11月 4日
市民出版社からタントラ秘法の書シリーズの中の「空の哲学」が10月21日に改装版として出版されている。このシリーズは人気があるのだろうか。ここしばらくは市民出版社からは他にも「奇跡の探求2」や「内なる宇宙の発見」などの改装版が出ている。
それで、Oshoの邦訳本の出版状況を見てみると、1977年から1992年までに出た本はほぼ全部が品切れになっている。数にして40冊余り。
その中で出版が継続されているのは、阿部敏郎氏が版権を買い取った「究極の旅」「TAO
永遠の大河 4冊シリーズ」、OEJから出されたナルタン訳の「あなたが死ぬまでは」と「草はひとりでに生える」くらい。「存在の詩」はいまだに出版されるのかどうかはっきりしていない。
Oshoの邦訳本のリストはこちらを参照。和訳本リスト
1993年以降で絶版になっているのは「ダンマパダ」と「黄金の華の秘密」くらい。一応、わかっているものに限って、だが・・・。その絶版本の全てはめるくまーる社か瞑想社から出されたものだから、まず再版の期待は無理だろう。
The Eternal Quest の翻訳が終わる。これは1967年頃のかなり古い講話で、ヒンディー語からの英訳。章の数は15章と多いが、各章のページ数は少ないものが多く、全体としては300ページくらいになるだろう。内容はどれも本質的な問題ばかりで、第3章ではダイナミック瞑想の解説をしている。日本語のタイトルは、直訳すれば「永遠の探求」になる。
これで、出版社に届けてある出版待ちの翻訳は11冊分、その内の「ビヨンド・サイコロジー」は2冊分になるので、それでいくと12冊分になる。
何度も書いているように、Oshoの本は精神をスピリチュアル的に高揚させてくれる。それは真実の探求への扉であり、その道へ誘ってくれる。
そして、その道はあくまで個の道であり、あるがままの自分を受け入れる道でもある。それをこのThe
Eternal Questでも再認識させられた。
あるがままの自分を受け入れること、個であること、それは他人から教えられるものではない。当然、金を払ってセラピストから教えられるというのは馬鹿げているとしか思えない。
私は私のやり方で、私の生き方で、マイペースに進むだけだ。
自分にとって楽な生き方、楽しめる生き方が自分に合った生き方だから、それに他人が干渉することは間違っている。
はっきりと、極論的に言えば、これまで他人から受けたさまざまな意見や批判は全てデタラメだった。
何も得るものはなかった。
むしろ、そういう過去に受けた他人からの声を記憶から消すことが今の自分の課題でもある。
11月 6日
市民出版社にThe Eternal Quest の翻訳を届けたが、担当者はこの講話の存在を知らなかったらしい。
12月発売予定の「真理の扉」の書類上での契約がようやく完了したらしい。本当にずいぶんと時間のかかるものだ。当初の予定より丸1年遅れである。
Oshoの伝記 OSHO: The Luminous Rebel はまだ契約金の交渉で折り合いがついていないらしい。版元がふっかけているらしい。
そんな調子だから、Oshoの本の出版は遅々として進まず、年2冊がせいぜいのところだろう。
「The Silent Explosion」については、購買の雰囲気があまり秘教的なものに向いていない様子、という出版社側の判断から、出版予定はまだ立っていない。この講話の内容を担当者が忘れてしまっている様子で、あまり出版に乗り気ではないみたいだ。
以前にメールでこの本の出版を強く要望してきた人にとっては残念な話だが、もし納得いかなければ直接市民出版社に問い合わせ、訴えかけていただきたい。出版を決めるのは出版社であって、私はどうしようもないのだから・・・。
それでも・・・、
気になるのが、この「The Silent Explosion」の中でラマ・カルマパが語っているOshoの2生前の黄金の像がチベットの秘密の洞窟に保存されているということ。Oshoの前世は700年前だから、2生前だとそれより古い時代になる。700年前は13世紀、インドで仏教が滅んだのが12世紀。アティーシャやティロパが生きていたのが11世紀。当時は現代よりも霊的な精神が受け入れられていただろうから、再生に時間はかからなかっただろうと仮定すれば、2生前の過去生はおそらく11世紀頃では、ということも言える。この頃はチベットでの仏教黄金時代でもある。
黄金の像が全部で99体あり、Oshoの像は最後から3番目だと言われているなら、やはりアティーシャと同時代だろうと思われる。アティーシャの像も当然その99体の中に含まれるだろうし、アティーシャの伝記でもその身体を丁寧に保存したと記されている。
その99体は、あくまでチベットで亡くなった聖人のものであるから、インド人であるティロパは含まれないだろう。アティーシャ以後の目立った宗教者としては13世紀にプトン、14世紀にツォンカパがいるくらいしか個人的には知らない。
では、残りの97体は誰のものなのだろう・・・・・・?
