特異というか、珍しいらしい。既にもう20冊近く翻訳しているし。
 ただ、私が翻訳を続けているのは、本当の事を知りたいという欲望だけだ。なぜなら、それまでは他のサニヤシンの言動を通して知ってきたが、それのどれもが自分には合わず、逆に障害にさえなったと、デタラメに感じられるからだ。
 だから、他のサニヤシンを通さず、直接Oshoと関わりたい、ということだ。それが人からは間違っていると批判されようと、かまわないし、関係ない。それが自分のやりたいことであり、Oshoは、何であれ自分がやりたいことをトータルにやりなさい、と言っているし、私はそれをトータルにやっている。


 「反逆の軌跡」の中でのOshoの言葉〜

 「もし私が自分は光明を得たということを公表したなら、私は非常に容易に殺されていただろう。それについて問題はなかった。それはとても簡単だっただろう。しかし二十年間私はそれに関して完全に黙ったままでいた。私はそれを理解する人々を、私の人々を、私を愛する人々を十分に集められたのがわかった時にだけ、それを公表した。私は自分が独自の小さな世界を作ることができて、もはや群集や一般大衆や愚かな烏合の衆と関わっていないのを知った時にだけ、それを公表した。」

 ・・・・群集や一般大衆や愚かな烏合の衆がOshoを理解するのは難しいということ・・・・、理解できる人だけが理解すればいい。そういう人は世間から嘲笑されたり変な目で見られるかもしれない。
 まあ・・・、私はずっとそんな目で見られて生きてきたから、それに慣れて気にならなくなったから、一人でOshoの翻訳に没頭できるのかもしれない。そんな人間を相手にしている時間はないし、まったくのエネルギーの浪費だ。




 
9月 9日

 「反逆の軌跡」は、主要な章としては全13章で、「反逆のブッダ」にはその中の6章までが書かれていた。主要な章と言ったのは、「反逆の軌跡」では14章以降に補足的な章が6章追加されているからだが、補足的と言っても、14章の「友人たちの集い」はOshoのワークの基本的なビジョンを述べた重要な章であり、ここでOshoはワークをしていくに当たっての危険性・落とし穴・注意点について指摘している。強調点はやはり組織化しないことだ。

 これは「反逆のブッダ」にはなかった章であり、「反逆のブッダ」ではオレゴンでのラジニーシプーラムのコミューンが始動する時点で終わっていて、ラジニーシプーラムが新たなパラダイスの夜明けであるような明るいイメージを示して章を締めくくっている。その後に起こるシーラを筆頭とした一部の権力的なサニヤシンの横暴については、この「反逆のブッダ」からは知ることはできない。

 全体のページ数の割合から見れば、その6章までは全体の70%ほどに及び、特にページ数が多いのは「反逆のフッダ」と同様にOshoの若き探求の時期と光明を得た時期についての章だ。

 「反逆のブッダ」にはない、ラジニーシプーラム崩壊後のワールドツアーとプネーに戻ってからOshoが肉体を離れるまでのエピソードは、全体のページ数の割合ではそれほど多くない。よく言えば簡潔にまとめられている。それでもワールドツアーに関する章は、けっこう政治的・裁判的事件が細かく述べられている。個人的にはこれくらいで十分だと思うし、それ以上詳細に知りたいとも思わない。「Osho、アメリカへの道」を読むよりもこちらを読む方がわかりやすい。

 というか、ワールドツアーのエピソードは断片的にはウルグアイで語られた「神秘家の道」や「炎の伝承」の中に出てくるが、まとまったものとしてはこの「反逆の軌跡」しかない。
 「反逆のブッダ」と重複する1章から6章までも、部分的には新たなエピソードが追加されている。だから、「反逆のブッダ」を知っているから、この「反逆の軌跡」は読むに値しないと思っている人は、いろんなポイントを取り逃がすことになるだろう。




 9月14日

 「反逆の軌跡」のチェックで、14章の「友人たちの集い」を読み直して、改めてOshoが、カルトになること、組織化することの危険を説き、誰かのコントロール下に入らないことを注意しているのを知って、80年代の東京のセンターがひたすらオレゴンのラジニーシプーラムの建設のために、日本のサニヤシンたちを権力的にコントロールしていたことを思い出した。 その片棒を担いでいたのが「インナー・ラビリンス」を書いたナルタンだけれど。

 サニヤシンという雰囲気にうかれて、実情は他の宗教団体と変わらない組織的統制を強いていただけ。無理もない。一般的な宗教とは、そういうものとしてしか知られていないからな。

 この講話、というかガイダンスは、1967年12月23日のもので、Oshoはまだ36歳の若さだ。
 これはヒンディー語の講話「Anant Ki Oukar」の第1章に収められていて、これの英訳は「Work is Love Made Visible」というタイトルで2011年に出ている。
 Oshoのワークの基本的なビジョンがここで語られているわけで、市民出版社もこの本に関心を持っている。

 また、「反逆の軌跡」の中からニーラムとの対談よりOshoの講話の出版へのこだわりについて・・・

 「彼は自分の言葉にどんな調節をすることも許しませんでした。講話テープの音声から書き写された内容に対して、どんな変更もされませんでした。彼が私に説明したところによれば、彼の言葉は何らかの情報を伝えるための手段ではなく、むしろ、それは私たちの内的な成長や変容という目的のためのものだ、ということでした。」

