1月 1日

 昨日見つけた2チャンネルのOshoの評価についても、2016年になってもいまだにあの程度の認識しかできていないというところに、その理解の貧しさを、どうしようもなさを感じてしまう。
 皮肉なのが、そのようなOshoに関する悪評を広めたのが他でもないサニヤシンだということだが・・・。
 悪評の要点はやはり、ドラッグ、フリー・セックス、アメリカのコミューンでのごたごただろう。Oshoの講話をよく読めば、これらを取り上げた批判はまったく表層的で誤解に満ちたものであるのが簡単にわかるのだが、批判する人は、何が真実かには関心がなく、自分の批判・主張が正しいことに関心がある。

 いずれにせよ、いまだにこれだけのコメントが寄せられるということは、それだけOshoという存在は無視できないということか、またはそれぞれの個人の中で消化されないままになっている、ということだ。
 それだけ、一般人にはOshoは理解し難く、誤解されやすい、批判されやすい、ということ。そしてこれはいつの時代でもブッダ〜覚者〜の宿命でもある、とOshoは言っている。

 それでも、角川書店やいまここ塾などがOshoを評価し出したのは、ここ数年で一つの変化であったが、肝心のサニヤシンの機関からは大した発信はない。ナルタンの本が出たくらいだが、Oshoについての日本人サニヤシンの本はほとんどない。それに関する本は全て西洋人弟子の翻訳に頼らざるを得ない。だがその視点はあくまで西洋的である。
 古参の日本人サニヤシンは、今何を思い、何をしているのだろう? 彼らはほとんどが今では還暦を過ぎているだろうが、ろくに老後の準備などしていない様子だったので、〜瞬間に生きる、という美しい名目で生きていたようだったので〜、生活するだけで精一杯の状態なのかもしれない。

 あるいは、論理的に総括する、という能力がそもそも欠如しているのかもしれない。


 とにかく、誤解や偏見が生じるのは正確な情報不足と理解不足に起因する。ここで言っているのは、真理への誤解ではなく、Oshoに関する運動に対する誤解であり、極めて表面的な問題・事象についてである。
 そのための資料を提供し、保存すること、それが目下最も必要なことであり、それが和尚アーカイブの目的でもあるのだが、それを肝心のサニヤシンは誰もしていない。

 私の翻訳は、そのための一つのワークにすぎない。それぞれの人が、その人の特質・個性・傾向に従って、それぞれの役割を果たしていけばいい。

 ある意味、このように誰もやっていないことをすること、一般的には受け入れ難いものを扱っていることは、それをするべき必要性を感じているためにおもしろくもある。



 
1月 2日

 OshoのYoutube ビデオ「精神世界の鉄人!あらゆる宗教と戦った覚者」がOIFの規制によって消されていた。
 また、出版権の問題に関する文章の引用元にした「コミューンへの公開質問、アシュラム、幻想、資料集」もネット上から消えている。これは自主規制によるものか、それともやはりOIFからの圧力によるものかはわからない。
 いずれにせよ、明らかなことは、Oshoの世界に関する自由な発言は許されていないということだ。つまり、Oshoが最も強調していた自由が一部のサニヤシンによって否定されているということ。

 何のために?

 過去には、Oshoが講話の中で語った偉人たちのリストを掲げたサイトがあったが、それも消えている。
 私のサイトも危ないかもしれない。ただ、規制や警告が起こるとすれば、どのようにそれが行われるのかを知りたいので、自ら出版権に関するページを削除するか、しばらく様子を見るか、少し迷っている。
 その特定のページだけを削除されるのならまだしも、サイト全体を削除されるのは困るが、そもそも第三者・外部からサイトを削除することなどできるのだろうか? それとも重大な罰則が発生するのだろうか?



