KRISHNA: The Man and His Philosophy
 質問者 先ほどの私たちの質問の一部、クリシュナのヴイジョンを見ているシュリ・オーロビンドについては解答がなされていないままです。あなたはかつてアーメダバードで、そのようなヴイジョンは、大部分は心象的(メンタル)な投映より以上の何でもない、と言われました。オーロビンドの場合も心象的(メンタル)な投映なのですか? それとも本当に神秘的な体験なのですか?

もう一つの質問がある: もしアルジュナが、存在の手中の単なる道具にすぎないのなら、彼の個であること(インディヴィジュアリティ)についてはどうなのですか?


クリシュナのヴイジョン、あるいは仏陀、マハヴィーラ、キリストのヴイジョンは、二つの違った方法で見られる。ひとつは私たちが心象的(メンタル)な投映と呼ぶものだ。あなたが見るものは、あなたの夢、欲望、想像が目の前で形を現しているもの、目に見える姿を現しているもの以外の何ものでもない。あなたの前に本物は何もない。それは全て想像だ。マインドには本当にその能力がある。それはあなたの夢と欲望の想像を投映することができる。そしてあなたはそれを本物と思うことができる。眠りの中で夢を見るのと同じくらい、あなたは目覚めている状態で夢を見ることができる。これがヒンドゥー教徒がクリシュナやラーマのヴイジョンを見る、キリスト教徒がキリストやマリアのヴイジョンを見る方法だ。それはただ心象的(メンタル)で、想像上のもので、幻覚的なものにすぎない。もう一つの方法は本物だ。だがそれはあなたをクリシュナ、あるいは彼のイメージと体面することにはならない。それはクリシュナ意識と呼んでよいものにあなたを遭遇させ、それを体験させる。このような体験の中には、クリシュナやキリストのようなイメージはどんなものもない。そこにはただ、高められた覚醒の状態だけ、高次の接触だけがある。

 私が昨日言ったように、そこにはクリシュナの二つの形がある。ひとつは彼の大洋の形で、もうひとつは彼の波の形だ。彼の大洋の形が宇宙意識、または超意識を意味するのに比べて、彼の波の形はおよそ5,000年前に生じたクリシュナという人間を意味する。

 さて、彼の波の形---クリシュナという人間---のイメージ、肖像は、彼の大洋の形と、クリシュナ意識に接触するのに使うことができる。しかしあなたが本当にクリシュナ意識に接触する時は、このクリシュナのイメージ、象徴は消えるだろう、そしてただ超意識だけがあなたとともに残るだろう。クリシュナの意識と繋がっているために彼の像を使うことができる、ということは真実でありながらも、もし誰かがクリシュナのヴィジョンだけを見て、彼の意識を体験しないのなら、それは単に心象(メンタル)の投影というケースで、それ以外の何ものでもない。

 クリシュナ意識の体験はヴィジョンとイメージの方法によって起こるものではない。それはどんな姿や形もない純粋な意識だ。私たちがクリシュナの名前をそれと連想するのは、人がクリシュナを愛するからであり、そして彼のイメージの助けを借りてこの意識に至るからだ。他のひとは仏陀のイメージの助けを借りてそれに至ることができる。そして彼はそれを仏陀意識と呼ぶことができる。もし誰かがキリストのイメージを通してそれに達するなら、それは彼がキリスト意識と呼ぶものでありえる。名前が問題ではない。真のものは、名前や形のない、大洋のような意識だ。

 オーロビンドのクリシュナの体験、そのヴイジョンはクリシュナのイメージ、彼の身体的な形と関係している。彼はクリシュナが身体的な形として彼の前に現れたと言っている。これはただ単なる心象的(メンタル)投映のケースだ。もちろんそのような体験は快適で心地よいものだ。しかしそれにもかかわらずそれは私たちのマインドの投影だ。それは欲望の拡張だ。それはまさに夢の演出だ。それは私たちのマインドの創造だ。

 私たちはマインドで始められるが、マインドを超えなければならない。旅はマインドとともに始まり、そしてノーマインドとともに、マインドの休止とともに終わる。マインドが言葉、形そしてイメージの世界であると知るのは重要だ。言葉、形そしてイメージがマインドを構成している。そして形とイメージが消えるところでは、マインドは自ずから消える。マインドにとって、言葉、形そしてイメージなしで存在する方法はない。マインドは空虚な、空の中では存在できない。それは断固としたものの上で、具体的なものの上で生きる。具体的な世界が終わりに来る瞬間、マインド自体が終わりに来る。クリシュナ意識は、ただマインドが在ることを止める時にだけ達せられる。それがノーマインドの状態だ。

 クリシュナと身体的に遭遇した、と言う人はどんな人であれ、心象的(メンタル)な投映の犠牲者だ。その人は自分自身の心象的(メンタル)な映像(イメージ)を、宇宙意識の巨大なスクリーンに投映して、客観的実在を眺めている。それはまるで映写機が、全て空っぽのスクリーンに動きの速い画像を映写しているようなものだ。スクリーン上には影以外本当に何もない。そのようなヴイジョンは精神霊的(スピリチュアル)な体験ではない。それらは完全に心理的(サイキック)なものだ。彼らは、それでも、非常に満足している。クリシュナの熱愛者は、彼が生涯見たいと望んでいたもののヴイジョンを見て、大喜びするにちがいない。だが覚えておきなさい。それはただある種の幸せにすぎないもので、至福ではない。あなたはそれを真理の体験と呼ぶこともできない。

 私はオーロビンドの体験が本物ではないと言うつもりはないが、彼は学者の、知識人のやり方でそれを言い表している。そしてこれはその体験を心象的(メンタル)な投映のひとつであるように見せる。投映されたもの、あるいは想像されたものから、大洋のような意識の体験を、本当の体験を識別することは難しくない。大洋のような体験は永久に続くものだ。一度それが来るなら、それは永遠に来る。そしてそれはあなたのマインドから他の全ての体験を一掃する。それはマインドそれ自体を本当に一掃する。そのような体験で祝福された人は、あらゆるところに神性さを見る。--- 木や岩に、流れや川に、山や星に。だが投映されたヴイジョンに関する限り、それらは現われ、そして消える。それらは決して最後ではない。それらは一時的で、瞬間的だ。知識人であるため、オーロビンドはそれを正しく描写することができない。知的な人にとってそのような仕事は困難になる。

 しかしオーロビンドには別に詩的な一面がある。彼はただの知識人だけでなく、偉大な詩人でもあった。詩人としては、彼はラビンドラナート・タゴールよりも劣ってはいなかった。もし彼にノーベル賞が授与されなかったとしても、それは彼がそれに値しなかったからではなく、彼の詩が理解するにはあまりに複雑で難しかったからだ。彼のサヴィトリ---(訳註:オーロビンドが1950年にインド・ボンディシェリーで死ぬ直前に書き上げた2万4000行の叙事詩)---は世界の偉大な叙事詩の中に位置づけられる。サヴィトリほどの身の丈の偉大な叙事詩はほとんど10もない。そして学者とは異なり、詩人としてのオーロビンドはクリシュナのヴィジョンを見る能力が本当にある。オーロビンドはこの体験の論理と理由に関して、どれがもちろん当然であるかを厳格に表現した。そして彼の体験の説明には超越した意識の味がない。

 私たちはふたつの方法で言葉を使う。ひとつの方法では、言葉はその知られている意味の限られた範囲の中で保たれる。それは、その意味によって伝達されるものだけを伝達する。それは、それ自身の限界を超えて行くことはできない。もうひとつの方法では、言葉はそれに与えられた意味よりも多く伝える(コミュニケイト)ことに使われる。言葉それ自体は小さいかもしれないが、その意味は膨大だ。その意味は言葉それ自体よりも大きい。オーロビンドのやり方は全く違っている。彼が大げさな言葉を使う限り、それを通してはどんな重要な意味も伝える(コミュニケイト)ことはできない。彼はその長い言葉と長々しい文章で知られている。だから彼はいつも哲学者として終わる。

 言葉が本当に、それに与えられた意味を離れ、それを超える時、それは神秘の世界に入る。それは超越的体験のための乗り物になる。そのような言葉は途方もない意味をはらんでいる。それは月を指す指のようなものだ。オーロビンドの言葉にはその含蓄がない。それは超えたものに向けられた矢を持っていない。彼の言葉はそれに与えられた意味を決して超えていない。そしてそこには理由がある。

