12月 1日

 次はどの翻訳にかかるかと考え、翻訳リストに上げていた講話の内容をざっと調べてみる。その中の Great Path は、ヒンディー語からの英訳だが、2010年にBliss: Living Beyond Happiness and Misery というタイトルで出ている。幸福と惨めさを超えて生きること・・・か。個人的には少し軽く感じられるので、一応リストから外すことにした。
 となると、やはり当面は、パタンジャリのYoga:The Alpha and The Omega、クリシュナのKrishna: The Man and His Philosophy、そしてミステリー・スクールのThe Osho Upanishad を主にやっていくことになりそう。The New Alchemy To Turn You On や Zen: Zest, Zip, Zap and Zing も、やや優先順位を下げる。
 ややマニアックな講話を翻訳してみたい。逆に出版しても売れそうにないようなものを〜〜〜。その中では、1971年の3つのウパニシャッドについての講話 That Art Thou も興味がある。
 そして、大方が片付いたら、The Last Testamentやダルシャン日誌、そしてダンマパダに取りかかってみよう。これらはどうせ版権の効力がある内は出版できないものだし・・・。
 Krishna: The Man and His Philosophy はどうだろう・・・、最も売れそうにないような講話に思える。




 
12月 3日

 著作権の期限は著者が亡くなってから50年間となっている。Oshoが亡くなったのは1990年なので、2040年まで著作権は有効となる。あと23年・・・、その頃は生きていたなら84歳か。その頃までにはOIFのメンバーも死んでいるだろうと思うけれど。

 先日、ワドゥダが亡くなったのを聞いた。晩年は名前をリーラに変えたらしいが、・・・・そういえば相棒的存在のワドゥドも名前をプラサドに変えていた・・・、ワドゥダはネットでも日本人には西洋人のような激しいセラピーは向かないということを言っていた人で、私も熊本で一度彼女の個人セッションを受けたことがある。逆行催眠による過去生の探求・・・のようなもので、私はほとんど催眠にかかった自覚はなかった。ただ、過去生のビジョンでは、ペルシャでの機織女がイメージされた。夫に逃げられた女だったらしい・・・が、個人的にはただの想像に思えた。そんな感じで、セッション自体はそれほど大したものではなかった。
 自分の問題をワドゥダに話した時、一つのアドバイスとしてアシュラムに長期滞在することを勧められたが、当時会社に働いていた状態では長い休みを取ることは無理だったし、経済的にも余裕はなかった。それ以前に、そういう助言しかないのか、ということに少し期待外れした記憶がある。
 1990年のことだから、もう27年前の話だが・・・。

 これから先、古いサニヤシンは次々と寿命が尽きてゆくのだろうな。
 私の寿命は尽きても、このHPは残るだろうし、その頃までには自分が翻訳した文を全てここに載せようと思っている。たぶんどうせ死ぬまでに全てが出版されることはないだろうから・・・。

 これからの人たちがOshoの言葉に何を感じるか、それをどう受け止めるかで、Oshoの言葉は残っていくか消えてしまうかが決まってくる。それについてのOshoの言葉はこちらにまとめてある。 
Oshoが肉体を離れた後についてのガイダンス 




 
12月 9日

 年代順講話 & ワークにワールド・ツアー時期の移動都市・月日とダルシャン日誌を追記する。ダルシャン日誌は1975年12月から1981年3月まで続く。

 当たり前のことだが、どの本をいつ出版するかは全く出版社に委ねられている。私にはどうしようもない。出版に費やされる費用や手続き、作業については私は全く知らない。本が売れなくなっている、出版不況と言われて久しい。売るタイミングというものがあるらしい。なかなか簡単には出版できない、ということなのかもしれない。

 Oshoの翻訳が自分にとっておもしろいのは、それが講話〜つまり、聞く人への語りかけだからだろう。そこに自分への問いかけが生まれる。翻訳を通して内省が起こる。訳語選びに神経を使うため、より深く読み取る必要がある。

 改めて、講話に関するOshoの言葉〜

 「私の言葉は燃えているだけではない。私は火薬をあちこちに置いてもいる。それは何世紀もの間爆発し続けるだろう。

 「私の考えから何らかの教義を作ることは不可能だが、それらを通してあなたは自分を変えることができる。」




 
12月15日

 
KRISHNA: The Man and His Philosophy の最終章を先に翻訳する。この章はサニヤスについて語っている。改めて、Oshoのサニヤスは無条件であることがわかり、そのため過去において、数ヶ月の瞑想を経なければサニヤシンになれないというバカげた条件をつけていたのは、あるサニヤシンの独断だったことがわかる。
 サニヤスとは?のページにKrishna: The Man and His Philosophyからの引用があり、これは他の人の翻訳だが、あまりにも原文と違いすぎる。大方の意味は伝わっているが、ほとんど意訳のようなものだ。個人的にはこんな翻訳にはすごい違和感がある。なによりOshoの言葉を反映していないからだ。

