2016年 3月
 1月 4日

 初心忘れず・・・。自分がOshoの翻訳をやり続けている、その最初の動機を忘れず・・・。

 「ビヨンド・サイコロジー」は、半分は市民出版社への奉仕。だが、その内容からは多くのものを得られる。ただ、ワールド・ツアーでの出来事に関する話は、正直もういいという感じだが・・・。
 同時進行の「ヨーガ:アルファ〜」第2巻は、真のヨーガを知りたいため、その論理的かつ科学的な霊的技法を知りたいため。

 ハタ・ヨーガは、西洋式の体操を100年前に取り入れて作られた独自の新しいヨーガで、パタンジャリの説いているヨーガとは全く関係がない、ということをウィキペディアで知った。しかし世間では、ヨーガと言えばハタ・ヨーガのことである。ここにもデタラメが存在している。

 「ヨーガ:アルファ〜」は全10巻・・・、長いワークになる。
 前から訳したいものが「クリシュナ Krishna : The Man and His Philosophy」。一般にクリシュナの知名度はどの程度か知らないが、あまり高くはないだろう。だが、この講話には神智学との関連が感じられるから、個人的にはすごく興味が強い。

 ヒンディー語の講話からの英訳と、特にミステリー・スクール以降の講話の翻訳の両立。
 人間の霊的な基本的知識と、現代的な問題への対応法の、両面を探求すること。
 すると当然、そのワークは膨大なものになってくる。ただしそれは、あくまで私個人のワークだ。

 瞑想している時が、一番気持ちがいい。このまま死んでもいいと思う。
 「死」に関する講話が自分にとっては重要になっている。
 だから「クリシュナ」、そしてカタウパニシャッドについて語った「The Message Beyond Words」。

 初心忘れず・・・。翻訳は、自分のためにしている。自分が知りたいからしている。自分が知りたいものを訳している。


 キヨタカというサニヤシンのブログで、「恩寵の扉が開くまで」というフーマンとの対話の中で気になるところがある・・・。
 一つ、フーマンはキヨタカに
 「まずあなたは、アジズやOSHOそして全ての教えを統合出来る準備が出来ているという事だ。」と言っている。

  Oshoの教えを統合する? なぜ統合しなければならないのだ? 統合する理由は何だ?
  当然そこには、統合する者自身の解釈が入ってくる。そもそも、統合とは何だ。
  そして、キヨタカという人物はそんなに凄い人間だというのか? ただのエゴ・トリップにしか見えないが・・・。

 フーマン「OSHOの本を読んで瞑想することは、最初はそれでいい。しかし、やがて行き詰まるだろう。
  スピリチュアルな進化には、生きているマスターの臨在が必要だ。」

 「やがて行き詰まるだろう。」・・・、そうは思わない。行き詰まった時にこそ、Oshoの教えが導きを示してくれる。

 「生きているマスターの臨在が必要だ。」
 誰をマスターと認識するのだ?本物のマスターと偽物のマスターをどう見分けるのだ?
 真のマスターは自分の内側の声に、直感にある。それがOshoの教えであり、仏陀の最期の教えでもある。
 生きているマスターの臨在にこだわるのは、一見安心させられるようで、実は危険である。
 誰かに従って天国に行くよりかは、自分に従って地獄に行くほうがいい、これもOshoから教えられたことだ。
 決して他人に依存してはいけない。

 フーマン「OSHOは、全てをテーブルの上に広げた。全ての道を、だ。
 それ故、サニヤシンの多くがちょっと混乱しているようだ。」

 ・・・混乱するかどうかは、それぞれの人の問題だ。このフーマンという人は決めつけが強いようだ。
 私にとっての混乱は、30年前の混乱は、Oshoに関するものではなく、Oshoに関わるサニヤシンたちのワークに対する混乱だった。つまり私は、サニヤシンに対して混乱していた。そして今、Oshoの翻訳を通して、その混乱は少しずつ解消されている。
 Oshoを知ることで、行き詰まりから解放されている。
 このフーマンの言っていることとは全く逆である。

 サニヤシンはOshoではない。誰もOshoの代理にはなれない。


 最後のフーマンの文・・・

 「これはここだけの話なんだが、あなたに秘密を教えよう。
 私のワークにはOSHOが非常に深く関わっている。
 だから私の生徒の多くはサニヤシンで、しかも長年ワークをしてきた人達が私のところにやって来ている。
 彼の臨在は非常に強い。
 彼の意識とエネルギーが、ここにとても強くある。
 だから私と彼のワークとは分離出来ず、ブラザーフッドと感じているのだ。
 あなたは自分のセンター名からOSHOを外したと言うが、OSHOの看板を外して初めて、
 本当のOSHOのワークが始まるのだ。」

 ・・・直感的に、すごく嫌なものを感じる。グル・トリップというか、正直、こいつに何がわかるのだ?という感じだ。
 いったいこのフーマンという者は何をしたというのだ?この人物の何がすごいのだ?
 まあ、この者のところにやって来るようなサニヤシンは、要はその程度の人間だということだ。
 彼らは未だに、どのグルがすごいか、どのマスターが優れているか、というゲームで遊びたいのだろう。