 私が今朝言ったように、オーロビンドは、科学でダーウィンがいた時期に、ヘーゲルが哲学で最も優勢な影響力があった時期に西洋で教育を受けた。そしてヘーゲルもまた、彼の論文で、大言壮語と複雑な句(フレーズ)で満ちた大げさな言語で知られている。ヘーゲルのワークを通り抜けることは、その始まりから、それらに関して深い感覚を持つことになる。私たちは、理解できないものは非常に奥深いものでなければならない、と考えがちだ。だがそんな必要はない。たとえそれが真実であっても、奥深いものは理解するのは困難だ。とても多くの人々が曖昧な言葉を使い、そして彼らの傾聴者と読者に深遠な印象を与えるための句(フレーズ)を苦心して作り上げている。

 ヘーゲルはその実例だ。彼の言語は非常に複雑で、回りくどくて、大げさだ。それは括弧()で囲んだ長々しい、説明的な声明でいっぱいだ。しかし学問がヨーロッパで円熟を増したので、ヘーゲルの評判はいくぶん下落した。そして人々は、彼が知ったかぶりをしていたものよりも少ししか知らなかったのを知るためにやって来た。オーロビンドの表現法はヘーゲル的だ。そしてヘーゲルのように彼もまた系統立てる人だ。彼もまた言うべきことを多く持たない。だから彼はそれをとても多くの言葉で、そのうえ長くて複雑な文章で言わなければならない。

 表現は論理的かつ合理的な蓄積を持たなければならない。だがその言葉が、その意味を超えていることを言うなら、その人は言葉を超えたところにあるものを知っていた、という意味だ。だが彼が、それらが意味するものより以上のことは何も言わない自分の言葉で疲れ切ってしまうなら、彼がただの物知りにすぎないことは明らかだ。オーロビンドの言葉を全て通って行くと、それはくどい、という感覚が後に残る。それに関して経験上のものは何もない。もし、超えた何かを知っている人が沈黙を保つなら、彼の沈黙でさえ雄弁であるだろう。だがそのような体験がないときは、何百万という言葉でさえ無駄だということを証明するだろう。何かを言う時、あなたはそれを論理的に言わなければならない。だがもしもあなたの「何か」が経験されているなら、それはあなたの全ての言葉と比喩の中にその風味を、その香りを残すだろう。それだけではない。あなたの言葉は、本当に言いたくても言えなかったことをも言うだろう。オーロビンドに関する限り、彼は言っている価値より以上のことを言ってきたように見える。

 これに関連して、私はラビンドラナートの生から意味深い出来事を思い出す。物事をより良く理解するようにあなたを助ける事を。偉大な詩人が臨終の床にいた。そして親密な友人が別れの言葉を言いに来た。その友人は言った。「君は自分が歌いたいもの全てを歌った。君は自分が言いたいことの全てを言った。それだけではない。君は自分がやりたいこと全てをやった。私は今、君が完全な平和と満足で、神への全くの感謝を感じて、この世界を去ることができると信じている。」

 ラビンドラナートは目を開いて、そして言った。「君は全て間違ってそれを受け取った。ちょうど今、私は神に言っていたところだ。『私が全ての楽器を組み立てて、歌う用意のある時に、世界を去るように求められているとは何と言う皮肉でしょうか。』 私にはまだ歌うための自分の歌がある。人々が私の歌であると思っているものは、私が始めようとしていた本当の歌の、ただの下読みにすぎないものだ。だが残念だ! 私は自分が言いたかったことを、まだ言わなければならない。」

 オーロビンドが同じことを言うことはできない。彼は自分が言いたかったことを全て言ってきた。そしてそれらを非常に整然と言った。そして私は、神秘家としてはラビンドラナートがオーロビンドよりはるかに優れている、と言おう。

 あなたは、アルジュナが存在の手中の単なる道具にすぎないのなら、彼の個であること(インディヴィジュアリティ)に何が起こるのか、ということも知りたいと思っている。もしあらゆるものが、それが起こらなければならないように正確に起こるなら、もしあらゆるものが予定されているなら、個としての人の意味と責任とは何だろう? 彼は機械の中のただの歯車の歯なのか?

 それは意義深い質問だ。だから私がここで言おうとしていることを、注意深く聞くようにしなさい。もしこのことを正しく理解するなら、あなたは生の或る基本的な真理に達するだろう。

 確かに人の個であること(インディヴィジュアリティ)は、もし彼が別の者にゆだねられた道具であると強要されるなら、それは壊されるだろう。だがもしも誰かが自発的に道具になるなら、ちょうど反対のことが起こるだろう。彼の個であること(インディヴィジュアリティ)はその究極の開花を達成するだろう。これらの二つの状態には大きな違いがある。もしも誰かが強制的にあなたを手段に変えて、あなたをそのように利用するなら、あなたは必ず自分の魂を失う。だが、あなたが自ら進んで明け渡し、そして存在にゆだねられた道具になるなら、あなたの魂は満たされるだろう。どうかこの違いを理解しなさい。それはとても微妙で重大だ。例えば、あなたが来て、私を負して、私の手足を拘束するなら、私はあなたの奴隷になる。だが私が、自発的に、私はあなたの奴隷であると進んで申し出るなら、何が起こるだろう? その時私は奴隷状態の主人に、それを作る者になる。

 私はギリシャの賢人、ディオゲネスの人生から物語を話したい。私は何度もこの物語を話すのを愛する。それは本当に美しい。

 ディオゲネスは森を通り過ぎていた。彼は裸で、まるでライオンが歩くように恐れずに歩いていた。奴隷売買をしていた何人かの人々がディオゲネスに出会った。彼らは彼の力強い体格に心を引かれた。それは本当に見事だった。マハヴィーラの体格と同じくらい見事だった。マハヴィーラとディオゲネスの両方が衣服を脱ぎ捨てて裸で生きた、というのは驚くべきことではない。彼らは、ひとりきりで裸になる余裕があるほどの美しい身体を持っていた。たとえ奴隷商人が8人いても、彼らは、とても力強そうなディオゲネスを非常に恐れた。彼を圧倒して捕えるのは、彼らにとっては困難だっただろう。

 実際、他人を圧倒したい人は本質的に弱く、恐怖に襲われた人だ。ただ恐れに満ちた人だけが、ただ彼自身の恐れを和らげるために他人を怖がらせて支配したいのだ。本当に恐れの無い人は決して他人を支配しようとはしない。彼は自分自身を愛するのと同じくらいにあらゆる人の自由を愛する。恐れに満ちた人は、もし彼が他人を支配しないなら、他人が彼を支配するだろうと常に恐れている。これが全ての戦争の心理だ。だからマキャヴェリは彼の本「君主論」の中で言ったのだ。攻勢に出ることが最大の防御だ、と。

 そこで商人たちはディオゲネスを恐れたが、彼らの貪欲は同様に強かった。ディオゲネスのような奴隷は奴隷市場で、ものすごい価格で売れただろう。彼らの間で多くの議論がされた後、彼らはひとつの企てをしようと決めた。うまく戦うことに備えるため、彼らは四方八方から彼を囲んだ。だがディオゲネスは変わったやり方で彼らを当惑させた。もし彼が商人たちに抵抗していたなら、彼らは驚かなかっただろう。彼らはそのために十分な備えをしてした。だがその代わりに、彼らはディオゲネスが、彼の顔に恐れや動揺の色を見せずに、その場所で静かに、そして穏やかに立っていたのに気づいた。彼は手を組んで、くすくす笑い、そして言った、「何が欲しいのだね? あんたたちのお目当ては何なのだ?」

 商人たちは当惑して、彼を捕えて奴隷にしたかった、とためらいながら彼に話した。ディオゲネスは笑い、そして言った、「なぜそんなつまらないことで大騒ぎをするのだ? あんたたちは馬鹿者だ。ちょっと俺に尋ねるべきだ、そうしたら俺はそれに同意しただろう。俺は、あんたたちが全て役に立たない念入りな計画を検討し、準備しているのを心配して見守っていたのだ。手錠はどこにある? あんたたちのバッグからそれを取り出したらいい。さあ、俺の手はここにあるぞ。」こう言って、彼は自分の両手を彼らに差し出した。彼を捕えようとした者は驚き、その混乱はよりひどくなった。彼らはこれまでそのような、彼らにかけ声を上げる男を見たことがなかった。「手錠はどこだ? あんたたちのバッグからそれを取り出せ!」と。そして彼は、まるで彼が主人で、彼らが彼の奴隷であるかのように話したのだ。

