3月25日

  久々にまた和尚の世界に戻り、翻訳の作業を遅々とやり始めた。
 文章力も英語力もまったくないので、別に出版するためのものではなく、全く自分が読みたいのための作業。
 自分が理解できればいいことが基準だから、たぶん誤訳だらけになることだろう。

  翻訳する原本は、和尚が、チベット仏教のマスター、アティーシャについて語った講話で、
 大雑把な翻訳は全体の6分の1だけ終わっているが、それは1993年にやったもので、とりあえずその部分の清書を先に済ます作業。 まあ、飽きずに続けられても、全部を翻訳できるには1〜2年はかかりそう。

  22歳頃に最初の彼の本を読んで、26歳で弟子になったのだが、まあ、本を読むのと、実際にその世界にかかわるのとでは大違い。
 その瞑想生活は約2年だけだったが、ほとんど混迷、混沌としていた。
 ちょうど過度期に当たっていたかもしれないが、いろんなことが起こって、多くの日本人の弟子たちが、和尚に不信感を持って、オウム真理教に移っていった。私の友人にもひとりいたが、彼がその後どうなったのかはわからない。
 私はその頃から、組織というものの権力志向がわかってから、いっさい和尚や弟子たちとのかかわりから身を引いた。

  しばらく、神智学やスピリチュアル、シュタイナーの本などを読んだりしてはいたが、それぞれにどうも偏りがあるのを、最近感じ始めている。スピリチュアリズムは、霊界の世界を詳しくわかりやすく伝えているが、人間の霊的な構造についてはあまり深くない。 その点では神智学とシュタイナーが非常に深く探求しているが、それぞれ西洋からの見方でアプローチしているので、どうしてもキリスト教の色がついている。

  それに人の成長のための修業方法などについては、伝統的ヨーガの技法を紹介するくらいで、具体性、説得力が感じられない。
 その成長プロセスを説ける人物として、やっぱり和尚、ということに戻ってしまっている。
 その細かい精神行程のガイドとしては、以前の日記にも書いた、トゥルンパの方が自分にはなじみやすい。
 どちらにしろ、この二人の本を読むと、実は仏教というのはすごい教えなのだ、ということがわかってくる。

 和尚の本は、全部の1割程度しか翻訳されていないし、それも内容に偏りがある。
 霊体や輪廻、過去生について書かれた本もあるが、まだ翻訳されていない。これも翻訳してみたいが、かなり分厚い本だ。

  結局、今になって、和尚を再認識し始めている。
 2年前のインド・カジュラホに行った時も、インド人の新しい和尚の弟子たちが来ていたのが不思議な感じだった。
 和尚のブックフェアーもあったし、最近はインド人も和尚を受け入れているようだ。
  結局、私は和尚についてほとんど知らなかったのだろう。たぶんこれからも理解することは不可能だろうけれど。



 7月23日

30年近く前の話…

和尚の弟子になったばかり、3日間のリバーシング瞑想キャンプに参加する。 リバーシングとは、直訳すれば「再誕生」という意味。  
人は誰しも、誕生時の苦痛がトラウマとなって、その後の人生に影響を与え続けている、という洞察から、そのトラウマから解放されることを目的としたセラピー。 

テクニックは単純な呼吸法。 口での肺呼吸をできるだけ強烈に、速く、深く続ける。 やることはそれだけ。この呼吸法は、赤ん坊が生まれて最初にする呼吸法らしく、それをすることによって、誕生時の苦痛を再び体験し、体験することで、それから自由になれる、というもの。 
 このセラピー体験が、私の人生で、最大の霊的体験をすることになった。

一日一回、一時間ほどのセッションを三日間行う。 リバーシングを始めると、肺呼吸のため、まず胸が熱くなってくる。呼吸を続けることがかなり苦痛になっていく。 喉が痛み出す。全身が痛み出す。特に手足の筋肉が引きつり、こむら返りを起こして動けなくなる。 この痛みに耐えながら呼吸を続けることは大変な努力だが、だから、セラピストの助けがないと続けられない。 当時は、かなり精神的に落ち込んでいたため、必死の思いでのぞんだことが、いい結果を生じたと思う。 誰しも同じ現象が起こるわけではなく、こんな体験をしたのは、その参加者(10人ほどいた)の中でも私だけだった。

それは、初日に、三つの顔が見え出した。 セッション中は目を閉じている。 額の辺りに、年老いた醜い顔が三つ、こちらを見つめていた。 
二日目に山場が来る。 呼吸を続けて、その苦痛が頂点に達したころ、自分が母体の中にいる実感がしてくる。 何も心配のない、平和で心地いい時・・・ しばらくして、ある方向へ引き寄せられる。 非常に狭いトンネルを潜り抜けてゆく感覚。 それは頭の大きさしかない空間。 頭が圧迫されている感覚。 そして、出口が近いことを感じると、もう後には戻れない、もうあの居心地の良かったところには帰れない、という寂しさ、名残惜しさ、諦めを感じる。