11月 8日
市民出版社が、今の購買の雰囲気はあまり秘教的なものに傾いていない、という判断を持っているようなら、あえてOshoの秘教的な講話の翻訳に関わってみたいと思い、それでまたクリシュナの講話の翻訳にかかる。
今、出版社に届けてある翻訳ファイルが12冊分で、そのうちの1冊は来月に出版されるようだが、それでも年2冊の出版ペースでなら、その全てを出版するのに5年はかかることになる。
つまり、翻訳する側としては別に翻訳を急ぐ必要はない。5年のゆとりがあるのでじっくり自分の訳したい本に関わることができる。
Oshoの文献学的なワークになるのかもしれない。
確かどこかで、Oshoの秘書のアナンドが、Oshoが講話の中で語ってきた神秘家たちの資料を集めようとしていた、ということを聞いたが、そういう作業は個人的にすごく興味がある。
一般的にはほとんど知られていないし、知られているとしてもただ表面的なものにすぎないからな・・・。
サクシン瞑想センター主催で、インドのクチワダ〜Oshoの誕生地〜で来月から約10日間の瞑想キャンプがあるらしい。料金は25万円となかなかの金額で私も誘われたが、経済的に苦しいのと、1ヵ月の猶予ではヴィザの手続きも間に合わないだろうし、それで断った。
クチワダにあるOshoの生家はサクシンのスタッフが再建したもので、それまでは雨漏りがしたり他人が住み着いたりしていて相当痛んでいたらしい。このクチワダの村は本当に何もない貧しい村らしくて、常時日本人のスタッフが数人と、後は年老いた古くからのインド人のサニヤシンたちが集まっているようで、西洋人はほとんど来ないらしい。
それに比べて、プネーのアシュラム〜OSHO International Meditation Resort〜は、サニヤシンとは関係のないインド人が管理していて、滞在費も高く、ほとんど西洋人で占められている様子。
こちらへの瞑想ツアーはOshoアート・ユニティが主催しているが、来年1月25日から15日間のツアーで38万円する。これもなかなかの金額だ。ただ、こちらのアシュラムでは、なんとなくOshoの面影が消されているようだし、リゾートという名前が個人的に好きではない。金持ち階級の息抜きの場という雰囲気を感じる。少なくとも私にとっては場違いな所に見える。
なんとなく、日本のサニヤシンの派閥が、サクシン〜クチワダ系と、プネー・アシュラム系に分かれているような感覚を持つ。
まあ、クチワダはサクシンの手によって再建されたのだから、他のセンターの者たちはあまり関わり辛いのかもしれない。そういうところから宗派の分裂が起こってくるのだろう。私自身はまったく関わりたくないし興味もない。個人的にはクチワダに興味があるが、それでも現地でサニヤシンにあまり接したくはない。できるだけ一人にして放っていてほしい。ただ、Oshoの生家はスタッフ同行でないと入れないらしいが、それでもいずれは訪れたい地だ。
11月 9日
Oshoの本が650冊出ているという件・・・、その内容がなんとなくわかった。650冊という数は、再販、改定本も含めた数だ。
例えば、タントラ秘法の書10冊シリーズの原書「Vigyan Bhairav Tantra」は上下2巻だが、以前には「The
Book of The Secrets」というタイトルで5巻出ていた。つまり、同じ内容でこれは7冊に数えられている。
同様に、「The Dhammapada」シリーズ全12巻は、以前は「The Book of the Books」というタイトルで4巻まで出ていた。これは12巻まで完成されなかった。だからこの講話も計16冊と数えられる。
他にも、「The Tantra Vision」は「The Tantra Experience」として改訂され、「Yoga:The
Alpha and The Omega, Vol 1」は「Yoga: The Science of the Soul, Vol 1」「The
Path of Yoga」と改名して再販されている。「The Book of Wisdom」(アティーシャの知恵の書)は初版は上下2巻だっだか、後になって1冊にまとめられて何度か再販されている。