 大へんなためらいと恐れで、彼らは一対の手錠を取り出し、それをディオゲネスの両手に付け、そして言った、「わけがわからん。お前が自身を我々の手に入れさせた方法は信じられない。お前は我々を困惑させる。」

 ディオゲネスが彼らに言ったことは意義深い。彼は言った、「俺は自分から奴隷になるという自由の神秘を学んだ。今や、誰も俺から俺の自由を奪うことはできない。あんたたちに俺を奴隷にする方法はない。」

 それから彼らは彼を鎖で繋ぎ、その鎖の端を手に持って、奴隷市場へ彼を引っ張って行った。ディオゲネスはその時言った、「なぜ重い鎖を不必要にあんたの手で運ぶのだ? 俺が自分から従ってあんたについて行っているのがわからないのか? 鎖を離しな。そうすれば俺たちは楽に歩ける。で、我々が市場に到着する前に、あんたは逃げないように気をつけるが、安心しな。俺は逃げないよ。」 商人たちはすぐに鎖を外した、なぜなら彼らは、彼がどういう類の男かを心底知ったからだ。彼は自発的に自分自身を彼らに明け渡していた。彼らの求めなしで、手錠をかけるために自らの手を与えた人に、足かせをする用はない。

 ディオゲネスは、まるで王が彼の従者たちと行進しているかのように、彼らの前方を歩いた。彼を捕えた者たちが彼の捕虜のようである間、彼の顔に恐れの色はなかった。彼がどこに行っても、全ての目が彼に向けられるほど、彼はカリスマ的に見えた。彼を捕えた者を指差して、ディオゲネスは見物人たちに告げた。「何を見ているのだ? 彼らはみんな俺の奴隷だ。そしてたとえ彼らがまだ鎖に繋がれていなくても、彼らは俺から逃げられない。彼らは俺に対してはそういう存在だ。」商人たちは本当にがっくりしていた。

 ついに、彼らは奴隷が売買されている市場に到着した。一団のリーダーは市場の管理者に近づいて言った。「我々にはここで売りに出したい変な男がいる。そこで、出来るだけ早く売ってくれ。でなければ、我々みんなが面倒なことになる。彼はこんなことをみんなに言っているんだ。『俺が主人でお前たちみんなは俺の奴隷だ。なぜなら、お前たちは俺から逃げられないほど俺に束縛されているからだ』。 そしてそれは本当だ。我々は彼のもとを去ることはできない。なぜなら彼は、我々のために自分を信じられない値で売ろうとしているからだ。」

 ディオゲネスは、すぐに競売にかけられる奴隷のための席に上がって、王の威厳をもってそこに立っていた。管理者が叫んだ。「こいつは売りに出されたすばらしい奴隷だ。十分な金を持っている者なら誰であれ、こいつに値をつけるべきだ。」

 ディオゲネスは初めにその管理者に叫んだ。「黙れ、もしもあんたが主人を売る方法を知らないのなら。」 それから彼は入札者たちに言った。「俺は売りに出された主人だ。主人を持つ余裕がある者は誰でも、俺に値をつけなければならない。」

 もしあなたが、道具であろうとするあなたの意志に反して強制されるなら、もしそれがあなた自身の選択でないなら、あなたは確かに奴隷であり、そしてあなたの個であること(インディヴィジュアリティ)は殺される。だがクリシュナはアルジュナに、そのような奴隷のような道具であれ、と求めたのではない。クリシュナはただアルジュナに、真実(リアリティ)を理解することを、そして存在の流れとともに流れることを望んだのだ。生の川と戦うことと、流れをさかのぼって泳ごうとすることは馬鹿げている。彼はアルジュナに言った。「あなた自身を生の、存在の手中に託しなさい。するとあなたは満たされるだろう。」もしある人が自分自身を存在に、真理に、全体に明け渡すなら、そして十分な理解と喜びをもって明け渡すなら、彼の個であること(インディヴィジュアリティ)は、不具者になる代わりに、十分な開花と実現に達する。その時彼は自分自身の主人だ。そして明け渡しの道より他に、その人の主人を宣言するより良い方法はない。

 このことを非常に明瞭に理解しようとしてごらん。明け渡しの道より他に、彼自身に関してその人の主人を宣言するより良い方法はない。もし私がその意味で明け渡すなら私は自分の主人だ。奴隷は明け渡さない。彼はただ制圧されて捕えられるだけだ。明け渡すことによって、アルジュナは機械の歯車の歯になるのではない。彼は本当に魂をもった人間になる。彼は神を敬うようになる。初めて、彼の個であること(インディヴィジュアリティ)は十分な開花に達する。そしてそれは努力なしで自然に起こる。



 質問者 私たちはあなたが、オーロビンドが見るクリシュナのヴイジョンを心象的(メンタル)な投映の事例だと考える話に戻りたいです。これに関連して、あなたがかつてチベットのラマ僧について言ったことを私たちは思い出します。それは、ある優秀なラマ僧たちが一同に集まって、仏陀との接触を図る各年の特定の日についてです。別の機会に、あなたはガンジーについてあることを言いました。そしてさらに問題となるものについて、あなたにはガンジー自身からの例の事実があると言いました。そして最近まで、アストラル体でひとつの場所から別の場所へと旅をして、そこで再び肉体として現われるラマ僧がチベットにいた、と私たちは聞きました。この問題にもう少し光を投じていただけますか?


この文脈において、2,3のことが最初に理解されなければならない。

 特別な満月の夜に、仏陀の満月の夜として知られているものが、ヒマラヤの頂上のひとつに---たった今私たちが集まれる同じヒマラヤで---500人のラマ僧が集まり、そして仏陀のヴイジョンを見る、というのは本当だ。そこに集まるラマ僧の数は決して500人を越えることはない。それは永久に定められている。別のラマ僧がその場所に入るのを許可されるのは、ただ彼らの内の一人の死に際してだけだ。だがこれとオーロビンドが見るクリシュナのヴイジョンとの間には基本的な違いがある。彼のクリシュナのヴイジョンの場合においては、率先してクリシュナを見ようと努力するのはオーロビンドだ。ラマ僧は何もしてはいけない。仏陀自身が、彼の生涯で弟子たちに与えた約束に従って、彼らの前に現れる。ラマ僧は指定された時間に、ただそこに臨席しなければならない。そしてこのふたつの出来事の違いは、はっきりと理解されなければならない。

 仏陀は、各年の仏陀の満月の夜の特定の時間に、そしてヒマラヤの特定の場所で、彼は選ばれた弟子たちのために現われるだろう、という約束を彼の後に残した。この約束された瞬間に、仏陀の大洋のような身体は波の身体の形を取り、集まった500人のラマ僧たちによって見られる。しかしラマ僧は、彼ら自身が告げられた機会に臨席すること以外、そこに役目はない。これが、この遭遇、このダルシャンと、オーロビンドが見たものとの違いだ。

 二番目に、オーロビンドがクリシュナの出現の時に独りでいる間、合計で500人のラマ僧たちが仏陀の出現の目撃者としている。心象的(メンタル)な投映の出来事はいつも個人的なものだ。あなたは他の人を自分に起こっていることに参加させることはできない。もしあなたがオーロビンドに、あるいは他のそのようなヴィジョンを見る人に対して、その問題について彼の体験を分かち合って欲しいと言うなら、彼はただ、だめだ、それは無理だ、と言うだろう。だが500人の人々が一緒に仏陀のヴィジョンを見る時、それは心理的(サイキック)な投映の場合ではありえない。それだけではない。全ての臨席する人々は意見を交換し、そのそれぞれの報告が他のものと一致する時だけ真実のものとして受け入れる。オーロビンドに関する限り、彼が彼自身の目撃者だ。そしてそれからオーロビンドが長い努力の末にそこに至るのに比べて、ラマ僧たちはどんな努力もしていない。それはただ、別の時に別の人によってなされた約束の実現だ。



 質問者: それは集団的な自己暗示の場合でありえますか?