 これから見れば、今のサニヤシンによるOshoの本の出版はメチャクチャと言える。だから私は原書の翻訳にこだわり、直訳的な翻訳にこだわるのだけれど〜〜

 そして・・・

 「本の表紙の彼の写真に対しては、多くの注意が払われました。私は彼の選んだ写真がはっきりしていて明快な表現であることを確かめることに熱心に取り組みました。とりわけ、彼の目はハートで深く探求者と繋がるための強力な手段でした。彼の目を通して生じる虚空と輝く力は、たちまち影響を生み出しました。一度彼は「出版された本にある私の写真は、それ自身のワークをするだろう」と言ったことがありました。」

 だから、Oshoの本の表紙にOshoの写真は必要なのだ。これで、OIFの出版に対する規制はOshoの意向と全く逆らっていることがわかる。




 
9月15日

 「反逆の軌跡」の校正チェックが終わり、出版社に返送する。
 後は出版を待つばかり・・・・




 
9月22日

 15日からYoga: The Alpha and the Omega Vol.5の翻訳を始めている。
 Oshoの講話で経文について語った章は、だいたいが経文に入るまで話が長い。全体の半分近くになってようやく経文を取り上げることが多い。このパタンジャリのヨーガについての講話もそうだし、仏陀の経文について語った「超越の道」もそうだ。それはOshoの講話が単なる経文の解説ではないからで、経文を深く理解するための基本的なことが最初に語られている。その要点は、経文を通してそれをいかに自分の成長・変容に役立たせるか、にあるのだろう。

 この5巻の第1章の経文では3つのグナについて語られている。3つのグナは他のOshoの講話でもよく取り上げられるおなじみのエネルギーの質のことだが、これを私は単純に、安定、活動、不活発、と訳したが、中央公論社「世界の名著・バラモン教」の中のヨーガ根本経典では、照明、活動、静止、と、スワミ・サッチダーナンダの「インテグラル・ヨーガ」では、照明、活動、惰性、と訳されている。
 照明という質・・・? よくわからないが、この2冊はそのように訳している。どういう意味だろう・・・。

 このYoga: The Alpha and the Omegaでは、英語の原語は stability で、意味は、安定、確固、着実、というものだ。サンスクリットの言葉ではサットヴァ。
 残りの2つのグナは活動と不活発という相反する質のものであり、それはエネルギーの傾向を表わしたものであるため、当然この3つ目の質であるサットヴァもそうなるだろう。では、照明というエネルギーの質とは何なのか? まったくわからない。そしてこの2冊ではその照明の意味を何も説明していない。

 この辺りが翻訳する人の理解度が見えてくるところだ。


 とりあえずは、この翻訳を今年いっぱいで完成させたい。




 
9月23日

 今年の現在までのOsho・翻訳ワークの経過〜

 1月29日: Yoga: The Alpha and the Omega Vol.4 翻訳完了。
 6月20日: Nowhere to Go but In 翻訳完了。
 6月24日: Osho Times 翻訳。
 7月25日: 本「Zen: Zest, Zip, Zap and Zing」(ハードカバー) 購入。
 7月31日: Beyond Psychology リバイス完了。
 8月 3日: OSHO: The Luminous Rebel 校正1部完了。
 8月14日: Krishna: The Man and His Philosophy 第2章 翻訳完了。
 8月20日: The Osho Upanishad 第35章 部分翻訳。 ロード・マイトレーヤ
 8月21日: Yoga: The Alpha and the Omega Vol.5 第6章 部分翻訳。Q-13 チョギャム・トゥルンパ
 8月22日: Yoga: The Alpha and the Omega Vol.10 第6章 部分翻訳。Q-1 ルドルフ・シュタイナー
 8月25日: Early Talks 第1章 部分翻訳。
 8月26日: Krishna: The Man and His Philosophy 4章 クリシュナの誕生の記録、6章 クリシュナとキリストの誕生の類似 - 部分翻訳。
        The Osho Upanishad 第41章 部分翻訳。 光明とは何か
 8月29日: Om Mani Padme Hum 第1章 部分翻訳。
 8月30日: From Misery to Enlightenment 第9章 Oshoが生まれながらに勇気と気づきを持っていた理由 - 部分翻訳。
 9月 1日: Krishna: The Man and His Philosophy 4章、14章 クリシュナに霊的な訓練はない - 部分翻訳。
 9月 4日: The Osho Upanishad 8章 死を受け入れる、9章 ウパニシャッドとは何か - 部分翻訳。
 9月 6日: Krishna: The Man and His Philosophy 第22章 サニヤスの意味 - 部分翻訳。
        本「Rajneesh Upanishad」購入。
 9月15日: OSHO: The Luminous Rebel 校正完了。
 9月22日: Yoga: The Alpha and the Omega Vol.5 第1章 翻訳完了。
        Krishna: The Man and His Philosophy 第17章 クリシュナの時代と仏陀の時代のウパニシャッド - 部分翻訳。




 
9月26日

 Oshoの最初のサニヤシンたちの写真。1970年9月のマナリでの瞑想キャンプの頃。
 ちょうどKrishna: The Man and His Philosophyの講話が行われていた。

 
 左下のAの女性が最初の秘書のラクシュミ。
 その右のBの女性はダラム・ジョティで、瞑想キャンプの常時指導者であり、「1万人のブッダたちへの百話」(OEJ)を書いた人。
 上の段の右から2人目のNの男性がヨガ・チンマヤで、バグワンという名前を提案した人。
 その右端のOの男性がゴヴィンド・シッダールタで、シッキムのガントクでラマ・カルマパと謁見した人。
 そしてそのラマ・カルマパは〜

  カルマパ16世。1923年 - 1981年。  ラマ・カルマパ僧との謁見記

 シッダールタがカルマパに謁見したのは1972年だから、その当時のカルマパは49歳になる。








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