5月 2日

 昔、アニマという霊能力を持つサニヤシンから言われたことで、私の内側は波のない静かな湖のようであるらしい。
 また、その娘も霊能者だったが、その彼女も私を霊視すると、幾層にも重なる私の霊的なそれぞれの身体は静かで、霊的な母星は水星で、それは太陽系では太陽の次にレベルが高くて、霊的な私は白かプラチナ色の服を着て司令室で働いている、という。

 まあ、そう言われても、現実的にそれをどう解釈したらいいのかわからないし、自分がそんなにすごい人間にも思えないし、一つの夢物語として受け止めているが、波のない静かな湖にはすごく惹かれるものがあるし、だから他人の想念の影響を受けやすいのかもしれない。



 
5月 4日

 スピリチュアリズムと神智学とOsho〜

 こういう知識を知ることは、世界の本質を知ることであり人間の可能性を知ることでもある。

 スピリチュアリズムは、そもそも心霊現象を解明することから始まったもので、基本的に霊界通信である。それは様々な形があり、主に霊からのアドバイスや霊界・死後の世界の説明、それと物質界・この世との関係を説く。

 神智学は、世界の創造・歴史、人間の構造、生命、カルマなどの霊的解明で、霊視者〜ブラヴァッキーの見た世界と、アデプト〜高次の見えない助力者・奥義体得者〜からの霊的通信を伝える。このあたりはスピリチュアリズムと似ている。主要なアデプトとして、クートフーミ大師、モリヤ大師、ラコーシ大師、ジュアルクール大師などがいる。

 守護霊などに関してはスピリチュアリズムが詳しいが、人間の7つの身体、チャクラなどに関しては神智学が詳しい。神智学はあくまでアデプトの存在を絶対視し、その指導に従うが、神智学から離れたシュタイナーの人智学は、アデプトの存在には関わらず、人間の霊的な観点・生き方・展望・主体性を説く。そこにはどうしてもキリスト教を主としたシュタイナー独自の哲学が出てくる。
 同じく神智学から離れたアリス・ベイリーは完全にジュアルクール大師の媒体・道具であり、その教えをただ伝えているだけだ。

 スピリチュアリズムと神智学の違いは、扱っている世界が微妙に違っているだけで、重複しているところもあり、それはそれぞれの霊視者の視点・見方による。決して両者は対立するものではないし、優劣をつける意味もない。実際に、スピリチュアリズム界のモーゼスやアラン・カーディックなどは神智学と交流がある。

 で、Oshoは、そもそも人間を目覚めさせるために働いているため、あまりこういう秘教的知識の伝達には力を注いでいないところがある。知識は邪魔になると言っている。それでもいろいろな講話の中でその知識を伝えている。あちらこちらで小出しにしている感じだ。そして別のところでは自分の言ったことを否定し、矛盾させるので、素直な読み手は混乱する。それは知識に囚われなくさせるためのOshoの策略でもある。
 その小出しにしているOshoの秘教的知識をまとめたいという願望はずっと前から持っているが、けっこう大変な作業になるだろう。どこか翻訳が一段落したところで始めたいが・・・。

 とにかく、この3つを比べた場合、個人的に最も心に響くのはOshoだ。
 スピリチュアリズムや神智学は、ある種の現実逃避のための材料にもなり得る。それは読み手次第だが、死後の世界であれ、未来であれ、現実以外のところに希望を持たせる可能性がある。それがアセンションという考えを生み出す土壌になる。アセンションの基本知識は全て神智学からのものだ。

 Oshoは、そういう希望を壊し、全てを今とここに持ってきて、現実(リアリティ)に直面させる。
 Oshoの説く秘教的知識は、もちろん神智学と重なるところも多い。これをみて、Oshoは神智学から影響を受けた、などと言う知ったかぶりの者もいる。Oshoの表現は独自のもので、自らの体験に基づいているもので、神智学と食い違うところも多い。ただ、その洞察はOshoの方がはるかに深い。

 ところが、巷の神秘学に関する本では、神智学〜ブラヴァッキーとシュタイナーは基本的事案として必ず取り上げられているが、Oshoについてはほとんど無視されている。クリシュナムルティでさえ取り上げられているのに・・・。 おそらくOshoを把握すること、Oshoについて説明することが困難だからだろう。特に社会的地位のある知識人にはOshoを認めることに及び腰な感じがある。一般人〜サニヤシン以外〜で、Oshoを広めようとした人に玉川信明、安部敏郎、山川 紘矢がいるくらいだ。

 スピリチュアリズムを一般に普及させた江原啓之も、最近は人生相談的な仕事をして、大衆に媚びているように見えて好きになれない。

 霊的世界を知るだけならスピリチュアリズムか神智学で十分だろうが、人間の霊的可能性を知り、そこへどう到達するかを知るためには、個人的にはOshoしかないと感じている。なぜならOshoは多くの道を説いていて、一つの道だけに囚われないからだ。他の聖人たちはみんなそれぞれ一つの道を説く。それが彼らの独自性でもあり、だから一般的にはわかりやすく、捕らえやすい。クリシュナムルティは全ての方法論を否定するが、それも一つの道である。