いや、それはありえない。そしてそれには理由がある。
 誰も彼もがこの500人のラマ僧たちの会議に入ることができるというわけではない。このグループへの人の加入を決定する非常に厳格な基準がある。唯一、彼らの無意識のマインドを知ることに十分成功した人々だけが、それに入ることを許される。なぜなら彼らが自分の無意識の主人でない限り、彼らは個人的、あるいは集団的催眠の影響を受けるからだ。催眠は人の無意識のマインドに働きかける。従って人が彼の無意識に十分気づくようになる時、もはや彼に催眠をかけることはできない。彼の無意識の全てのがらくたを燃やして、そして彼の精神全体を照らさせた人を催眠にかける方法はない。今や、彼らが結局はヴィジョンとイメージを映すようになるような、暗示が植えつけられ得るようなところは彼のマインドの中にはない。だからラマ僧たちは、あらゆる新しいメンバーの加入に関しては、非常に厳格な規則を持っているのだ。唯一、座に着いているメンバーの死に際してのみ、彼の場所を補うために新しい人が選ばれる。そして彼が選ばれる方法は非常に変わっている。

 ラマ僧の世界のために人の選択を決定する奇妙で非常に困難な規則がある。ただ彼の現在の生だけが審査されるのではなく、彼の過去生さえも調べられる。この場所に値するために、彼は持続した精神霊的(スピリチュアル)な修行の長い記録を持たなければならない。例えば、現在のダライ・ラマは先代のダライ・ラマの魂を彼の中に宿していて、彼は後継のために選ばれた者だ。ラマ僧が死ぬ時、彼は、自分は特定の、独特な印をもって次の生を迎えるだろう、そして、これらの印に一致する子供を自分の後継者として選ぶべきだ、と言う暗号化したメッセージを自分の後に残す。それは骨の折れる複雑なプロセスだ。もし特有の印をもった子供がどこかの家族に生まれるなら、太鼓を打つことで国中に知らされる。関係する家族は、彼の誕生に関係するラマ寺院に知らせなければならない。

 同様にダライ・ラマが死ぬ時は、彼の後継を見つけるために特定の手がかりを彼は残す。これらの手がかりは秘密によく守られ、彼の死後に生まれる数多くの子供たちが、誰が前ダライ・ラマの化身であるかを見つけ出すために面接される。そして全ての質問と印に答えた子供が、ダライ・ラマの後継として選ばれる。

 彼らが500人のメンバーの集まりの、欠員を埋めるためのラマ僧を選ぶ前に彼らは、そのラマ僧が自分の無意識を知っていること、そして彼はもはや催眠にかからないことを確かめるための多くのテストを彼に課す。だから集団催眠という問題は生じない。そして覚えておきなさい。これらの500人のラマ僧たちが仏陀のヴイジョンを見るために一同に集まる時、彼らは全くの沈黙の中に立つ。あたりではひとつの言葉さえささやかれない。それはオーロビンドの体験とはまるで違った出来事だ。

 三番目に、身体からは去ったが、大洋のような存在には達していない魂との接触を立証することは全く可能だ。もしある人が光明を得ずに死ぬなら、彼は自分の微細な身体の中でいつまでも生きるだろう。彼は自分の大洋の形とひとつではない。そして、特定の技術の助けを借りて、彼らの微細な身体の中で生きているような魂と接触することは可能だ。それに関して難しいことはない。

 クリシュナの魂は彼の微細な身体で手に入れることはできない。彼はその7つの身体を全て超越してきて、宇宙的存在とひとつになった。そのため、彼らの古い世界をぶらつく普通の魂と接触する方法で、あなたは彼と接触することはできない。例えば、ガンジーは微細な身体を持つ魂だ。それで彼とは簡単に接触できる。彼らとの接触を立証するための方式と技術がある。何度もそのような魂は、彼らの友人や親族と接触するために自分たちだけで努力をする。しかし彼らは私たちを怖がらせる。なぜなら私たちは、私たちにとって親愛なこれらの魂とさえ接触したくはないからだ。彼らは今、私たちの知らない異質な世界に属している。たとえその生涯であなたのハートを最も愛した人の霊があなたの扉に現われても、あなたは怖がって叫び声を上げ、そして彼から逃げるだろう。あなたは助けを求めて叫ぶだろう。なぜならあなたはただ彼の肉体だけをよく知っていたからだ。彼のアストラル体はあなたにとって異質だ。

 だから肉体が無くて新しい身体に飢えている魂との接触を立証することは簡単だ。それは、粗い身体以外の全てがあるような魂との接触を望んでいる人の、心象的(メンタル)な投映という問題ではない。もしあなたが望めば、そのような霊と接触できるものとして、非常に単純な意志が利用できる。例えば、私たちの多くはクリシュナと彼の哲学を討論するためにここに座っている。あなたは、私たちの目に見えるのと同じ数の人々だけがここにいる、と思っているのだろうか? 違う、そこには、ここでは目に見えないように出席しているより多くの者たちがいる。そして彼らとは、もしあなたが望めば、たった今接触することができる。あなたに必要なものは、彼らと接触するためのあなたの意志と、その方向への確実な受容性だ。

 あなたは私が提案するように実験することができる。あなた方の3人は部屋の中に入って、内側から部屋を閉め、そして目を閉じて静かに座り、ナマスカール---挨拶---のやり方で手を組む。それからもしこの部屋の中に誰かの霊がいるなら、彼らはあなたが提案するやり方で、---扉を叩くことで表現しなさい、と---できるだけあなたと接触すべきだ、ということを十分に祈る。するとすぐにあなたは、身体を持った者がいないところで扉を叩く音を聞くだろう。あなたは、あなたの前のテーブルの上に置いてある文鎮を通してあなたの質問に答えるために、部屋の中に存在している目に見えない魂に提案することができる。するとあなたは3日から4日以内に、文鎮という媒体を通して、霊があなたの質問に答え始めるのがわかるだろう。

 それからあなたはさらに実験を続けることができる。それはそんなに難しくはない。あらゆるところで、そしていつもあなたにまつわりついている、たくさんの身体の無い存在がいる。彼らはあなたとコミュニケイトする意志があるが、彼らにはそうするための方法がない。なぜなら私たちはコミュニケーションのただひとつの方法だけに気づいていて、それは私たちの肉体を通したものだからだ。そして私たちと無身体の魂との間にはどんな橋も存在しない。だがそこには、神秘主義(オカルティズム)の一部を形成する、彼らとの接触に至るための、単純な方策(デヴァイス)がある。

 あなたは、もし人の魂が彼の肉体から去ることができるなら、アストラル界を旅して、それからまた彼の身体に戻ることもできるのでは、ということも知りたがっている。あなたが自分の身体を去って、そこから出て、アストラル界を旅して、それからあなたの好きなように、自分の身体に戻ることは確かに可能だ。肉体は単なる住み家であり、もしそれをするための正しいテクニックを知っているなら、あなたはそこから出てくることができる。それに関する特別な訓練、全ての科学が存在する。時たまそれは、あなた側からのどんな努力もなしに、偶発的に起こる。深い瞑想の瞬間、あなたは自分が肉体から出ていて、離れたところからそれを見守っているのに気づくだろう。そこに神秘学の全てがある。そして私たちはいくらか異なった時間で別々にその中へ入って行ける。


 
 質問者 神秘主義は別として、魂とそれの生まれ変わりについて知的に知る方法はありますか? 言い換えれば、魂の存在と生まれ変わりの事実は、実践的な訓練の助けなしに、哲学的に証明され得ますか? どうして無身体の魂はその前世の全てを知るのでしょうか? 気づきをもってその身体を去り、その過去生を思い出すのは、その魂だけなのでしょうか?