そのようなものを全て合わせた数が650冊になるのだろう。
ただ、これらは英語の本に限った事だ。それに加えてヒンディー語の本や世界各国で翻訳されている本がある。そして編集本もある。
オリジナルの講話本は、英語とヒンディー語からの英訳を合わせると、前にも書いたように約270冊ほどになる。
それでも、英語圏の国の人たちはこの270冊を読むことができるのだが、かたや日本では翻訳された数は100冊余りあるが、その半数は入手不可能な状態になっている。つまり、インドや西洋に比べて、日本のOshoに関する情報は非常に少なく限定されていると言える。
それはOshoに限らず、神智学やスピリチュアル系の本についても同様だ。個人的にはそのあたりに関する悔しさもある。
Oshoの日本での普及度、知名度は低いかもしれないが、それでも熱心な読者たちも存在している。そのためにも少しでも多くOshoの遺産〜講話の翻訳を残して後世に伝えるべきだろう。
まあそれでも・・・・、
初めてプネーのアシュラムに行った時、通訳した日本人サニヤシンからさんざん「なぜ英語を勉強しないのだ?」と批判された私が、今はOshoの翻訳を率先してやっているのだからおもしろい。
その日本人サニヤシンにとっては瞑想よりも英語の方が大事なのだろう。というか、自分の内側を探求することよりも西洋人と関わることが大事なのだろうな。そんな彼は今は何をしているのだろう?たぶんOshoなんてとっくの昔に忘れてしまっていることだろう。
そのような、何かピントのずれたサニヤシンはけっこう多い。でも彼らから見たら私の方がおかしいのかもしれない。
そんな私がOshoの翻訳をしていて、そんな彼らはOshoについて何をしているのだろう?
まあ、どうでもいいことだが・・・
11月11日
8日の日記で、
〜確かどこかで、Oshoの秘書のアナンドが、Oshoが講話の中で語ってきた神秘家たちの資料を集めようとしていた、ということを聞いたが、そういう作業は個人的にすごく興味がある。 〜と書いたが、
これは「Rinzai: The Master of The Irrational」の8章で語られている。この本の翻訳は「臨済録」として出ているが私は所有していない。既に絶版で高値がついている。ただ、翻訳本のページ数は280ページほどで、しかもネットで見た限り一ページの文字数が少ない。だからこれは編集本と見ていい。この翻訳された「臨済録」に上の話が訳されているのかどうかは知らない。
その全文〜
「アナンドは私が話してきたすべての神秘家たちの本を編集している。彼女はコールマン・バークス教授と話した。彼は非常に興味を持っていた。彼は自分自身でそれを出版したかった。
しかし彼は「どこから彼はこれらの300人を見つけたのだ?私はこれらの名前を、300人ものブッダたちを聞いたことさえない!」と言った。彼は立ち去った。さもなければ私は彼に、私はまだ生きていて、私は少なくともあと200人について話すつもりだ、というメッセージを送っただろう。まだより多くの人がいるが、彼らの名前さえ失われている。
あなたは大多数の人間に忘れられている人々と彼らの経典に耳を傾けている。私の努力はあなたの意識の中にそれらの黄金の頂点をすべて復活させることだ。だからあなたは 「そんなに多くの人々が光明を得たのなら、私が光明を得られない理由はない。」 という信頼を持つことができる。
私がこれらの人々について話すことには一つの目的がある。あなたの運命はブッダであることだ、というあなた自身についての信頼をあなたの中に作ることだ。」
2月19日の日記で〜
めるくまーる社から出ているOshoの「魂の科学」はパタンジャリについての講話「Yoga: The Alpha and the Omega」からの編集本で、原書は全10巻、100章あるが、その中から6章を選んで編集されたものだ。
「魂の科学」の1章は原書1巻の1章に当たる 〜この原書1巻は市民出版社から「魂のヨーガ」として出版されている。