 
1月 5日

 「真理の泉」の楽天ブックスでのランクは、2016年12月26日-2017年1月1日の週間ランキングの東洋思想部門で第22位。その一週間前は42位だった。初出としては2016年12月24日で4位を出している。
hontoインド哲学ランキングでは1月3日くらいまで1位を保っていたが、また下位に下がっている。ここで上位を占めているのはヨグマタ相川圭子の本。一週間単位でのランキングでは3位。


 2チャンネルのコメントで、Oshoが神智学の教義をぱくったというような事を書いた人がいたが、これこそ何も知らない者の知ったかぶりであり、こういう事が言えるということは、この人が神智学もOshoもまったく知らないという十分な証明になる。
 ただ、年代的に神智学の方が先に起こったため、そういう考え〜こじつけを持つことができるにすぎない。単なる表層的な捉え方だ。

 少なくとも「奇跡の探求 2」を読めば、7つの身体に関するOshoの洞察は神智学とはまったく違うものであることがわかる。Oshoの洞察の方が神智学よりもはるかに深い。

 そもそも神智学とはブラヴァッキーとオルコット大佐が起こしたものだが、そのルーツになっているのはインドの古代思想〜ヴェーダ・ヒンドゥー教にある。神智学の本にサンスクリット語が多用されているのはそのためである。
 そしてOshoは、ある意味でインドの古代思想を現代に蘇らせようともしている。

 ようするに、神秘学を極めようとするなら、究極はヴェーダ・ウパニシャッドに行き着くしかないのだ。そこが全ての始まりであり、西洋の神秘家は全てインドの経典から学んでいるのだから。
 神智学はそのインド思想を西洋に広めようとする運動であり、そのためその知識をキリスト教やヘルメスの思想などと関連づける。ブラヴァッキーの神智学がヒンドゥー教色が強いのに対して、クリシュナムルティのマイトレーヤ化運動に反発して神智学を脱退したシュタイナーは、完全に西洋人のための神秘学として人智学を立ち上げる。

 そもそも、イエス・キリストが聖書で空白部分の13歳から30歳の間にインドに渡ってヒンドゥー教や仏教を学んでいる。それはチベットの古文書に記録されているらしいが、日本ではその辺りの研究はまったく聞かない。

 日本での神秘学の研究は本当に遅れていて貧しい。
 ブラヴァッキーの「シークレット・ドクトリン」も、原書全4巻の中の第1巻の前半部分である「宇宙発生論」が1989年に出てからは、その後続巻は出ていない。「ヴェールをとったイシス」第1巻の下がようやく2015年に出たが、価格が高すぎるし、この上下2冊の翻訳でようやく原書の半分である。
 シュタイナーの本は高橋 巌と西川隆範の両氏によって多くの翻訳が出されているのに、ブラヴァッキーやリード・ビーターの翻訳が少ないのはなぜだろう?神智学から追放されたアリス・ベイリーについても土方三羊が中心となって翻訳が進められているのに。

 Oshoは講話の中でブラヴァッキーやリードビーター、アニー・ベサントについては所々で語っているのに、シュタイナーについて語った講話はまだ知らない。



 1月 6日

 Amazonがおかしなことになっている。
 「真理の泉」の商品欄が、それまで在庫切れ・入荷時期未定だったのが、近日発売・予約可に変わっている。発売予定日は1月12日になっている。だが、中古品が5132円で出品されている。おもしろいことをするものだ。いつまでこの状態が続くのか見守ってみたい。
 それでも、1月12日という期日はどこから出てきたのだろう?


 OshoのキーワードのひとつにHomeがある。だいたい、「我が家」と訳することが多いが、自分の帰るべき所、本来の場所という意味合いを持つ。ある意味、子宮回帰でもある。
 私にとってホーム・我が家とは・・・? 家族は居心地のいいものではなかった。アットホームという言葉は私にとって意味がわからない。家族のような〜という言い回しは、私にとってはネガティヴなイメージしかない。
 具体的・地理的な故郷は消えてしまった。都市開発・区画整理という土木事業のおかげで・・・。つまり、帰るべき場所は、物理的にはない。
 今、住んでいる場所が私にとってのホームだ。