通常は人が死ぬ時、死ぬのはただ彼の肉体だけだ。彼と彼のマインドは身体と一緒には死なない。通常、死につつある人のマインドは彼とともに行く。そして死後の少しの間、彼は自分の前世の全ての記憶を保持する。それは私たちの夢で起こるようなものだ。眠りから目覚めた後、あなたは自分の夢を少しの間覚えている。ゆっくりと夢の記憶は薄れ始め、そして正午にはそれは完全に消えうせる。そして夕方にはそれらについて一言すら言うことはできない。

 たとえあなたが眠りの中で、あなたの無意識状態で夢を見ても、それでも覚醒時には、あなたは夢の、特に最後の夢の後半の少しの断片をはっきりと思い起こすことができる。それが起こるのは、眠りの後半の部分では、あなたは目覚め始め、かつ半分だけ眠っているからだ。あなたは、半分の眠りと半分の目覚めの状態に訪れた夢を完全に、あるいは部分的に覚えていられる。だがこの記憶でさえ長く続かない。時間が過ぎればそれは消える。
同じように人の無身体の魂は、その前世を、その友人たちや親族たちを、彼の死後少しの間覚えている。そしてこの記憶はどちらかといえば苦しいものだ。なぜなら彼はもはや彼らと関われないからだ。

 私たちが少しのことをするのは、この理由のためだ。それは、私たちの近くにいる誰かが死を迎えた後まもなく、彼が自分の過去の親密な関係と愛着の記憶から解放されるようにすることだ。今、それらを運ぶことは良くない、なぜならそれらは非常に苦しいものだからだ。ヒンドゥー教徒たちは、彼らの死後すぐに、彼らが関わってきた死体を火葬にする。もしそれが回避されるならば、彼らは手間取らせないようにする。そしてそれは意義深い。火葬は彼らの身体の死への自己同化と愛着の全てを破壊する。なぜなら彼らは自分の死体という媒体を通して、自分の過去を覚えているからだ。死体は、解放された魂と彼の過去生の間の橋として貢献する。だから火葬は亡霊のためのものだ。

 突然、あるいは事故で誰かが死ぬ時、彼は自分が死んだことがわからない。しばらく彼は呆然と感じて、自分が自分の身体から離れているのを見て当惑する。たぶん、何かがどこか間違ってしまったのだ、と。それが起こるのは、身体の内側では、魂が身体から去ったこと以外は本当に何も死んでいないからだ。魂たちの少数ではなく大多数が、彼の死後まもなく全く混乱と混同を感じる。なぜ自分の家族みんなが涙を流して泣いているのか、なぜあたり一面にとても多くの悲嘆があるのか、誰も理解できない。なぜなら彼は、自分の身体が自分から少し離れていること以外は、以前と同じくらい活き活きと感じているからだ。それは彼に永続性の感覚を与える身体だ。なぜならそれは彼の過去の思い出の全ての媒体だからだ。ただ瞑想的な人々だけ、深い瞑想を体験した人々だけが引き寄せられ、そして当惑させられずにすませられる。なぜなら彼らは自分が自分の身体から離れているのを知っているからだ。

 火葬の、あるいは死体の埋葬の後まもなく、魂はその過去の記憶と思い出からしだいに自由になる。それはまるで私たちが自分の夢をしだいに忘れるようなものだ。それは、自分たちの死に対して異なった葬式を持っている、異なった種類の魂によって数えられる時間の計算に基づく。何人かの人々は、特に子供たちは、彼らの過去の思い出を忘れるのに、ただ3日だけかかる。他のほとんどの人々は13日かかる。だから東洋のある地域は13日も長く葬式を行う。そこには少数の魂が---非常に強力な記憶を持つ魂がいる。この目的のために1年間を要する魂が・・・。彼らが理由で、私たちの葬式のいくつかは、まる一年にわたる。3日間から13日間は一般的な規則だ。そして非常に少数の魂は、まる一年も身体なしで生き残る。彼らのほとんどは短期間の内に新しい身体に生まれ変わる。

 覚醒をもって死ぬ人、自分が死ぬ時に十分に意識したまま、そして気づいたままで死ぬ人は、本当は死なない。彼は自分が不死であるのを知る。彼は死にかけてはいない。彼は、まるで私たちが古い服を脱ぎ捨てるように、自分の古い身体をあとに残す。そしてそのような深い覚醒の状態に達する人は稀だ。彼は全ての愛着と心理的な思い出から自由だ。彼には友人も敵もいない。彼は全ての熱望と欲望から自由だ。彼はほかに類がない。覚醒して死ぬと、彼は覚醒して生まれる。彼の過去による負担がない。

 ちょうど人が死後しばらくの間、自分の過去を覚えているように、彼は自分の新しい誕生の後もまたそのようにある。新しく生まれた子供は、霊としての彼の前世の記憶をしばらくの間持っている。だがやがてこの記憶は消えて行き、そして彼が話すのを学ぶ頃には、それは完全に失われる。子供が彼の過去生を、彼がものを言うことが出来て、そして他人とコミュニケイトできる後でさえ覚えているのは稀なことだ。彼は奇形児と呼ばれる。彼は、その過去生では、珍しい記憶の男として存在していたに違いない。

 この文脈であなたは、もしも神秘的な体験の方法でその中へ入って行くことを別にするなら、輪廻に対してどんな哲学的な立証があるのか、ということも知りたいと思っている。それは、輪廻を立証する哲学的証拠は打ち立てることができる、という論理をただ通るだけのことにすぎない。だが論理は固有の弱さに苦しむ。賛成と反対の提案は両方とも人を動かすものとして使うことができる。もし人が論理を公正に記述することを望むなら、そしてそれをよく知っている人がそう言ったのなら、論理とは、料金を払う人なら誰とでも相手をする弁護士や売春婦のようなものだ。

 輪廻が事実であることを論理的かつ哲学的に証明してきた人々はいる。そして論理と哲学の助け、あるいは同じ武器をもってこの理論を反証し、打ち砕いた人々もまたいる。論理は詭弁の一種だ。それは彼に報償を支払うならどんな人の場合でも支持する弁護士のようなものだ。彼は彼独自の見解を持たないが、彼は自分の依頼人のケースを支持するための全ての推論の力を生み出す。だから論理はどんなものも決して立証できないのだ。たとえそれが文字通りの意味では説得力があるように見えても---なぜなら反対の論点が論理の助けを借りて巧みに作り出され得るからだ。それに関して難しいことはない。論理には表裏がある。それは、命題に賛成したり反対したりする、いろいろな方法で切る刃剣だ。

 この理由のために哲学は、輪廻の理論を証明あるいは反証することは決してできない。たとえ哲学が、それは数千年間も言い続けることができる、と多く言うことができても、それはその尽力においては決して成功しないだろう。それはまるで、完璧であるようには見えるが、子供を生むことができない不妊の女性のようなものだ。論理はそれに対して興味ある別の面を持つ。あなたは、自分が既に真実で正しいと信じているものを確証するために論理を使う。論理はただあなたの推測、あなたがあらかじめ仮説したものを支持するために使う手段にすぎない。

 インドの大学に生まれ変わりに関する研究を指導している有名な教授がいる。最近だけ彼は私に会うために私の友人と一緒に来た。彼の会話のまさに始まりで、彼は自分が生まれ変わりの理論を科学的に証明し続けてきたことを力説した。私は彼に、それは彼のマインドが既に生まれ変わりに賛成して作り上げたように見えること、そして彼はそれを支持するための科学的な証拠を探していた、と言った。だが、人が全ての面からそれを十分に調査する前に、何かを受け入れることは全く非科学的だった。もし誰かが科学的でありたいのなら、彼は輪廻の理論が真実かそうでないかを問合わせたいと言うべきだ。もし彼が生まれ変わりを証明し続けるなら、それは彼が既にそれが事実であり作り話ではないと信じている、という意味だ。

 この人に関する限り、問題は既に彼にとっては事実として証明されていて、彼はそれの支持のために、いくつかの説得力のある論拠をただ生み出さなければならないだけだ。そして論拠は、簡単に集めそして生み出すことができる。それは困難なことではない。もし生まれ変わりの理論を証明したいなら、それに都合のいいいろんな論拠を見つけることができる。この世界は、あなたが支持または覆すことを選択するものは何であれ、それに賛成または反対の、ありとあらゆる論拠と証拠を集められるほど、広大で複雑で逆説的なものだ。

 哲学は決して生まれ変わりを証明または反証することはできない。だからもしあなたが自分の質問にわずかな変更をするなら、科学が、この非常に古くからの議論に若干の光を投じることができるかどうかを、あなたは訊ねなければならない。哲学は失敗した、それも完全に失敗した。それはこの問題を5000年間も論争してきて、何も解答されてこなかった。生まれ変わりを信じている人々がいて、そしてそれを信じない人々が同じ数だけいる。そして一方が他方を、その観点の正当性に関して納得させることはできない。