 Oshoは多くの道を説き、時にそれらは互いに矛盾する。だからOshoを理解するのは困難になる。
 だが個人はそれぞれ個性があるため、唯一の道に自分を合わせるのは無理がある。だがそれがこれまで伝統的修行方式が行なってきたことだ。個人の特質よりも方法の方が絶対視・重視されてきた。個人はその方法に合わせなければならなかった。つまり方法に従うことを強いられる。

 Oshoはあくまで個人を重視する。その人に合った方法を勧める。ある人に合う方法が他の人に合うとは限らない。だからその教えが矛盾するのは当然である。Oshoにとって重要なのは個人の霊的成長であり、そのために役立つことは全てする。そして概ね、知識の取り過ぎは成長を妨げると言う。
 Oshoの本を全て読む必要はない。自分に合ったものだけを選んで実践していけばいい。ただ、どれが自分に合っているかを知るためには、ある程度は全般的に読まなければならない。そして体験して自分で感じるしかない。自分の直感を、感覚を信じるしかない。だから時間はかかる。
 自分を無理にある一定の道に仕向けることはやめた方がいい。だが、どこでけりをつけるか、難しいところである。



 
5月 5日

 Nowhere to Go but In の翻訳はけっこうペースが落ちている。ヒンディー語からの英訳だからか、文法的におかしな英文が目立ち、その解釈に苦労している。
全16章で残り3章。今月中に終わらせようと思っていたが、少し厳しくなっている。

 OSHO: The Luminous Rebel 〜Oshoの伝記〜は、リバイス原稿が先月中に届けられると聞いていたが、まだ届いていない。
 なんだか、翻訳に関わるスタッフがますます減っていっているような、心もとない感じがする。




 5月 6日

 Oshoの生のエピソードを基にした映画がインドで製作された。その全編が日本語字幕付きでYoutubeで見られる。
 RebelliousFlower 2016年の作で1時間47分。Oshoの子供時代から光明を得て人々に語り始める頃までが描かれている。

 こちらは、インド・プネーのOsho・メデイテーション・リゾートの紹介映像。
 個人的には、この導入部で、インドは真実の探求に捧げた世界で唯一の国だ、というような事をナレーションで語っているのがいい。
 インドは非常に特別な国であり、だからもっとインドを、そのスピリチュアルな歴史・業績を知りたいと思うようになる。




 
5月 9日

 OSHO: The Luminous Rebel 〜Oshoの伝記〜は、前作「反逆のブッダ」との文章統一のためにリバイス作業が遅れて、出版は1ヶ月延びて7月になる様子。
 実際問題、翻訳出版に関わる人が不足しているという状況らしい。

 つまり、現実的に、今Oshoの翻訳をしているのは私だけ、ということか?

 ただ、おもしろいのは、市民出版社の翻訳担当者とウマが合う、ということを書いたが、その理由が同世代の水瓶座生まれ同士だったということが理由みたいだ。知的な好みがよく合う。偶然とはいえ、私にとってはラッキーなことである。



 
5月16日

 楽天ブックスの週間ランキングでは東洋思想部門で「真理の泉」が31位、「炎の伝承 1」が27位に入っている。

 上位にランクインしてるのは、ほとんど老荘思想に関するものばかり。だいたいタイトルで買う本を選ぶものだし、読んでみないと内容はわからないから、このランクがそのままその本の内容の高さを示しているとは言えないけど、中華思想以外での本では、なぜかパラマハンサ・ヨガナンダの本が2冊上位に入っている。「インテグラル・ヨーガ」サッチーダナンダ著--も上位に位置している。やはりヨーガは魅力があるのだろうか。
 となると、パタンジャリ・ヨーガの講話シリーズ「Yoga: The Alpha and the Omega」が出版されたら、どんな反応があるだろう。ただ実際には、出版されるのはかなり先になるだろうが・・・。

 この「Yoga: The Alpha and the Omega」シリーズで、シュタイナーについてOshoが語っているのは第10巻の6章にあるが、チョギャム・トゥルンパについて語っているのは第5巻の6章にある。トゥルンパについては他の講話でも結構語られている。

 Nowhere to Go but In の翻訳も残り2章となったが、かなり翻訳しにくいため、そのペースは落ちている。それでも改めて、Oshoにはスピリチュアルの全てがある、と思える。というか、まだその全体は掴み取れない。いや、永久に無理かもしれない。自分がOshoのレベルまで行かない限り・・・。

 ラマ・カルマパが言うように、


 「OSHOは、何世紀にも何生にもわたる努力のすえ、すべての秘教科学を収めて、今度は、霊的精神的な道を歩むすべての人々に役立つように、今世紀に生を選んだ。和尚は、あらゆる不可視の世界や <アーカーシャの記録> に精通しているので、自分自身の直接的、実在的な <知> から、クリシュナ、キリスト、老子、仏陀について語る。




 
5月20日

 毎日翻訳を始める時、英文のワードを開いて感じることだが、この文章を当たり前に理解して当たり前に使っている人間がいることが自分にとっては不思議だ。それも、地球上のほとんどの人間が、英語を基本原語にしているのだから。
 それでも私にとっては異質な世界である。世界全体にとっては日本語の方が異質なのだろうが・・・。