 精神的なホームは?  まだ見つかっていない・・・。



 
1月 7日

 Amazonの「真理の泉」はまた在庫切れに訂正されているが、発売日は2017年1月になっている。テキトーである。

 Oshoがシュタイナーについて語った講話を探してみたら、4つがヒットした。
 そのうちの一つは現在翻訳している Yoga: the Alpha and the Omega シリーズの第10巻の6章。
 後は、Philosophia Ultima の15章、Theologia Mystica の6章、ダルシャン日誌のDon't Just Do Something, Sit There の3章にある。
 これに関して、pdfの検索機能はとても役に立つ。



 1月 8日

 神智学は、そもそもは不可視のマスターであるモリヤ大師やクートフーミ大師から啓示を受けて、ブラヴァツキーがそれらを「ヴェールを脱いだイシス」や「シークレット・ドクトリン」としてまとめたもの。それがブラヴァツキー自身の霊視で視たものかどうかは定かではない。一応は、太古の「Dzyanの書」から引用している、と言っているが、そんな書物の存在は確かではない。この辺りが、ブラヴァツキーの活動を批判し、彼女を詐欺師扱いする要因になっている。「シークレット・ドクトリン」を剽窃の集まりと批判する声があるが、その剽窃の元となった原典ははっきりしていない。

 Oshoは、クートフーミ大師を、過去においてアショカ王が作った秘教グループ「アショカ・サークル」の一員であると言っている。アショカ・サークルについては「未知への扉」の中で詳しい。Oshoは他の講話の中でも不可視のマスターの助けがあることを認めている。
 Oshoはそれになぞらえて、自身のワークの後継として21人のインナー・サークルを作ったが、それば事実上崩壊している。西洋人にまかせたのが間違いだったのだろう。インナー・サークルの一人、アムリットはOshoの主治医だったが、今はOIFの幹部になって世界のOshoの出版物を管理・搾取している。

 アショカ・サークルは、完全に世間からは消えた見えない形で2000年以上にわたって現在まで存続しているが、インナー・サークルはわずか10年余りで消えてしまった。


 神智学は、ブラヴァッキーが不可視のマスターの媒体になっていようと、リードビーターやアニー・ベサントが自身の霊視能力によって伝えたものであろうと、その視点の基には西洋人的観点〜キリスト教〜が感じられる。 そこにどこか、二元論が現れている。善と悪、天国と地獄、天使と悪魔・・・と。神智学に入り込むと、知らずにキリスト教的思考形態に従わされていく。その意味では、シルバーバーチのようなスピリチュアリズムの方がまだ開放的だが、スピリチュアリズムでは人間の精神的構造、世界・宇宙の成り立ちや歴史についてはアプローチが弱い。その面に関してはシュタイナーが最も詳しい。

 神智学から追放されたアリス・ベイリーは、チベット人マスターのジュアルクール大師からの啓示を媒体として伝えた。彼女はジュアルクール大師の道具にすぎない。ジュアルクール大師はチベット人でありながら、ハイラーキーなどの救世主待望的な観点を持っていて、それはどこかユダヤ教的なものを感じさせる。

 Oshoは、二元論を超えているので、その意味では矛盾の固まりでもある。だからOshoの教えを体系化することは不可能になる。


 ようするに、いまだに神秘学は、いろいろな観点を持つものが渾然とした状態になっている。だからつかみにくい。
 そもそも、知的作業だけで全てを把握し、理解することが不可能なのだろうが・・・。

 私はあくまでOshoを基にして研究していきたいし、Oshoの講話の中に神秘学に関するものを探っていきたい。
 それを除けば、誰かが言ったように、Oshoの講話はどれも同じ、ということになる。



 Yoga: the Alpha and the Omega 第4巻の8章で、Oshoは目覚めるためのワークをするためにはマスターが必要であることを強調している。そしてマスターがいなければグループで活動しなければならない、そのグループもいない場合にだけ一人でやらなければならない、と言っている。
 ようするに目覚めるための刺激を与えられる第三者が必要だというわけで、一人でやると、自分は目覚めているという夢を見ることになりかねないので、相当長い時間がかかると言う。
 そして、今生で一人で目覚めた、到達した人も、過去生では何生にもわたってマスターやグループと関わりながら働きかけてきたという。その蓄積があったから、この生で一人で達成できたのだ、と。