 既に納得させられている人だけを納得させることができる、というのは皮肉なことだ。納得できないことを納得させることはできない。これが論理の無力さだ、それは見ることができないものだ。生まれ変わりの真理に関しては、ヒンドゥー教徒を簡単に納得させることができる。なぜならそれは彼の信仰体系の一部だからだ。だがあなたは、この理論に関してイスラム教徒を納得させようとするなら、論理がどれほど無力であるかを知るだろう。生まれ変わりはない、とキリスト教徒を納得させるのは簡単にできる。だが、それは作り話である、とヒンドゥー教徒を納得させることはできない。論理は、彼らが真理であると信じているものを証明するためにそれを使う人々にとっては良い働きをする術だ。したがって、生まれ変わりが哲学的に証明され得るかどうかを訊ねることは正しい質問ではない。正しい質問とは---科学的に生まれ変わりの問題にアプローチする方法はあるのか? というものだ。

 科学とは純粋な問合わせだ。それは客観的かつ公平だ。哲学と論理が信仰、命題に賛成か反対の立場を持つのに比べて、科学はそれを持たない。科学的なマインドとは、それが開いていてそして公平であるという意味だ。それは真実を見つけることを望む。それは両方の代替案に、物事の両面に対して開いている。それは閉じられていない。科学は信仰に依存しない。それは真実を、もしくは仮説を調べることを望む。科学は、それ自身の調査結果と結論を再考察する用意ができている唯一の学問だ。科学は、客観的な問合わせと調査が導くどんな可能性に対しても用意ができている。

 科学は、つい最近になって輪廻のような問題に関心を持ち始めた。心霊協会がアメリカとヨーロッパで生まれてからわずか50年だ。そして彼らはこの方面でいくつかの良い仕事をした。科学的な傾向のある少数の知的な人々が、彼ら自身興味を持ったのは心霊研究だ。彼らは神秘家ではなく、死後の世界と再誕生のようなものは体験から知ってはいたが、議論では証明できない事実であると長い間言ってきた者たちだ。神秘家は、もし特定の瞑想的修行を行うなら、誰でもこれらのことを知ることはできると言うが、彼らはあなたに、それが何であるかを知らせることはできない。それはまるで、私は頭痛がしてて、そしてそれが何であるかは知っているが、あなたにそれを知らせることができないようなものだ。あなた自身の頭が痛み始める時にだけ、あなたはそれを知るだろう。私は自分の頭痛の体験をあなたに伝えるための何もできない。

 過去50年の間に、オリバー・ロッジ、ブロード、そしてラインのような男たちが人間のマインドのいくつかの新しい未開拓の領域を探究した。彼らはみんな、彼ら自身のどんな信仰や偏見も持っていない、科学的な信念を持った男たちだ。彼らは死後の世界と輪廻について、いくつかの真実の研究をした。彼らの調査結果は確かなものだ。そしてそれらは輪廻を支持するのに十分なものだ。今や、そこには無身体の魂と交霊するための科学的技術がある。そして彼らは交霊してきた。これらの技術の使用において、偽装と詐欺行為の可能性を取り除くために、あらゆる配慮がなされてきた。過去には、死者とコミュニケイトするための、多くの詐欺的な交霊会のケースがあった。だがもしもひとつの本物の降霊術の事例でさえ成功するなら、それで十分だ。そして無身体の魂と交霊する多くのそのような実験は、魂が彼らの身体を変えるのを、彼らが何度も生まれるのを確認することに成功した。

 彼らの身体を去る前に降霊術に彼らの生を捧げた大勢の人々は、死後彼らと特定の方法で情報を伝えることを彼らの心霊協会に約束した。そして彼らの何人かはその努力に成功した。彼らは協会に、死後の世界の現象に関するいくらかの非常に価値のある情報を伝えた。そしてこの情報は生まれ変わりを支持するのに十分なものだ。

 多くの研究は、テレパシーと透視の分野で実施された。そしてそれらは良い結果を生じた。どんな技術的援助の助けもなしに、私はここから数千マイルも離れた人とコミュニケイトできる。それはアストラルのコミュニケーションという意味で、どんな肉体的手段の助けもなしのコミュニケーションが可能だ。


 質問者 それは魂のレベルではなくて、心象的(メンタル)レベルのコミュニケーションかもしれません。


ちょうど今、それを説明するつもりだった。たとえそれが心象的(メンタル)なコミュニケーションであっても、それは肉体的なものとは確かに違っている。そしてひとたび科学が肉体と違う何かを知るなら、まもなく魂を知るようになるだろう。彼の身体とは違う何かが人間にあるのかどうか、という問題に全ての口論が集まっている。そしてもしも、身体とは違う何かがある、ということになるなら、旅の半分が過ぎたことになる。これが科学の働き方だ。科学をマインドとともに始めさせなさい。するとしだいにそれは超-マインド、魂に至るだろう。科学は、マインドが肉体よりも高次のものであることを決して受け入れない。

 テッドとして知られた、驚きによって科学的な世界を受けとめたマインドの男がいる。そして心霊協会は彼の体験から、単純に並外れたものから多くのことを学んだ。例えば、私は今ここにいる、そしてテッドはニューヨークにいる。彼は私を知らない、私について聞いたこともない、私の写真を見たこともない。だが彼は私のイメージを、ちょっと思考を私に集中することで、自分の目に作り出すことができる。もし誰かが彼に、私に働きかけるように頼むなら、彼は目を閉じて、ほぼ30分間私に瞑想する。そして30分の時間で、彼は自分の目に私のイメージを作り出して、このイメージはカメラで撮影することができる。そしてそれは私の写真であるだろう。たとえ直接ここで撮影されたものよりも少しぼんやりしていても・・・。テッドはそのような写真を数千枚作り、そしてそれらは全て真実であるとわかり、確かめられた。

 それはどういう意味だろう?

 それは、テッドの目にはそのような長い距離から私を見る能力がある、という意味だ。彼らは、ただ私を見ることができるだけでなく、ここで面と向かい合って私を見ている時、あなたの目が見るように正確に私の類似点を捕えることもできる。科学者はテッドにありとあらゆるテストをして、彼は常に本物であることを証明した。

 さて、私たちが宇宙時代に入り、そして宇宙旅行が流行しているため、科学者は大規模にテレパシーに興味を持つようになっている。私たちは既に月に到着した。そして火星へ行こうと試みている。宇宙の遠い地点への侵入は進行中だ。そしてこれらの侵入のいくつかは完了されるに何年もかかるだろう。独りで火星に旅行するには丸一年かかろうとしている。そしてそれは理解できない危険でいっぱいだ。もしも何かの機械的な故障がある場合には、私たちは自分たちの宇宙飛行士に何が起こったのか決してわからないだろう。彼らは、彼らの宇宙の知識とともに、永遠に私たちから失われるだろう。だからロシアとアメリカの両国など、宇宙探査に従事している大部分の先進国は、テレパシーに深く関心を持つようになったのだ。これは通常の経路(チャンネル)が失敗して、彼らが自分たちで処理する場合、宇宙飛行士とのコミュニケーションの代わりの経路(チャンネル)を提供するためのものだ。彼らは機械装置に全く依存することはできない。彼らの失敗のいくつかの事例が既に起こった。彼の機械装置が彼を失望させる場合に備えて、テレパシーに熟練した宇宙飛行士が私たちとコミュニケイトすることができる、と信じられている。私たちは地球上ではそのような失敗をする余裕があるが、それが宇宙旅行の問題だと、私たちの大切な宇宙飛行士と、彼らの重大な仕事を見失わないように、私たちはいくつかの代わりの準備をしていなければならない。だから今、テレパシーはアメリカとロシアの科学研究所で行われている。

 今、ロシアにフィオデヴという名のユニークな男がいる。彼は、モスクワの彼の研究所から何千マイルも離れたところにいる人々に、テレパシーでメッセージを送ることに成功した。もし、誰かがモスクワから何千マイルも離れた街の公園に座っていて、そしてフィオデヴがテレパシーで彼にメッセージを向けるなら、その人はそのままのメッセージを受けるだろう。

