8月17日
Oshoの翻訳は4冊目の本に入っている。
「知恵の書」「トランスミッション・オブ・ザ・ランプ」は終わり〜仏陀の経典を取上げた「超越の訓練」は、全4巻の内、第1巻が終わった。
「超越の訓練」は、最初、仏典の涅槃経を取り扱ったものかと思っていたが、違っていて、古代の中国に伝わっている仏教の教えを42章の経文にまとめたもの、を取り扱っている。最初、中国の・・・と知って、やや抵抗があったが 〜基本的に中国仏教は嫌いなので〜 これは、中国に仏教を伝えるために、当時の中国の皇帝がインドの仏教僧たちに、仏教の教えを短く、わかりやすくまとめるように指示されて作られた経典で、いわば仏教経典のダイジェスト版、エッセンス集のようなもの。
だから、これのサンスクリット語の原典はない。中国にだけ存在する独自の仏教経典といえる。膨大な仏教経典の教えの真髄・本質をコンパクトにしたもの。それを、西洋人に仏教とは何かを教えるために、Oshoが取上げたもの。
その本「超越の訓練」の第一巻の翻訳が終わって、気分転換と、より秘教的なものを翻訳したくて、4冊目に、もっと初期の講話、「And
Now, And Here」の翻訳を始めた。これは1969年の、Oshoが38歳の時の講話で、主に死について語られている。
原語はヒンディー語で、それを英訳されたものだから、文章は話し言葉ではなく、論文調になっている。使われている単語も、直接Oshoが使わないような難しい単語が多い。文法も高度になっている。だから、いままでよりも翻訳しにくい。
そして、インド人相手に話しているので、その内容はより哲学的で深く、難解になっている。それでもかなり霊的な話が多くて、その面ではすごく興味深い。 Osho自身の幽体離脱や、死の時に何が起こるのか、転生、過去生を知ること、動物や植物・鉱物の魂の様子について、ただ知識を伝えるだけでなく、それを知る人間の心理について多く語っている。
この本は、上巻が「死、終わりなき生」というタイトルで1989年に出ているが、下巻の翻訳は、その後なされていなかったもの。下巻の方が内容的にもより秘教的知識に溢れている。下巻全8章の内、現在3章目を翻訳中〜いままでより翻訳に時間がかかっている。順調にいけば、2〜3年後には出版されるかも・・・
8月24日
Osho 朝の目覚めに贈る言葉
人間は不思議な動物だ
あらゆる物を探求する
エベレストに行く
北極に行く
月に行く
しかし、自分自身の内側に行こうとはしない
これが、人間が抱えている最も大きな病だ
探求しない唯一の空間が、自分自身の内側の世界だ―――
真の宝はそこにある
自分自身の存在の聖堂に入って行かない限り
人の人生はただの消耗、
計り知れないほどの消耗になってしまう
私たちはこのような黄金の機会を失いつつあるが
そのことに気づいてさえいない
あまりにも無意識に尊いものすべてを捨て
がらくたを集めている
古い経典を集める人々がいる
そのような経典は古ければそれだけでよいと思われている
そこには金の収集家がいて
あらゆる類の愚行が続いている
彼らは実に最古の財宝を探しているが
探している方向が違うのだ
探す価値がある唯一の財宝は、本来の自分自身だ
真の冒険とは、自分自身の内側に向かうことだ
一度そこに関わってしまえば―――
意図的に、意識的に心を決めれば
「何が起こっても私は私自身を、本来の私自身を、私の存在を探さねばならない 私はこの人生の機会を逃さない」―――
この決心が明らかになり
エネルギーがそこに注がれ始めるなら
失敗する理由はどこにもない
失敗した者はだれひとりとしていない
自分のエネルギーを内側の探求に向けた者は
誰でも、自分自身を探し出すことができる
8月26日
Oshoの、ブライアン・ワイス「前世療法」についての講話
OSHO, Zen:Mystery and The Poetry of the Beyond より
つい先日、私はあなた方にブライアン・ワイスと彼の著作「前世療法」について話した。
だが、何年もの間、彼はその事実を隠していた。
社会を、特にキリスト教を恐れるがゆえに、というのも彼はキリスト教の社会に生きているからだ。
彼は催眠術を使い、人々を過去生へと連れて行った。
さて、世界の三大宗教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、過去生も来世もまったく信じない。
彼らは自分たちをひとつの生だけに限定する。
それゆえに、何年も成功を収めていたにも関わらず、彼は仲間にも同僚にも話さなかった。
彼は催眠のもと、患者たちを各々の過去生へと連れて行った。
そして奇妙なことに、いかなる心の病でも、ひとたびその原因を過去生に見つけるやいなや、この生での症状は消え失せた。
彼は多くの者を過去生へ連れて行くことだけで癒した。過去生からの傷、痛みを・・
しかし私はブライアン・ワイスに覚えておいてほしい。
東洋全体が過去生と再生を明らかにするために、その全叡智を注いできたことを---。
この国(インド)が約1万年にわたり、様々なテクニック、技法を用いて過去生へと到達しようとした世界で唯一の国だという単純な理由から、
あなたが想像することもできないほど、私たちはそのことについて知っている。
しかし、ブライアン・ワイスの実験はきわめて勇気のある実験だった。
彼は、心理分析を20年しても不可能なことが、催眠術を使えば数セッションで可能だ、と言う。
その人を過去生に連れて行くだけでいい。その人はこの生からではない傷を持っている。原因に到達しない限り、それは消滅しない。
しかし、難題がある・・ おそらく彼は気づいてさえいないだろう。