2章は原書1巻の3章、3章は原書1巻の9章、4章は原書5巻の5章、5章は原書6巻の7章、ということがわかったが、
6章だけが質疑応答で「高速車線のヨーガ」という変なタイトルだが、これだけは原書のどの巻の章に相当するのかわからなかった。
全6章の内の半分が原書の1巻から、つまりは「魂のヨーガ」から選ばれている、というわけだ。
と書いたが、
その引用原書の不明だった6章「高速車線のヨーガ」の引用箇所がわかった。この章には5つの質問が取り上げられているが、その内の3つは原書「Yoga: The Alpha and the Omega」第1巻 (「魂のヨーガ」)のそれぞれの章から引用されている。
詳しく述べると・・・
6章「高速車線のヨーガ」の質問-1は、「Yoga: The Alpha〜」第1巻 (「魂のヨーガ」)の4章の質問-5
同章の質問-2は、「Yoga: The Alpha〜」第1巻 (「魂のヨーガ」)の8章の最後の質問
同章の質問-3は、「Yoga: The Alpha〜」第1巻 (「魂のヨーガ」)の10章の質問-2
同章の質問-4は、「Yoga: The Alpha〜」第3巻の6章の質問-7
同章の質問-5は、「Yoga: The Alpha〜」第4巻の6章の質問-2
ようするに〜
「魂の科学」の半分以上は「Yoga: The Alpha and the Omega」第1巻 (「魂のヨーガ」)からの引用となっている。
これを編集本と言うにはあまりにも偏っている。
この1冊に、この中の6章に、「Yoga: The Alpha and the Omega」全10巻がまとめられていると考えることは完全に間違っている。
でも、その実情を知らない人はそう思うものだ。そうやって誤解や先入観が作り出されていく・・・。
11月14日
Amazonの「魂の科学」と「魂のヨーガ」のレビュー欄に上記の内容の事を書いた。一応、本当のことは伝えておかなければならない。
バヴェッシュでさえ、自身のサイトで、「魂の科学」は「Yoga: The Alpha and
the Omega」全10巻をまとめたものだ、と紹介しているのだから困ったものだ。彼の書評のいいかげんさはそのサイトの中でよく見られる。
翻訳は「Yoga: The Alpha and the Omega」第4巻を始める。
同時に、An Anthology of Osho's Life From His Own Booksから講話を整理している。特に、Oshoが肉体的に不在になる以降のヴィジョンやガイダンスについては、ラジニーシ・プーラム時代のFrom〜to〜シリーズやミスティック・スクール期の講話の中で語られている。
この時期の講話は断片的にOsho Timesに掲載されてきたくらいで、1冊の本としてはまったく翻訳されていない。
それならOshoについての誤解や批判、勝手な解釈が生じるのも当然だろう。
11月15日
以前にも書いたことだが、Oshoの翻訳を通して、私がこれまで教わってきたことはほとんどデタラメであることがわかり、それに気づくこと、それを知ることの悔しさを毎回感じているが、その教わってきたことは当然サニヤシンからのものも含まれる。
これは本当に個人的なもので、ようするに自分の独自性を受け入れることが日本では非常に難しいということ。
今になってようやく、Oshoの翻訳を通して、自分自身を受け入れられるようになってきた。
これが私にとってのセラピーであり瞑想なのだろう。それでもようやく5年が経ったくらいだからな・・・。
想えば・・・、長い試行錯誤の人生だったな・・・。
11月16日
自分が今やっていることの意義とは何だろう?・・・と、ふと思ったりする。
そもそもは、自分の理解のためにやっているのだが、16冊も翻訳してくれば、自分にとっての大方の指針やポイントは掴めてきている。後は、要所要所の足りないところ、もう一歩踏み込みたいところを探して訳していきたい、という思いに変わってきている。
いわば、自分にとっての、自分のためのOshoの編集本を作りたい、ということになる。