 これに関して思い出されるのは、「チベットの死者の書」で翻訳者のおおえまさのりが後書きでOshoのサニヤシンについて言及し、世の聖人たちはみんな独覚者〜一人で目覚めた人ばかりであり、マスターは不用であることや、誰かの弟子や信奉者になることのナンセンスを説いていたが、それが的外れであることがわかる。 ある人が一人で悟れたからといって、そこから短絡的にマスター不用という結論にいくのは間違っているだろう。

 ただ、Osho自身は自分で、誰かの弟子になったことは一度もない、それは私の性質によるものだ、と言っている。Oshoが過去生でどんな修行を積んできたのか興味深いが、既に700年前の前世ではマスターであり、そのもう一つ前の生でも神性の化身としてその遺体がチベットの洞窟に保存されている。そして、ラマ・カルマパによると、Oshoは全ての秘教的知識を修めるために何回も生まれ変わっているという。
 Oshoがどれだけの生をスピリチュアルなワークに費やしてきたのか、想像もできない。そして何が彼をそこまでそうさせてきたのか・・・。


 そして私に関して言えば、既にマスターであるOshoは肉体的にはいないし、グループに対しては不信感もあり、そもそもグループ活動が性に合わないし、現実的にそんなグループも身近にないし、それで一人でやっている。
 だから、目覚める状況にはいないということ、それにはまだ何生もかかる、ということだろう。



 
1月 9日

 今日、感じたOshoの言葉〜〜、From Personality To Individuality  8章より〜

 私の言葉は燃えているだけではない。私は火薬をあちこちに置いてもいる。それは何世紀もの間爆発し続けるだろう。私は必要になるより多くのものを置いている。私はどんなチャンスも決して受け取らない。ほとんどそれぞれの文は、私の周りで宗教を組織化したい誰かに対して問題を引き起こすことになる。
 そうだ、あなたはゆったりしたコミュニティ、コミューンを持つことができる。ゆったりという言葉を覚えておきなさい。自分自身の道を生きるために、自分自身の方法で私を解釈するために、自分が見つけたいものは何でも見つけるために、誰でも自立していて、誰でも自由でいる。彼は生きるために自分が望む方法を見つけることができ、誰でも彼なりにそうすることができる。
 誰かに対して何が私の宗教かを決める必要はない。私はそれを決まった答えのないままにしている。あなたは自分自身のために定義を導き出すことはできるが、それはあなた自身のためだけだ。そしてそちらでもあなたは絶えず変わらなければならない。あなたが私をますます理解するにつれて、あなたはそれを変えなければならないだろう。あなたは自分の手でそれを死んだ物のように保持し続けることはできない。あなたはそれを変えなければならない。するとそれは同時にあなたを変え続けるだろう。


 このFrom Personality To Individualityという講話は1984年のラジニーシプーラム時代のもので、この文章を読んだだけでもこの講話を全部翻訳したくなるが、
 特に惹きつける言葉は4行目からのもの。
 Oshoに対する自分の見方は、理解が進むにつれて変わるものであり、その自然な変化を許すこと。自分に対して、一貫していない、矛盾している、といった判断をしないことだ。自分がどう変わっていこうと、それは必要なことであり、自然であり、必然でもある。

 「自分自身の道を生きるために、自分自身の方法で私を解釈するために、自分が見つけたいものは何でも見つけるために、誰でも自立していて、誰でも自由でいる。彼は生きるために自分が望む方法を見つけることができ、誰でも彼なりにそうすることができる。」

 「あなたは自分自身のために定義を導き出すことはできるが、それはあなた自身のためだけだ。・・・ あなたが私をますます理解するにつれて、あなたはそれを変えなければならないだろう。・・・ あなたはそれを変えなければならない。するとそれは同時にあなたを変え続けるだろう。」