 科学は今、単に肉体的なものより以上の何かを探究している。それは、人間はただ彼の身体だけではない、彼は霊的な、精神的(スピリチュアル)なものでもある、と言う神秘家に近づいている。そしてひとたび精神的な何かがあるということで解決するなら、輪廻の真理に至るのに困難はないだろう。だから科学は哲学が失敗したものを成し遂げようとしている。神秘家は、もちろん、それを知っていたが、彼にはそれを説明する方法がない。科学は説明することもできる。

 生まれ変わりへの科学的な問いかけは全く可能だ。



 質問者: 人間に魂のようなものがあるのを見出すために、科学者は瀕死の人間をガラスの棺の中に置くことによって実験を行いました。どうかこの実験について何か言ってください。


これのような多くの実験がされてきたが、それらは何の成果ももたらさなかった。科学者は考える。そして当然彼らは物質的観点から考える。もし、人間に物質以外の何かがあるのなら、彼の生命、あるいは魂が消滅することによって、彼の体重にいくらかの減量があるはずだ。しかし死の時に人の身体から外へ出る要素(エレメント)が重さを持つのは肝要なことなのだろうか? それは無重量であってもいい。あるいはそれは、現在私たちに利用できるどんな器具によっても測定できないほどの、わずかの重さしかなくてもいい。

 例えば、太陽光線には少しの重さがあるが、それを計量する方法はない。もしも1平方マイルの範囲に広がる全ての太陽光線が一緒に集められるなら、それはおよそ10グラムの重さだろう。だがそれを測るのはとても困難だ。同じように、たとえ私たちの魂に重さがあるとしても、それを測ることはできない。だから全てのガラスの棺の実験は---それらは多くの場所で行われたが---無益だとわかった。

 死体の重さを測ることは別として、ガラスの棺の実験には、達成するためのもうひとつの目的がある。それは、瀕死の身体を去った後の人の魂は---もし彼にひとつあるのなら---密封の棺から抜け出して、このようないくつかの穴、または隙間を棺に残す、と考えられた。だが何もそんな類のことは起こらなかった。日光のように、魂はガラスの壁を、それを壊すことなく通り抜けることができる。もしもエックス線が骨と鋼の厚い壁を通り抜けることができるのなら、なぜ人間の魂はガラスの棺を通り抜けられない? そこで論理的に話すことは困難ではない。

 そして重さは相対的なものだ。私たちが重さと呼んでいるものは、本当に何かの上の重力の圧力だ。もしあなたの体重がここで120ポンド(54kg)あって、そして月に飛ばされるなら、あなたの重さは同じままではないだろう。それはここより8分の1になる。あなたの120ポンドはほんの15ポンドに減る。月の引力は地球のそれよりも8分の1だ。このため、もしここで5フィート高く飛ぶことができるなら、月の表面上では40フィート高く飛ぶことができる。言い換えれば、重さとは地球の引力以外の何でもない。そして地球が人間の魂を地上に引き寄せることができない、ということはありえる。おそらく、引力の法則は魂には適用しない。したがって魂には全く重さがない。もし私たちが引力のない空間を作ることができるなら、その空間の中のあらゆるものには重さがない。

 初めて月に降りた人々の、最初で最も恐ろしい体験は無重力状態のものだった。人が地球の重力場を超えて進むとすぐに、空間の200マイル上に達するところでは、彼は全く重さがなくなる。空間を通って突進する宇宙船の中のあらゆる宇宙飛行士は、自分自身を座席に縛り付けておかなければならない。そうしなければ、彼は宇宙船の天辺へ、風船のように飛んでゆくだろう。

 だから物の重さは多くの物と関係する。そして魂に重さがないということはまさにありえる。このため、パリやその他のところで行われた実験は失敗する運命にあった。私が見たところでは、引力の引っ張る力は、ただその物質の密度に比例して、密度が少なくなれば重さは少なくなる、ということになる。魂に関する限り、それは密度の末端の部分だ。それは全て稀なものだ。そしてそのために引力の法則は影響を及ぼすのをやめる。魂はまったくこの法則の管轄外にある。私たちが物質の道具で魂の問題を調べ続ける限り、科学はその存在を否定し続けるだろう。私たちには、魂の法則を発見するために、全く新しい研究の道具が必要だ。心霊協会と、ライン、メイヤー、そしてロッジのような、私が少し前に話した超心理学の開拓者たちは、自然科学の確立した道具の代わりにそのような新しい道具を考案することに従事している。そしておそらく彼らの助力で科学は、どんな証拠をもってしても証明できない神秘家の洞察を確証するだろう。



 質問者: あなたは、アルジュナはクリシュナに明け渡したと言いましたが、それでも彼は、同様にヴィヴェーカーナンダがラーマクリシュナに明け渡したことについてもあなたが言ったような、自由な個人であったのでしょうか? なぜ彼は光明を得られなかったのでしょうか?


それには理由がある。
 ラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダの関係は基本的にマスターと弟子の関係だ。それはクリシュナとアルジュナの関係と同じではない。二番目に、クリシュナは、自分のメッセージを世界へ広く伝えることができるような方法で、アルジュナを準備しようとしているのではない。彼の教えの全てはアルジュナの成長のためのものであり、そしてもっぱら彼に対して話かけられたものだ。他方、ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダが全世界への彼のメッセンジャーであることを望む。

 クリシュナは、彼のアルジュナとの対話がバガヴァッド・ギータに変わろうとしていることに気づいていない。それがその方向に変わったのは偶然だ。それは、彼ら二人がクルクシェートラの戦場に立っている間の、クリクュナのアルジュナとの自発的な議論だ。彼は自分の言っていることが、来る世紀に、何世紀もの間議論されるほど意義深いものであろうとしているとは知らない。それらはアルジュナ一人のため、彼のスピリチュアルな変容のためのものだ。それらはもっぱら親しい友人にとって意味のある非常に個人的な会話だ。私自身の経験では、あらゆる意義深くて重大な知恵の言葉は、個人的な対話を経て生まれてきた、と言える。書く人は、話す人が為すその深さには決して触れることはできない。知恵の世界の中で最高のものは全て、書かれたものではなく、話されたものだ。

 今朝私が言ったように、オーロビンドの全ての言葉は彼によって書かれた。彼は何も話さなかった。それどころか、クリシュナやキリスト、仏陀やマハヴィーラ、ラーマやクリシュナムルティは、口伝えであらゆることを言った。話すことは個人的だ。それはある人ともう一人の人との間のものだ。それには親密な要素がある。書くことは、人が手紙を書く時を除いて、非個人的なものだ。それは未知で抽象的な読者に宛てられたものだ。クリシュナはアルジュナに直接伝達している。それは二人の友人の間の親密な対話だ。彼らの間に第三者はいない。

 ラーマクリシュナの場合は非常に違う。そしてそれには理由がある。

 ラーマクリシュナは超意識に、サマーディに到達していた。彼は真理を体験していたが、彼の困難は、彼に知ったものを他人に伝達する能力が不足していたことだ。彼は、彼の媒体として仕えて、彼のメッセージを世界に広く伝えることができる誰かを捜していた。彼は真理を知っていたが、それを伝達できなかった。彼は無学で、ベンガル小学校でほとんど二つの学年も経験しなかった。

 この素朴な村人たちは彼とともに偉大な宝を持っていたが、彼はそれを世界と分かち合う方法を知らなかった。彼は明晰ではなかった。言語が全く欠けていた。私たちに入手できる彼の言ったことは、非常に編集されている。なぜならそれは無教育の田舎の男が言ったことで、彼の元々の話しぶりは自然だが粗野で荒々しく、四文字言葉でいっぱいだった。彼の名言集を準備した人々は、彼らが粗野で低俗であると考えたものはすべて抹消して、それをほとんど書き直した。私は彼らが正しいことをしたとは思えない。彼らは真正のレポートを作るべきだった。それは彼が言ってきたことと同じくらい正確であるべきだ。彼が罵りの言葉を自由に使ったのは本当だが、罵りの言葉の何が間違っている? それらはそこに在るべきだ。しかし彼の弟子たちは彼らのマスターを紹介することに決めた。パラマハンサとして知られた人を、ほんとうに無垢な状態に達した人を、洗練された教師として---。だから彼らは彼の声明の多くを取り除いたのだった。

 けれども、ラーマクリシュナには彼の代弁者となれる誰かが必要だった。だからヴィヴェーカーナンダが彼のところに来た時、彼はヴィヴェーカーナンダを自分の手段として使うことに決めた。ラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダの生の中に、彼らの関係に光を照らす小さな出来事がある。そして私はここでそれに関連させたい。

 ヴィヴェーカーナンダはかつてラーマクリシュナに、自分は超意識かサーマディの体験を持ちたい、と言ったことがある。ラーマクリシュナは必要なテクニックと、その修行を通して彼に道すじ(ガイド)を説明した。ラーマクリシュナは、彼の存在そのものがヴィヴェーカーナンダにサマーディのプロセスを誘発することができるほどの偉大な成就のマスターだった。彼は、ちょっと彼の手に触れることで、ヴィヴェーカーナンダを深いサーマディの状態にならせたほどダイナミックだった。あなたは、ヴィヴェーカーナンダが彼の最初の超意識の体験の後、何をしたか知っているだろうか?