だからなおさら、他人が編集した本には興味が持てない。何を拾い上げるかはその人固有の質・個性に関わるものだから。
つまり、1冊全てを翻訳することの意味が、私個人の問題に関する限り薄れている、それが特にクリシュナの講話に出てきている。非常に興味深い章もあれば、そうではない、個人的にはどうでもいい章もある。それは1970年代のインド国内の問題について語ったものがそうだ。
インド特有の問題に関する講話が、現代の日本と、今の自分とどう関わってくるのか、それが見えない。自分とは関係のない話なのである。
だから、クリシュナの講話の翻訳は遅々として進まない。部分的に非常にエソテリックな話も語られているのだから、完全に翻訳を止めることももったいないし、できない。これに関してはぼちぼち進めて行くしかない・・・。
Oshoの教えの現代性はどれほどのものか・・・、という思いもある。
Osho自身は、「私は人間の永遠の進化の一部だ。真理の探究は新しくも古くもない。」と言っている。Oshoの言っていることは、Osho独自の教えのようでありながら、実は太古から伝えられてきた教えを現代的に言い換えているだけでもある。だから新しくもなく古くもない。
それを読み手がどこまで読み解き、理解できるか・・・。
現代のスピリチュアルで人気のあるエックハルト・トールなどは、そのわかりやすさで人気があるのだろうが、どうもOshoの教えを彼なりにまとめて伝えているにすぎないような、私はずっとそんな感じを抱いている。
エックハルトの言っていることは、Oshoの教えのほんの一部を取り上げているにすぎない。彼がOshoのようにあらゆる宗教の本質部分を語れるようには思えないし、霊的な深い部分への洞察があるようにも見えない。ただ、現代社会でうまく生きていくための方法論を述べているだけのように見える。
それはその他の最新のスピ系の本にも感じられる。いわゆる「引き寄せの方法〜」という類のもの。だから一般読者にとっては食いつきやすいし、人気があるのだろう。
ようするに、浅いのだ。
私自身、何かを引き寄せたいとは思わない。何かを得るなら、何かを失う、といのが摂理でありダルマだから、その「〜したい」という欲望に問題がある。
そういう本質的なことにスポットを当てているのがOshoであり、太古からのインドの探求でもある。
そんなOshoの本をまる1冊翻訳することの意義・・・・
そこに最近やや葛藤を感じている。それは翻訳したものがすぐに出版されないことに対するもどかしさから来ているのかもしれない。
まったく完全に自分のためだけにOshoの翻訳をしていくとするなら、1冊を全部翻訳する意味はない・・・・・
・・・と、書いたが、やはり自分のためだけではない、という思いがある。
やはり、翻訳して残すべきなのだろう。それが出版されようとされまいと、どう理解されようと、それはその後を扱う人たちの問題だ。
昨日のテレビで「終わらない人 宮崎 駿」を見たが、人工知能を使ってCGを作ったものを宮崎監督が見てあからさまに嫌悪感を示していた場面が印象的だった。首のない人体が肩を使って這い動く動作をCGで作っていたが、明らかに不気味でグロテスクだった。
そういうものを平気で作ることのできる人間がいる、ということ・・・。科学の進歩は人間をますます無機質に、痛みのわからない心を持つ人間を生み出しているように感じる。
だからこそ、科学と宗教について語るOshoの教えは重要性を持ってくるように思えるが・・・。
11月23日
Yoga: The Alpha and the Omega Vol.4 の翻訳を始めている。基本となっているヨーガ・スートラでは、Vol.3まで取り扱っているのが各種のサマーディの解説で、Vol.4以降から実践的な部分に入る。
そのVol.4の第1章の経文で、いきなりヨーガの基本でもありながら翻訳の難しい言葉に出会う。
英文---
KRIYA-YOGA IS A PRACTICAL, PRELIMINARY YOGA, AND IT IS COMPOSED OF AUSTERITY, SELF-STUDY AND SURRENDER TO GOD.