 英語は、私から見れば、幾何学的な記号の集まりに見える。その構成はたった26文字の組み合わせに依っている。
 翻訳は暗号を解読するようなものだ。
 英語の文は単調な、無機質な世界に見える。日本語は、漢字、ひらがな、カタカナがあって、その配置・組み合わせが文章に変化・バリエーションをもたらす。それがおもしろい。言葉の表現は日本語の方が潜在力が大きくて幅広く思える。

 ただ、その英語それぞれの単語のニュアンスがまだつかめていない。この文脈でなぜこの言葉が使われているのか、がわからない。日本語にしたらほぼ同意語になるもので、なぜ別のところで使い分けられているのか・・・、など。
 結局は、その意味を正確に伝えられる日本語がない、ということなのだろうから、それに最も近い〜(と思える)〜言葉を宛がうしかない。
 ある意味、翻訳は言葉の妥協の連続と言える。結局は、大意さえ間違えていなければいいのだろうが・・・。


 翻訳は、現在で通算19冊目。
 翻訳したいリストに The Perfect Way を加えたい。これは1964年に行われたOshoの最初の公的な講話であり、最も古いものだ。当時のOshoはまだ33歳だ。



 
5月24日

 Nowhere to Go but In の翻訳は最終章に入る。前にやった「And Now And Here」〜「死ぬこと 生きること」のように単語の綴り間違いはなかったが、とにかく英文法が変なものが多い。それで翻訳するのに苦労する。明らかにインド人がヒンディー語から英訳したのだろうと想像できる。
 ヒンディー語からの英訳講話は、内容は濃いものが多いが、英文に問題がある。たまたま自分がやったものだけがそうなのかもしれないが・・・。

 OSHO: The Luminous Rebel のリバイス原稿はまだ届いていない。7月出版も危ういかもしれない。


 自分が求めているのは、結局は「子宮回帰」なのだろうと感じている。母親の胎内にいた時の、何の憂いもなく全て満たされていた状態を求めているのだろう。
 ただ、以前にキネシオロジーというセッションの中で、自分が母親の胎内にいた時を感じたが、それはあまりいいものではなかった。母親が妊娠を、私を身篭ったことを後悔しているような、私を歓迎していないような感覚に襲われた。
 私が終始、自分の人生にしっくりきていないのは、そんなところに原因があるのかもしれない。

 だから、しっくりさせたいため、執拗にOshoの翻訳を続けているのかもしれない。少なくとも、昔に比べたら相当しっくり来出している。その意味では、自分の人生は少しずつ良くなっている。



 
5月28日

 出版状況の変化は〜

 そもそもは、翻訳が集まらなかった。翻訳者不足と、翻訳に時間がかかりすぎていたため。
   私が参入したことで、翻訳文は大幅に増える。現在は約12冊分の翻訳が出版待ちの状態。

 それから、OIFとの版権交渉が遅れる。OIFからの一方的なシステム変更による連絡不通の状態が約1年間続く。

 そして現在、出版社のスタッフ不足で出版が遅れている。



 
5月31日

 Nowhere to Go but In の最終章の翻訳の終わりごろにかかって、また翻訳の困難な言葉が出てきた。
 God と deity の違いだ。
直訳ではどちらも「神」だが、その違いがよくわからない。原書の一文の中にこの2つの言葉が出てくるので、どちらも神と訳したら、その区別はまったくつかなくなる。そこで、ネットで調べる。
 そこでは、Godはキリスト教などの神、創造主、絶対的な神で、その存在は一つ。
 かたやdeityは多神教の中の神の一つ、というニュアンス。だから、ヒンドゥー教や神道の神はdeityになる。ただ、人によってはdeityも絶対主と解釈しているから、いまだにその違いは日本では曖昧なままだと言える。
 そもそもは、戦国時代にキリスト教が入ってきて、Godを「神」と訳したのが間違い、と言う説もある。
 http://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-024.html
 http://blog.livedoor.jp/mkj0323/archives/50057550.html

 もともと日本にGodの概念がなかったのだから、それに見合う言葉を捜すのは困難である。その『神』という言葉で訳した人の理解力に委ねるしかない。それは翻訳している自分自身にも関わってくる問題だ。
 Godと神は違うということは私も以前から知っていたが、かといって既にその言葉が定着しているので、今から新しい言葉をあてがっても理解されることは難しい。

 特にこのような宗教的な本の翻訳は難しい。伝統的な宗教書ならまだしも、Oshoはその伝統宗教の偽りを暴いて真の宗教性を説いているわけだし、また自分にその体験がないため、そこは私の理解力、読解力が曝け出されるかっこうになる。






 

OSHO TOP 
日記TOP

OSHO日記 2017年 5月
2011年 
2012年 

2013年 -
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 
2014年 - 1月 2月 
3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 
2015年 - 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 
8月 9月 10月 11月 12月 
2016年 - 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 
8月 9月 
10月 11月 12月 
2017年 -
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
inserted by FC2 system