 ・・・そう、だからまったく個人的な関係なのだ。
 既に、セラピーとかセッションとかいうイベントは終わっている。意味がない。完全に金の無駄だ。一時的な気分の高揚のために大金をつぎ込むのは馬鹿げている。
 自分の直感、内なる声に従えばいい。他人の評価に惑わされないこと。他人も同じ暗闇を手探っている状態で、何もわかっていないのだから。
 高慢な知ったかぶりに気をつけること。関わること自体が時間とエネルギーの浪費だ。

 自分の人生は自分に従うしかない。当たり前のことだ。



 1月10日

 デューター、Oshoのほとんどの瞑想音楽を作曲した音楽家。1945年生まれのドイツ人。

 

 Oshoの音楽では、このデューターの音楽が一番好きだ。他のミュージシャンでは、カルネッシュ、アヌラグ、サンボーディ・プレムなどもお気に入り。
 ただ、音楽では「Just a Glimpse」や「Sambodhi Music」が好きだが、これらの作曲者は知らない。

 Sambodhi Music No.1  Sambodhi Music No 2
 Just A Glimpse No.1  Just A Glimpse No.2  Just A Glimpse No.21



 
1月18日

 上に紹介した5つのOshoミュージックの内、2番目のSambodhi Music No 2 だけが著作権侵害ということで削除されていた。つまらないことをするものだ。 
ちなみにこれらは全て私が作ってYoutubeにアップしたものだ。



 日本のOshoのインフォメーション・センターの一つにOsho Japanがあるが、私は直接には知らないが、そのHPで気になる文句が、「OshoJapanは、インド神秘家、OSHOのヴィジョンを紹介する、OSHOの公式センターです。」の中の「公式」という言葉だ。
 公式・・・? どういう意味だろう? 公式とは、非公式ではない、という意味合いも持つ。なぜ、わざわざそんな言葉を使うのだろう? 公式であることにどんな重要性があるのだろう?

 このセンターで紹介されているOshoの本は、邦訳では19冊あるが、その中で手に入れられるのは7冊だけ。残りは全てSOLD OUT 品切れである。その中に市民出版社からの本は1冊も紹介されていない。何か・・・貧しいというか、寂しいというか・・・。これで公式か・・・。


 Oshoの洋書で何がよく読まれているかというと、それの再販回数で見てみると、
 最も多いのが I Am The Gata (未知への扉) で1971年の初版から9版を重ねている。
 続いて、「存在の詩」の原書 Tantra: The Supreme Understanding で、8版を重ねている。
 その後に、「神秘の次元」の原書 Dimensions Beyond The Known、そして「アティーシャの知恵の書」の原書 The Book of Wisdom、タントラ・ヴィジョンの原書などがある。
 その中で注目するのは、Nowhere To Go But In が4版とけっこう読まれていることだ。市民出版社が20年前に翻訳にとりかかってあきらめたもので、それだけに自分としても気になっている講話なので、その面でも興味が増す。

 ちなみに現在翻訳中のYoga: the Alpha and the Omega は全10巻でありながら、多い巻で6版、少ない巻でも2版と、そこそこ読まれている。



 1月19日

 Oshoミュージックで一番のお気に入りの「Just a Glimpse」の作曲者はSw.Govinddas、「Sambodhi Music」は10日の日記に書いたデューター(チャイタニヤ・ハリ)だということがわかった。チャイタニヤ・ハリはサニヤス名でデューターは本名。

 これの情報元はSannyas Wikiだが、このサイトにドネーション〜寄付金のお願いのコメントが出ている。経済的に無理になれば最悪このサイトも消えてしまう可能性がある。

 Oshoのミュージック・ビデオで、所有している最も優れていて最も貴重なのが「1981年3月 エンライトメント・ディ・セレブレーション」。おそらくもうどこからも手に入れることは不可能だろう。

 瞑想キャンプのページ作成。



 
1月21日

 瞑想キャンプの資料はThe Rebellious Enlightened Master Osho と Neeten's Osho Source Book の2冊の本を参照しているらしいが、.The Rebellious Enlightened Master Osho はネット上では少なくともAmazonではどこも品切れで入手不可能。2010年発刊らしいが、ずいぶん早く絶版になっている。 かたや、Neeten's Osho Source Book は、OSHO Source Books のことなのだろうか?これも本では見当たらない。ネットでのデータのみだ。ただ、それでも資料が手に入るだけでも貴重であろう。これもいずれは翻訳リストに加えたい。