ひとつの敷居をまたぐような、見知らぬ世界に飛び込むような不安交じりの感覚に襲われ、突然、明るくなり、光のシャワーを浴びる。 そして、バチーンと、何かが切断される強烈な衝撃を受ける。 
 その後、(その間も呼吸法は続けている) 足元からゆっくりと、ふんわりと暖かくて柔らかいものに包まれてゆく。 優しいエネルギーに包まれていく感覚を覚える。 そして、理由もなく、ただ存在しているだけで、最高の幸福感を味わう。 何もないのに、全てに満たされている感覚。 最高の喜び、笑い、充実感を感じる。 

この体験が強烈だったので、三日目は、その効果を期待しすぎたためか、初日の謎の顔が再び現れたくらいで、ほとんど何も起こらなかった。

ここでわかったことは、誕生と、死ぬことは、同じ現象なのだ、ということ。 単に、ひとつの世界(住み慣れた世界)から、別の世界(未知の世界)へ移り行くだけのことにすぎない、ということを感じた。 
それと、期待すると、得られない、ということも・・・・
 セツションが終わっても、しばらくはハイな(高揚した)気分が続いていたが、 実家に帰って、母親の俗っぽい話を聞かされているうちに、最低のレベルまで落ち込み、最悪の気分を味わうことになる。 おそらく、セッションを受ける前よりも悪い状態になる。

ここでわかったことは、急激に上昇すると、また急激に落下してしまう、ということ。 一回や二回くらいの超常的な体験をしたからといって、それですべてオーケーになるほど、そんなに生易しいものではない、ということ。 最高の幸福感を味わった後は、必ず、その反動が来るということだ。

でも、この体験は自分にとってはすごい糧にはなっている。 もうそれ以降は、こんな体験はしていないが、それが可能であること、何もなくても、幸せであることが可能であること、死ぬことは、生まれることであること、生まれることは、死ぬことであること、死ぬ感覚と、生まれる感覚は同じであること、そして、すべてから解放されると、人は、本来はとても幸せな状態で存在していること、を知った。

それらがわかったことは、今でも自分にとって、大きな支えになっているような気がする。




 9月11日

 市民出版社から、他の人も同じ和尚の本を翻訳していたのを、私ひとりにやってほしいと聞いたとき、私は、残りの分を私ひとりで、と思っていたが、他の人の訳文の印象が私のものと違うらしくて、そのへんは統一させたほうがいいらしいし、結局、全部私ひとりがやることになる、という意味だった。 私としても、そのほうがありがたいけれど・・・なかなか翻訳する人がいないみたいだ。

 和尚は、1970年ころから1980年まで、ほとんど毎日弟子たちの前で講話をしていて、それが全てテープに保存されて本になっている。そして途中、沈黙の時期があって、1985年から1989年まで再び講話が開始されるのだけれど、当然これらは、何の台本もなく全て即興で語られている。一日約1時間ほどの講話時間で、だいたいひとつのテーマを10日くらい続けている。
 だから、一冊の本になるのは、約10日分の講話ということになるのだが、今、翻訳している本「知恵の書」は30日間の講話、だから、本にすると、3冊になるのだろう・・・

 すでに全体の半分は翻訳が完了していて出版社に送っているので、校正が済めば1冊分はもう出版可能、といえる。
 和尚の本は、初版が3000部ほどで、着実に売れているらしい。出版してくれる市民出版社も、1988年のツアーで和尚に会い弟子になった人たちによって作られたもの。1984年あたりの混乱・危機の時期に多くの人たちが弟子を辞めたりしているので、それ以降に弟子になった人は、そんな過去のわだかまりがないので、素直に和尚の世界に入ることができるのだろうな。

 私は1982年に弟子になっていて、この混乱の時期を経験してきたので、そのわだかまりから、嫌気がさして・・・・嫌気がさしたのは和尚に対してではなく、弟子たちの行動、ふるまいに対してであって、ここでも従来の宗教にある教祖崇拝的動き、権力志向が生まれてきたから・・・それから10年以上は、まったくかかわりになるのが嫌だった。

 正味、和尚に再び関わり出したのは、今年に入ってからだから、でも、こういう弟子の心理も、和尚は講話の中で、精神世界の道を歩む者がこういうことになることは自然なことだ、と語っているからすごいものだ。
弟子は必ずマスター(導師)に対して反感を持ったり、不信になったりする時がある。それは魂の成長の上では自然な流れである、という。その試練を越えるか越えないかが成長の鍵になる。だから、その時点で弟子を止めたりしても、それは本人の責任であって、まったく問題はない。
トゥルンパが取り上げていたチベットの古い諺が心に響く

  マスターとは火のようなものだ
   近づきすぎると火傷をする
    遠すぎると温まれない




 9月30日

 自分の残りの人生で、何が出来るか、何をすべきか、ということで、私の場合、和尚の本の翻訳、ということに辿り着いた。

 30才より約20年撮り続けた写真も、情熱は醒め、フイルム入手も困難になり、カメラ・レンズも痛み出し、ちょうど止める時期を感じた。
他の、外面的な欲望もなくなり、失業により、時間はたっぷりありながら、経済的にはギリギリの生活、という面からも、必然的に、翻訳作業が最も今の生活事情にふさわしいともいえるが、そんな外的条件を考えなくても、翻訳は、自分にとっておもしろい。
和尚の本を翻訳しているから、おもしろいのだろう。