 ラーマクリシュナのアシュラムにひとりの男がいた。彼はカローとして知られていた。彼はベンガルのある田舎から来て、ダクシネシュワラーの寺院の近くの小さな小屋に住んでいた。彼は非常に率直で、単純で無垢な人物だった。カローのような単純で無垢な人々が、その土地に住んでいる限り、そのときだけ寺院は寺院のままに残る。利口でずる賢い人々が入ってきて、そこに住む日、その美しさ、その神性さ、その栄光は破壊される。

 カローは神と女神の膨大な数の像を収集した。それをどこで見つけようと、彼はそれを自分の部屋に持ってきて、そして祭壇にそれを置いた。それらは、彼の小さな部屋の利用可能な空間の隅から隅までを占有したほど多く、彼自身が開放的な空の下で眠らなければならなかったほど多かった。これは神への道だ。神はカローの近くに来る人の空間を全て占有した。彼はすぐに自分自身の家から自分を追い出した。カローには何か別のことのための時間がなかった。朝から夕方まで彼はそれらに礼拝し続けた。

 堅固な合理主義者の素養で教育を受けたヴィヴェーカーナンダは、カローのこのような正統派的信仰ではなかった。彼は、神と女神の荒削りの像をガンジス川に放り込んで、それらを処分するように、カローにしばしば勧めた。ヴィヴェーカーナンダは、神は無形で、遍在するものであると、そして像という媒体とその儀式を通して神を礼拝することは愚かである、と信じていた。彼はカローにしばしば、不毛な儀式で時間とエネルギーを浪費している、と言った。だがカローは笑って言った。「おそらくあなたは正しいです、が、初めに私に彼らを礼拝させてください。彼らは私を待っているに違いありません。もし他の人々が別のことで彼らの時間を浪費しているのなら、私の神と女神で私の時間を浪費させてください。彼らはとても素敵で美しいですよ。」

 ヴィヴェーカーナンダが最初のサーマディを達成した時、それは彼を奇妙で強力なエネルギーで溢れさせた。もしエクスタシーのこの瞬間に彼が、カローの多くの役に立たない神や女神を捨てるようにとテレパシーでメッセージをカローに送るなら、カローはそれに抵抗しないだろう、という考えが彼の心(マインド)に浮かんだ。ヴィヴェーカーナンダがこのように考えた瞬間、カローは自分の部屋に座ってこのメッセージを受け取り、そして心底問題なくそれに従った。彼は自分の全ての神と女神を束ね、聖なる川の中へ溺死させるために、それらをバッグの中に入れてガンジス川沿いへ出発した。

 ヴィヴェーカーナンダは、ただそれを考えただけだったが、それは働き始めた。--- それがカローにメッセージとしいう形で適切に送られる前であっても。だから賢者たちは、そのようなエネルギー、そのような力は使うべきではない、でなければそれは探求者を傷つけ、彼の進歩を妨げるだろう、と言うのだ。彼らはその使用を厳しく禁じる。探求者はそれが現われるのをただ許し、そしてそれを見守らなければならない。それを使うには余りある。だがヴィヴェーカーナンダは別の方法でやった。そして彼はかわいそうなカローですぐに成功した。彼の理路整然として論理的な議論にもかかわらず、説得することにとても長い間失敗した相手に対して・・・。彼が直接的に成し遂げられなかったことを、彼は途方もない瞑想的な力が利用できるようになった時に、裏口を通して成し遂げた。

 ヴィヴェーカーナンダがカローのことを考えた時、彼は自分の神たちで忙しかった。そして突然、わけもわからず彼は自分の礼拝を止め、全ての像をバッグに押し込めて、ガンジス川へ移動した。ラーマクリシュナは彼の家の屋根に覆われた玄関で、ガンジス川に向かって座っていた。そして彼の目がカローをふと見つけた。彼はカローを呼んで尋ねた。「何事だ?カロー」

 自分のバッグを指して、カローは言った。「これらは良くない。俺はこれらをガンジス川に引き渡すつもりだ。」

 ラーマクリシュナはこう言って彼を叱った。「お前の部屋に戻ってこれらを全てその場所に置きなさい。わしは誰がお前を通して話しているのか知っている。わしはその悪党を叱るつもりだ。」

 ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダのところへ駆けつけて、彼の身体をつかんで揺すり、そして言った。「これはお前の最後のサマーディだ。お前はもはやそれを持つことにはならない。わしは自分の手にお前のサマーディの鍵を取っておくつもりだ。お前の死のただ3日前にそれはお前に向けられるだろう。」

 ヴィヴェーカーナンダはショックを受け、わっと泣き出した。「どうか、私のサマーディを私から奪わないでください。」だがラーマクリシュナは毅然として言った。「お前にはするべき大きな仕事がある。お前はわしの道具となり、世界へのわしのメッセンジャーとなるのだ。もしお前がサマーディに入るなら、お前は戻って来ることができないだろう。そして大きな仕事は好ましくない状態になるだろう。わしが知ったものは地球のあらゆる隅々に届かなければならない。利己的であってはいけない。お前の愛着をあきらめなさい。そしてお前のサマーディに憧れてはいけない。お前は、何百万人もの渇望する探求者たちを世界中から保護する巨大な寺院を建設しなければならない。だからわしはお前のサマーディの鍵を取り上げているのだ。」

 この鍵はラーマクリシュナによって残された。そしてヴィヴェーカーナンダは、彼の死ぬ3日前に、約束通りそれを返された。彼が二回目のサマーディを得たのは、彼がこの世界を去るほんの3日前だった。だがもしも誰か別の人があなたのサマーディの鍵を保持するのなら、それはただ精神的な、深い心理的なサマーディだけのものという意味で、十分に疑う余地のない体験という意味ではない。別の人に依存したサマーディ、超意識は本物でも究極のものでもない。それはマインドを超越してはいない。カローに彼の像と訣別するように考えさせたサマーディは、深い精神霊的(スピリチュアル)なものであるとは言えない。それは心的(メンタル)なものだ。もちろん、ヴィヴェーカーナンダは彼の身体を超越したが、彼はまだ魂を得ていなかった。そしてラーマクリシュナは彼をそこに止めなければならなかった。なぜなら、もしヴィヴェーカーナンダがその中へより深く入って行ったなら、彼は任命された仕事を果たすことはできなかっただろうと、ラーマクリシュナは考えたからだ。

 世界がラーマクリシュナを知るようになったのは、ヴィヴェーカーナンダを通してだ。しかしヴィヴェーカーナンダは多くを犠牲にしなければならなかった。けれども、そのような犠牲にはその価値がある。そしてそれは非常に意味深い。ラーマクリシュナは、彼の更なる前進を故意に止めなければならなかった。なぜならもしヴィヴェーカーナンダがサマーディの霊的な状態を超越するなら、彼はラーマクリシュナの手段になることができなかったからだ。ラーマクリシュナはそれを表現するための知恵と技量を持つ仏陀のようではなかった。ラーマクリシュナは仏陀が持っていたのと同じ知恵に達していたが、彼は明晰ではなかった。だから彼は世界へのその伝達のためにヴィヴェーカーナンダに頼らなければならなかった。

 ヴィヴェーカーナンダが彼のマスターの手の手段であったことは真実だが、これはアルジュナのケースではない。クリシュナは彼を手段にしようとはしていない。彼はただ自分の知恵をクルクシェートラに立っているアルジュナに注いでいるだけだ。







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第15章:死後の生と生まれ変わり 

2012年5月1日翻訳完了

1970年10月2日講話
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