 そうしてみると、自分のやりたい仕事の量の多さに目が眩む。
 道半ばで、中途半端に死にたくない。仕事を完成させるためには長生きをしなければならない。ただ、完成の地点はない。


 55歳から始まった翻訳のワークは、宿命大殺界の時期と重なる。これは四柱推命の空亡と同じ意味を持つ。ようするに、55歳から私の人生は転機を迎えている。それは20年続き、75歳で終わるらしい。基本的にこの20年間の時期はマイナスの意味を持つ。つまり、何もうまくいかない逆境の時期らしい。私の場合、それが反対に作用しているらしい。この辺り、占いであることのいいかげんさ、解釈の適当さを感じる。
 いずれにせよ、マイナスの時期であるため、あまり表立って動かないほうがいいというのなら、今の私の、一日中引き篭もって翻訳に没頭している人生はこの時期にふさわしい生き方だろう。
 そういう時期の意味も知らずに、自分の感覚に従ってそのように生きているが、それが不思議とその占いの意味と合致したのだろう。

 要は、自分の直感に、フィーリングに従えばいい、ということだ。
 Oshoがよく言う、流れに身を任せて生きる、ということだ。川の流れは海に向かっている。それがいつ海に辿り着くかはわからない。だがいずれは必ず辿り着く。
 流れに身を任せることは、自分に従うことであって、周囲の流れに合わせることではない。社会の動きや、もちろん他のサニヤシンの言動に従うことではない。その、外部の流れが騒音として自分の邪魔をしていると感じるなら、その外的世界から自分を切り離すことも必要だ。その騒音に影響されず超然としていられるなら、その必要もないだろうが、なかなかそれほど強くなれない。

 そのための、自分の本来のフィーリングを取り戻して感じるための場が、アシュラムであり、プネーのコミューン、マスターOshoのいるところだったのだか、個人的には今のプネーのコミューンにはそのような雰囲気を期待できない。
 本来は、Oshoが言うところでは、しばらくアシュラムに留まって自分を取り戻して、それから世間に戻る、という生き方が理想だったのだろうが、なんとなく今のアシュラムは金持ち西洋人のためのリゾート地になっている様子。

 正直、今の私にとって今のアシュラムへの憧れや期待は何もない。ようするに、貧乏人の自分にとっては場違いなところ、という感じがする。



 1月22日

 今日は61歳の誕生日。

 Yoga: the Alpha and the Omega 第4巻の粗翻訳は昨日で一応完了する。今日からはその見直し・訂正を始める。
 経典はパタンジャリのヨーガ・スートラだが、各巻全10章でスートラを扱っているのは奇数の章で、偶数の章は質疑応答になっている。つまりスートラの章と質疑応答の章が交互になっているが、これはいろいろな経典を扱うほとんどの講話のスタイルになっている。
 ただ、「アティーシャの知恵の書」は経典の章の後に質疑応答の章が3章続いている。教典の章の3倍あることになる。割とこれは特殊な講話になる。
 去年の11月7日から翻訳を始めたから、約2ヶ月半経っている。その巻、クリシュナの翻訳も少しやっているが、まあ一つの講話の翻訳にかかる時間は3ヶ月ということになる。

 他に目立ってこんなことをしている人を他に知らないから、何かわからないことがあってもどこからも助けを求めることはできないが、逆に自由にマイペースでやれる面もある。
 先のことを考えても仕方がないけれど、我々のような直接Oshoを知っている世代がいなくなった後、この日本でOshoはどう伝わっていくのか、あるいは忘れ去られるのか、少し気になるところでもある。
 次の世代でも、Oshoに何らかの訴えかけてくるものが感じられるなら、それは残っていくのだろう。
 自分の人生で、偶然にもOshoを知った者として、もともとは自分のために始めた翻訳でも、後世に少しでも残すことができるとすれば、それは一つの生きがいにもなるし、自分の使命・天命のような気もしている。



 1月29日

 Yoga: the Alpha and the Omega 第4巻の翻訳が終わる。

 この後は、しばらく翻訳を休んで読書に専念しよう。



 1月30日

 この日記はある意味、私のマインドのゴミ捨て場でもある。
 それは、私がどんなマインドのゴミを集めているか、ということの検証と記録のためのページでもある。
 ここに書き記すことは、それから距離を置くことの、それと同一化しないための役に立つ。


 読書に専念・・・?