 とりあえず、現在翻訳中の本は、上巻を16章、下巻を12章に分けて、上巻は来年出版の予定らしい。
下巻は、私の翻訳完了を、あと一年後と見て、再来年の出版の予定らしいが、今のペースだと、あと3〜4ヶ月で完了しそうだから、下巻の出版も、予定より早くなるかもしれない。文字数で計算してみると、上巻で約600ページくらいになりそう。和尚の本としては、まあ普通だが・・・

 翻訳がおもしろいのは、謎解き、宝探しのような作業だから。
原作者…この場合は講話者=和尚だが、…の言いたいことを素直に伝えること、自分の考え、意見を入れることはできない。
ただ、自分を消して、通路、媒介となすこと、ある意味、霊媒のようなものだとも感じている。
だから、瞑想的でもある。そして内容もスピリチュアルだから、その書かれてあることに考えさせられる機会が多い。

 翻訳しながら、その書かれてある内容に影響されて、自分の心の内は、ジェットコースターのように、上がったり下がったりしている。
特に、この本「知恵の書」は、非常に基本的なことが多く述べられてあるので、それはよけいに大きい。
だから、瞑想的でなければ、作業は進められない。だから、おもしろい。

 和尚の本を翻訳する人がなかなかいないらしいので、逆にそれだけやりがいがある。
それに、まだまだ訳されていない本が山ほどある。
私にとっては宝の山のようである。



 10月10日

 9日の日曜日に神戸元町で開催されているインディアメーラー2011というフェスティバルを見に行った。

 この目的は、ここでのインド料理の出店に、私の翻訳中の本の出版を担当している人が参加していると聞いたので、その人に会うため。
このインド料理店「ナタラジ」も和尚の弟子ばかりで仲間内でやっているのだけれど、正直、和尚の日本の弟子たちに会うのは、昔の嫌な思い出があるので、あまり気は進まなかったのだが、会ってみると、とても真面目で普通の人たちで、すんなり溶け込められた。
・・・それだけ、いかに昔のサニヤシンたちが異常にトゲトゲしかったのかがわかる・・・

担当の人と話では古いサニヤシンたちと新しいサニヤシンたちとの間には確執があるようで、古い人間の持つプライドなのだろう。
めんどくさい話だ。それでも私も古い弟子の部類に入っているのだが・・・

 翻訳の話になると、向こうもちょうど翻訳できる人を探していたところで、そこへ私の翻訳の話を聞いて、ちょうどいいタイミングで出会えたことにビックリされたというらしい。うまく、お互いの願いが合致した、不思議な縁だった。

私の、その次の翻訳予定の本も、それもその人が出版したいと思っていた同じ本なので、これも意気投合する。
同じ道を歩んでいる人々と出会えたようで、ようやく道が開け始めてきた感じがした。
がぜん、やる気と生きがいが出てきて、おもしろくなってきた。

 予定では、来年の春頃に「知恵の書」(仮タイトル)の上巻が出るようで、下巻は、私の翻訳は早ければ今年中に終われそうだが、それでも再来年になるとのこと。これは出版社の販売戦略らしくて、あまり立て続けに出版すると売れ行きが悪いらしく、少し間を空けたほうがいいらしい。

 和尚の本を一冊でも多く翻訳して出版したい、というのが私と出版社との願い。
どこまでやれるか、がんばっていきたい。




 10月15日

 一日中、朝から晩まで翻訳をしている。
単調なことの繰り返しは、自分の内側が逆に騒がしくなってくる。自分の内側をよく見ることができる。
それをあえてやっているのが、禅、座禅。ただ、坐るだけ、それだけ、他には何もしない。
それが、自己を知るためには、自分の内面を知るには最も良い方法といわれる。

 和尚の瞑想法のひとつに、沈黙と隔離の瞑想というのがある。
誰にも会わず、何もせず、ただ、じっとしていること。自分というものを知るには、かなり強烈な方法らしい。
今の自分の生活も、そこまではいかなくても、かなり単調である。だからそれなりに、自分の内側でいろんな雑念が騒ぎ立て続けている。

 ただ、この翻訳がなかなか手強い。翻訳している文章のひとつひとつが、自分への問いかけになっているからだ。
忘れていた事、考えたくない事などを思い出させてくれて、いろんな方面から、心の深いところにメスを入れてくる。
自分のすべてがさらけ出されていく。そういう本なのだから、当然なのだが・・・その文にとらわれて、自己分析、自己内省にふけって、翻訳を忘れてしまうこともよくある。

単調な生活と翻訳は自己との対話、自己解剖の場になっている。
けっこうきつい時もあるが、必要でもあり、自分にとってもおもしろい。








2016年 3月

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