 上の文の中で一番嫌な言葉が
 「これはここだけの話なんだが、あなたに秘密を教えよう。」だ。
 この「あなた」は、このブログの主キヨタカ自身であり、こういう文をキヨタカ本人が載せること自体、自分は他人とは違う、特別な人間である、選ばれた人間である、ということを言っている。
 つまり、キヨタカのエゴの表れである。


 改めて思う。私は、似非マスターに従って似非天国に行くよりかは、自分に従って地獄に行くつもりだ。
 というか、地獄も混乱も、既に体験済みで、もうどこにも行く必要はないが・・・。

 だから改めて初心に帰るなら、Oshoの翻訳は自分のためであり、それは瞑想であり、それが最も心地良い瞬間、
 つまりそれが、自分の道、ということになる。




 
1月 5日

 山川紘矢氏翻訳のOshoの3冊目は、アマゾンのサイトで見る限りまだ出ていない。
 同じアマゾンのサイトで不思議なのが、河出書房新社から出る予定の「存在の詩」の再販が、近日発売とありながら、その発売日は2016年の12月になっている。ずいぶん先の話だが、それを早々と告知するのも変な話だ。
 めるくまーるからの、「死について41の答え」以後の新刊の情報もない。また、寂しい状況になってきた。
 今年のOshoの新刊は、市民出版社から出る私の翻訳ぐらいか・・・。

 一時期、最盛期には約3000人いたと言われていた日本のサニヤシンたちは、現在何をしているのだろう?

 一年前にプネーのOshoコミューンで、山川紘矢のOshoの翻訳を祝うパーティが山川氏本人を迎えて催されたらしいが、
 サニヤシン以外の人の翻訳を祝うのはけっこうな事だが、
 門外漢の人に翻訳を頼り、サニヤシンで翻訳をする人がいないというのは、ちょっと情けない話だと思うが・・・。

 その翻訳の出来具合を批判するようなコメントを、ネットでちらほら見ることがあるが、

 批判する人はいても、翻訳する人はいない。

 まあ、確かに、コツコツと根気のいる、地道な作業だから、続けていくのは大変だろうけれど・・・。
 私の場合、朝の7時から夜.の10時まで、ほとんど休みなしでやっているけれど、結局これが自分の性に合っているのだろう・・・・。
 好きでやっているから、やりたくてやっているから、まったく大変だとは思わない。
 心地よい充実感がある。




 
1月 8日

 上の日記に書いた「存在の詩」の再販時期について、楽天サイトでは正確な情報が載っていた。
 それによると、発売日延期商品、現在未定、と表示されている。それでもこのサイトでは、発売日は2015年4月3日頃となっている。
 この日が延期されて2016年12月になったのだろうか・・・?

 何があったのだろう?
 いずれにせよ、Oshoの本の出版ブームは終わりを迎えた、ということだろうか・・・。
 となると、あっけなかったな・・・。

 私がこの日記で以前に書いたようになってしまった、ということか・・・。




 
1月 17日

 翻訳は、「ビヨンド・サイコロジー」の各章が終わった後に、一日を「ヨーガ:アルファ〜」の一章の翻訳に充てる。
 おそらく「ビヨンド・サイコロジー」の翻訳が終わった後は、「ヨーガ:アルファ〜」と「クリシュナ」を同時交互に 翻訳することになるだろう。
 「クリシュナ」の最初の章を軽く読んでみたが、やはり自分に合っているのか、何かワクワクさせる内容になっている。

  始まりの地点は終わりの地点になる、とOshoはよく言っている。それは自分にとっての原点を忘れず明白に保つことの重要さを意味する。日記を書くことは自己確認の作業であり、自分の何が変化して、何が変わらずのままか、を知ること。
  自分にとっての始まりの地点は、1978年からの東京での生活で得た精神世界にある。その頃得た物を取り戻したい、というのが一番大きい。あの頃はある種のスピリチュアルなハネムーンでもあったのだろう。

 自分のHPのアクセス・カウンターをOshoのトップ・ページにも設置した。
  これまでHPのトップ・ページに設置されたアクセス・カウンターだけを見て、だいたい一日平均4〜8件くらいだと思っていたのが、Oshoのトップ・ページへのアクセスは一日12件もある。HPのトップ・ページを経由せずに、ダイレクトにOshoのトップ・ページにアクセスしている、ということだ。それだけOshoへの関心度はまだまだ強いということか・・・。

 自分がやっていること、Oshoの翻訳というものの意義は何か、と考えれば・・・、その意欲は、Oshoと自分の内面に関する理解を深めたい、というのが一番だが、やはりそれを出版という形でサポートしてくれている市民出版社の力も大きい。相互的に助け合っている感じがある。

 自分にとっての始まりの地点は、人間はなぜ生きるのか? そもそも生きることの意味は何か? ということ。
 それは、これまで人間はどのように生きてきたのか、ということでもあり、ただ、それは普通の歴史を知る事ではなく、その歴史の裏側にあったもの、その真実の流れを知りたい、ということであり、
だから必然的に、秘教的な世界に、古代文明の世界に惹かれていく。
そしてその見える世界と見えない世界との繋がり、関係が、少しずつわかってきている。

  それを解き明かしてくれるのがOshoであり、神智学系の人たちである。




    




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