 とりあえず、「アジア仏教史インド編 2 原始仏教と部派仏教」を1日で読む。昭和49年発刊の古本で、文章が固かったが、原始仏教の解説の内容はほとんどOshoの講話を連想させる。Oshoの講話の中に出てきた仏陀のエピソードも載せられていた。
 全般として、仏教の成立の過程は理解できたが、ほとんど興味は持てなかった。表面的な出来事だからだろうな・・・。仏像が作られるようになった経緯の解釈も通俗的・仮説的だし、やはり、Oshoの翻訳を続けてきたせいか、他の人の仏教や宗教に対するアプローチや洞察はあまりにも表層的で薄っぺらく感じてしまう。

 他の本でも・・・
 ウスペンスキーの「ターシャル・オルガヌム」は何度も読もうと試みているが、やはり無理だ。理解できないのではなく、興味がわかないのだ。Oshoがすごく高く評価している本だが、読んでも何も心に響かない。私が年を取りすぎたのだろうか? 10代後半頃の、カントやショーペンハウエルなどを読んでいた頃ならこの本は読めたかもしれないが、今では、ただのよくできた分析理論ではあるが、だから何なのだ?という感想を持つ。
 ウスペンスキーの本では、他に「奇蹟を求めて」や「人間に可能な進化の心理学」を読んだが、内容はすっかり忘れている。「超宇宙論」と「新しい宇宙像」は持っているが、これもあまり読む気になれない。

 分析的な本は私には合わないのだろう。原始仏典でも執拗に分析的な話が出てくるが、そのあたりは読み飛ばしている。無味乾燥である。
 ターシャル・オルガヌム〜第3の思考規範、であるが、別に思考規範などいらない。単なるマインド・ゲームに見える。
 私は直観と自分の内なる声に従いたい。いまのところ、この本から自分にとって益になれるものはまだ何も得ていない。


 改めて仏教では、仏陀の入滅後、弟子たち同士の対立が起こり、多くの宗派に分かれたらしい、その代表的なのが小乗仏教と大乗仏教の成立。
 Oshoの世界でも、サニヤシン同士の対立・分裂が起こった。これは宿命的なものなのだろう。

 Oshoの言葉を正確に後世に残したい。編集本をオリジナルの講話と思われては困る。



 
1月31日

 読書に専念・・・できない! たった2日で挫折してしまった。夢中になれる本がないのだ。あえてあるとすれば、幕末維新に関する本くらい。
 ずっとOshoの翻訳を続けてきたせいか、Osho以上に心を揺さぶる本がない。

 アリス・ベイリーの本も持っているが、まだ読んでいない。読む気が起こらない。過去に「神智学大要」全5巻と「トランスヒマラヤ密教入門」全3巻を読了しているから、その系統の他の本にはもう何も新たな情報が感じられない。ようするに知っていることばかり。
 何度か読もうと試みたが、自分に無理強いしているのが感じられる。他にババジやらミルダットの書やらもあまり魅力がない。ヘルメス文書はまったくピンとこなかった。感動したのはシルバー・バーチの霊訓くらい。シュタイナーはわりとおもしろく読み進められる。
 もう、私にとって本は終わったのだろうか・・・・


 ・・・というわけで、やはりOshoの翻訳に戻ってきた。もうこれしかない、という感じ・・・
 次は「Nowhere To Go But In」に取りかかる。これ、けっこう長そう・・・
 気になるのがヒンディー語講話「Gita Darshan」の英訳の進行具合。3巻以降の発行の気配がまったくない。








OSHO日記 2017年 1月

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