 しばらくはこのクリシュナの翻訳に没頭するつもりだ。長くかかるだろうな・・・




 
12月19日

 クリシュナの翻訳はおもしろい。これは1970年のヒンディー語の講話の英訳で、全22章だが、各章が長い。もし出版されれば「炎の伝承」くらいか、それ以上の分量になるだろう。
 各章が長い上にすごいのは、これが1日に2章、午前と午後に話されていることだ。パタンジャリの講話の各章の所要時間が約1時間半で、クリシュナの各章はパタンジャリの2倍近くあるから、時間にして約3時間くらいぶっとおして話していることになる。しかも1日2回・・・。
 さらに、6章と7章と22章が同じ日に語られている。3時間の講話が1日3回だ!! それも全て即興である。

 翻訳のペースとしては、これだけに関わっていれば、来年の夏までには終わりそう・・・

 出版の方は、現在のスタッフの規模から見れば年2冊がいいところだろう。翻訳の方は年3冊は出来る。ということは・・・、毎年1冊ずつ出版待ちの翻訳ファイルが増えていくことになる。




 
12月26日

 クリシュナの講話はかなり浮世離れしている。形而上学的とも言える。ただそれだけに、宗教やスピリチュアルに関して陥りやすい基本的な過ちを突いていると思える。宗教的思索・探求のための基本的な道筋・ガイドラインを示している、とも言える。そういう意味で個人的におもしろいのだ。
 基本的にはギーターにおけるクリシュナのエピソードが主になっているが、その論点となるものは、他の宗教や実際的生き方にも適応されるものが多い。そういう意味で、現代日本の宗教のバカげた儀式やこだわりを見抜く手助けにもなる。

 翻訳をしている部屋の出入り口の近くに「ダンマパダ」全12巻を置いているので、否応なしにいつもそれを目にする。

                   

 そのため、いつかはこれも完訳しなければ・・・、という気持ちになる。


 今年もあとわずか・・・、と言っても、毎日同じことを繰り返している自分にとっては、時間の変遷は全く感じられない。
 退職して7年、翻訳を始めて6年、ただそれだけの人生になっている。そしてそれで満足している。先のことは知らないし気にならない。おそらく10年後も20年後も今と変わらないだろう。人間関係や外の世界にはほぼ絶望しているから、今の生活は自分にとっては本当に恵まれていると思う。誰にも邪魔されずに好きなことだけに没頭できるのだから。




 
12月28日

 千里の道も一歩から〜

 翻訳を始める頃は、特にその講話が長い場合、ゴールが見えないのでその分量に圧倒される。全体の半分か3分の1くらいまで翻訳が進んだ頃、ようやく先の見通しが見えてくる。
 このクリシュナの翻訳もそうだ。最初に始めたのは2012年の4月で、それから間を空け、2016年の3月から6月、同年の11月から2017年の1月、同年の8月、9月と、不定期かつ断片的に翻訳をしてきた。気分転換に他の翻訳の合間に、という感覚で・・・。
 それで、この12月からようやく本腰を入れて翻訳し始め、現在、全体の3分の1くらいまで進行し、なんとなくゴールが見え始めてきた。

 こつこつとしたゴールの見えない作業・・・、これは瞑想そのものでもあるだろうし、よく自分の中で連想するものとして、最近は放送されなくなったテレビ番組の「仕事バンク・マチャアキJAPAN」の井戸掘りだ。井戸掘りはこれまで世界で7回行われてきたが、いずれも地下30mの深さで水脈に達し、そこに到達するまでに約1ヶ月かかっている。つまり、1日1mしか掘り進まない。それもまったく単調な作業の繰り返しだ。しかも、30m掘れば水が出るという保証はない。テレビでは、その30日間の苦労をたった1時間か2時間にまとめている。

 個人的には、この井戸堀りの作業にすごく刺激をもらっている。この井戸掘りに比べたら翻訳は全く楽なものであり、なによりOshoの講話であるため、その内容がおもしろく、それでずっと長く続けられる。




 
12月29日

 和尚関連本・サニヤシン本というものをまとめてみた。和訳されたものに限っている。これで全部ではないだろうし、本の一部にOshoについて書かれたものはまだいろいろある。
 プラブッダの「地球感覚、」という本もOshoについてだけの本ではないが、サニヤシンの本として一応入れてみた。こうしてみると、意外と日本人サニヤシンによる本は本当に少ない。そういう意味では、ナルタンの「インナーラビリンス」はよく出版された貴重なものとも言える。
 ただ、第三者によるOsho論というたぐいの本は、それを書きこなすには日本人でOshoに関わった人には無理なのかもしれない。だからあまり本になっていないのだろうか、それともそういうことには関心がないのか・・・、よくわからない。まあ、書こうとしても、結局はその人の主観によるものになるだろうし、個人的な体験の回想に留まってしまうだろうが・・・。

 そのため、やはり直接的なOshoの言葉を伝えていく、ということが大切になるだろう。













Osho日記 2017年 12月

OSHO TOP  徒然想記  翻訳・出版暦  日記TOP  

inserted by FC2 system