その人は過去生に到達したと空想しているだけなのかもしれない。
どう区別する? その人は催眠のもとで過去生に到達している夢を見ているだけなのかもしれない。
その想像、幻影、夢でさえ、その症状を取り除く助けとなるかもしれない。
が、誕生を越え、死を越えて過去生に到達したとは確信できない。
そして、多くの生に関して言うなら、催眠のもとでその人が空想している可能性はより高い。
ブライアン・ワイスは理解する必要がある、というのも私の言っていることは、まず患者に瞑想を教えない限り・・
瞑想は、想像の、思考の、夢の、幻影の、迷いのまさに根そのものを断つ。
瞑想は完全にマインドを切り離す。
催眠のもとでその人が本当に過去生に到達したのかは、瞑想の後でしか確実ではない。
そして、過去生を思い出すのではなく、再び生きることがその徴(しるし)だ。
瞑想を実習した後の深い催眠状態のなか、人は過去生を思い出すのではなく、再び生きる。
思い出すことと、再び生きることの間には大きな違いがある。
もし、あなたのマインドが思い出すだけで心の傷を癒す助けとなるなら、
再び過去生を生きることは、心の病を取り除くだけでなく、あなたの実在の周りにあるすべての暗闇を取り除くことになることを、あなたには実によく理解できるだろう。
それは、あなたに精神的成長をもたらしうる・・そして、それは途方もない違いだ。
しかし、彼は口火を切った。私は彼を尊敬する。
それでも、患者が夢を見ているのではなく、異なった時空に入って行ったと確定するには、彼は多くを学ぶ必要がある。
だが覚えておきなさい。
過去生を思い出すために努力するのではなく、過去生がそれ自身をあなたに明らかにするのをただ許す、ということを。
過去生を再び生きることは、あなたを完全にきれいにする。
それは必須ではない。もしあなたが深く瞑想しているなら、それだけで充分だ。
それでも充分でないなら、おそらく、過去生を再び生きることも途方もない助けになりうる。
8月27日
悟り〜光明〜の状態
「悟り」と言っても、禅でよくある、難解な公案を解決した時の境地ではなく、究極の悟りのこと
だから、ここではそれを「光明」と呼ぶことにするけれど・・・
Oshoの本を読んだり、Osho自身のエピソードを知れば、光明を得ることがどんな状態なのかが想像できる。
★単純に言えば、全てにおいて満たされた状態。
だから、何をする必要もなく、どこに行く必要もない。ただ、在るだけで満たされ、至福を感じている。無条件に
例えるなら、セックスで得られる快感が、24時間持続している状態らしい・・・
★無意識がなくなる。全てが意識的になる。だから、夢を見ない。いや、そもそも、眠らない。睡眠は、ただ身体を休ませるためのものになる。
仏陀(釈迦)は、眠っている間、一度も寝返りをうたず、初めから最後まで同じ姿勢で眠っていた、といわれている。
それは、寝ているのは身体だけで、意識ははっきりと目覚めていたからだ、という。
★身体との同一化がなくなる。分離する。
自分は身体ではない、ということが実感される。
だから、例えばドラッグや麻酔の影響を受けなくなる。
身体の痛みに影響されなくなる?これが信じがたいことだが・・・
ただこれは、よくある厳しい修行で、感覚を鈍くしたり、それに耐える力を身に付けるのとは全く違う。
Oshoが歯の治療を麻酔なしで受けていた時、すごく痛いにもかかわらず、終始笑顔を絶やさなかったという。
マンスールという聖者は、自分は神を見た、と言ったことで、民衆から虐待され、生きたまま手足を切断されたが、その間も彼は笑っていたという。
ただ、身体自体は、光明を得たことで、健康を損なうという。身体そのものが光明のエネルギーに耐えられるようにはできていないらしい。
Oshoの「神秘家の道」の中で言われていることでは、
光明を得た人の内で、90%は即死するという。生き残るのは10%の人だけ。それも光明を得た時の衝撃に身体が耐えられないからだという。
生き残れる人は、生前から危険な生き方をしてきた人たちだという。
また、生き残った光明を得た人の内で、90%は脳が働かなくなるという。
だから、光明〜悟り〜を得て、何かを語れる人は、残りの10%の人〜、光明を得た人全体の中の、1%の人にすぎない、ということになる。
実際、Oshoの日本人最初の弟子は、湖で溺れ死んだが、その時に光明を得たらしい。
また、Oshoの父親も死んだ時に光明を得ている。
そうしてみると、光明を得ても、死んだら意味がない、と思うだろうが、そもそも、死とは魂と身体が離れるだけのことだし、それは魂にとっては身体からの解放であるわけだし、光明を得た人にとっては、身体の中にいることの意味や必要性はなくなっている。
だから、光明を得たら、もう生まれ変わることはない。輪廻から解放される。
それを、インドという国は、何千年間も追及してきたわけだが・・・
ただ、その人でも、本人が望めば、あと一回は転生できる。それはその人の意思しだい。
しかし現実的に、そのための環境がなくなっている。光明を得た魂を受け入れられる両親や、その魂が育てられる環境がどこにあるだろうか・・・
そして、光明〜悟り〜とは、
何か特別な修行をした結果、得られるものではない。
むしろ、全ての修行、方法が無用だ、役立たないとわかった後に、光明は起こるものらしい。
つまり、求めることが完全に消えた瞬間、光明は起こる。
このあたりが、霊的修行のややこしさ、というかジレンマ、逆説でもある。
だからやれることは、ただそのための準備を整えるだけ。
このあたりは、シュタイナーの霊視の日記にも書いた、霊視できるようになるための方法と同じである。