翻訳--「クリヤ・ヨーガは実用的で、予備的なヨーガであり、それは厳格(簡素)さ、自己考察、神への明け渡しから成り立っている。」
問題となっている言葉は Austerity 。辞書での訳語は厳しさ、厳格、質素、簡素とあり、特に宗教的な意味合いでは「苦行」と訳されている。「世界の名著シリーズ・バラモン経典」の中に訳出されているヨーガ・スートラでもこの言葉を苦行と訳している。
こういう翻訳から、後々の宗教への誤解が生じたように思える。「苦行」の言葉が持つイメージが悪い。意味合い的にも何か飛躍しているように思える。
とりあえず、暫定的に「厳格(簡素)」と訳したが、まったく日本語に適当な言葉が見当たらない。
スワミ・サッチダーナンダの「インテグラル・ヨーガ」という本では、この経文のサンスクリット語原文を紹介していて、このAusterityに当たる語は「タパス」となっている。その解説で・・・
「サンスクリットの用語を使うと、"クリヤー・ヨーガは、タパス、スヴァディアーヤ、イーシュヴァラ・ブラニダーナより成る"である。 "タパス"ということばは"苦行"とか"禁欲"と訳されるのでよく誤解されるが、実際はここでは別のものを意味している。"タパス"とは"焼くこと"、あるいは"熱を作り出すこと"である。焼くとどんな物でも純化される。・・・」
Oshoも講話の中で、まずはサディストとマゾヒストについて語り、マゾヒストに関連させてこの言葉について述べている。
「最初の言葉は「厳格(簡素)さ」だ。マゾヒストは厳格(簡素)さを自虐に変えた。彼らは身体を苦しめれば苦しめるほどスピリチュアルになると考える。身体を苦しめることはスピリチュアルになるための道---これはマゾヒストの理解だ。
身体を苦しめることは道ではない。苦しめることは暴力だ。あなたが他人を苦しめようと自分自身を苦しめようと、それは暴力だ。そして暴力は決して宗教的であることはできない。」
ネットの「タパス」の解説・・・
タパス(苦行)
古来インドを訪れる外国人の目を驚かすものに、苦行がある。苦行の原語はtapasで、「熱」を意味する。『リグ・ヴェーダ』では宇宙創造にかかわる「熱力」という意味で用いられた。後に断食に代表される肉体を苦しめる修行によって、この神秘的な熱力が獲得されるとみなされ、そのような行もtapasと呼ばれるようになった。これを得れば超人的な能力が実現できるとして、さまざまな苦行、難行が行われるようになった。ブッダの当時には、都市の近郊に苦行者の集まる苦行林が形成されていた…
苦行の思想には多かれ少なかれ、物質主義的な発想がはたらいている。例えば、ジャイナ教では、行為の結果生まれる業が心につく垢として物質的なものにみなされ、苦行によって体内に蓄えられる熱力が、これを浄化するとされる。
谷川泰教「原始ジャイナ教」(『岩波講座東洋思想』第5巻)、1988年、77頁
ようするに、原語は"タパス"で、それをOshoはAusterityと言っているが、文脈の中では「厳格」という意味と「簡素」という意味が使い分けられている。
つまり、日本語で一つの言葉にするのは不可能だということだ。日本語には古臭い仏教的なイメージがこびりついている。そもそも日本語は仏教から派生したものが多いから、その基本概念は仏教にある。それも中国思想に影響された日本独自の仏教に・・・。
早い話・・・、どうしようもない、お手上げである。日本語に"タパス"に相当する言葉がないのだから・・・。
個人的には、Oshoの言葉にあまり伝統的な日本仏教のニュアンスを染み込ませたくない。翻訳で言葉選びにはいつも苦労する。
11月29日
12月発売予定の「真理の扉」は「真理の泉」にタイトルが変更されたらしい。そして発売は12月末とのこと。表紙デザインとの兼ね合いもあるとかで、私は知らないが、OIFからもお褒めのコメントを頂いたらしい。どんな仕上がりになるのか楽しみになる。
加えて、来年はできるだけ出版数を増やす予定らしい。年に4、5冊いくような話。本当に実行されればおもしろいことになるだろう。こちらは年2、3冊の翻訳ペースだから、出版ペースがそれを上まってくれるといい。
当面の目標は Yoga: The Alpha and the Omega 全10巻の完訳と、25年後の版権無効の時までに「ダンマパダ」全12巻の完訳。
それに平行して、ミステリー・スクール期の講話を翻訳すること。
11月30日
Yoga: The Alpha and the Omega もpdfファイルでは誤字が目立つ。原書を持っていないからOshoの肉声オーディオで確認するが、まずOshoの声が元気がよくて早口なのが驚く。これは1975年の講話だからOshoは44歳の時だ。それでも風貌は古老という感じだが・・・。
ただ、誤字以前に、Oshoの語る言葉とpdfファイル上での文章が違っている所が多くある。意味合いはそんなに違っていないけれど・・・、例えばOshoの肉声では
true 〜真実、と言っているが、ファイル上では right 〜正しい、と書かれてある。原書もそうなのか、確かめようがない。
一応、翻訳はpdfファイルを元に行っている。
戯れに・・・、
市民出版社がNowhere to Go but In の翻訳を20年くらい前にある翻訳者に頼んだらしいが、「ヒンディー語の部分(単語)が多く、訳しづらい」とのことでやめたことがある、というので、この翻訳にも興味が沸き、全体のページ数を探ってみたらけっこう多い。全16章で、出版となると上下2巻に分けられるだろう。でも、いずれやってみたい。
Osho日記 2016年 11月