1931年12月11日 インド中部のマディア・プラデッシュ州クチワダで、ラジニーシ・チャンドラ・モハンとして生まれる。
家系はジャイナ教のディガンバラ派に属していた。
母方の祖父と共にティマルニに移る。
1939年 ・・・ ガダルワラの両親の家に移る。 幼年時代からすでに、霊的精神的探求が始まっていた。
1946年 ・・・ 14歳 ; うず巻きガートのそばの寺院で最初の悟りが起こる
あらゆる問題についての書物を熱心に読む。瞑想における試みやあらゆる常軌を逸したふるまい。
無神論的な態度、社会主義への短期間の関心、あらゆるものへの問いかけ。
1947年 ・・・ 困難で驚くような多くの体験と未知の覚醒状態が始まる。
少年時代の恋人、シャシ死去。
1951年 ・・・ ジャバルプールのヒトゥカリニ大学に入学。
その後、大学を変わり、少年時代以来の反逆児として、既成の社会、制度、学問、モラルなどに反逆。
1952年 ・・・ 第二の悟りが、ジャバルプールにて樹の上で瞑想しているあいだに起こる。
肉体離脱における6ヶ月間の試み。
この頃彼は、毎朝毎夕、5マイルから8マイルほど走りつづけたという。
1953年 3月21日午前2時 21歳 ; ジャバルプールのバンヴォルタール園のマウルシュリー樹のもとに坐しているとき、光明を得る。
光明を得た時
1955年 ・・・ D・N・ジャイナ大学の哲学科を卒業。ついで、修士課程のためサガール大学に入学。
タマス・グナ、非行為と惰性の時期に深く没頭する。
1956年 ・・・ 哲学科での第一級の栄誉とともにサガールの大学から博士号を受理する。 彼は全インド討論会のチャンピオンであり、彼の卒業クラスにおいて金メダル勝者だった。
1957年 ・・・ ライプール・サンスクリット・カレッジの講師をつとめる。
1958年: ・・・ 彼はジャバルプールの大学で哲学の教授に任命され、そこで1966年まで教える。
力強くて情熱的な論客である彼はまたインドを広く旅もして、多数の聴衆に話し、公の討論会で正統な宗教指導者たちに挑戦する。
1960年 ・・・ ラジャス・グナと新しい火のようなエネルギーの上昇。 これは、インド全国を巡る旅と講話の始まりを告げる。
1964年 ・・・ 6月、最初の瞑想キャンプがラジャスタン州で10日間にわたり行われる。
1966年 ・・・ 9年間の教鞭の後、人間の意識を高めることへ自分自身を全て捧げるために、彼は大学を去る。 2年間の激しい旅と講話。アチャリヤ・ラジニーシと称される。
年に4回、高原避暑地で定期的に彼は10日間の強烈な瞑想キャンプを催す。「ダイナミック瞑想」を導入する。
1968年 ・・・ 2年にわたって弟子たちを招き終え、少数の弟子たちと共にムンバイに落ち着く。
1969年 ・・・ カシミールでマハリシ・マヘッシ・ヨーギの西洋人信者との対話
-- Early Talks 7章 (最初の西洋人への、大聴衆に対する長時間の語りかけ)
1970年 ・・・ 人々にネオ・サニヤスを授けはじめる。イニシエーションの始まり。
1971年 ・・・ 5月 アチャリヤ(教師)と呼ばれていた時代が終わり、バグワン(世尊、祝福されし者)と呼ばれはじめる。
西洋から最初の探求者たちが到着。バグワンの名が世界中にひろがり始める。
1970年〜1974年 ・・・ インド中で強烈な瞑想キャンプがますますさかんに行なわれる。
○カシミール瞑想キャンプ -- 1969年9月17日-30日
○ラジャスタン、マウント・アブ瞑想キャンプ
1971年 9月25日-10月 2日、 1972年 3月25日- 4月 2日、10月13日-21日
1973年 7月 8日-16日、 1974年 1月11日-19日
○マテラン瞑想キャンプ -- 1972年 1月8日-16日
○アナンド・シーラ瞑想キャンプ (ムンバイ) -- 1973年 2月9日-27日
たくさんの新しいテクニックが開発される。ムンバイで大聴衆を前に講話が行なわれる。
Osho Conducting Meditation Camp in Pune-1972...
だが、ラジャス・エネルギーが最終的に絶えたために、少しずつ公的生活から身を引き始める。
Osho 1972
Birthday
Osho---この頃はバグワン・シュリ・ラジニーシと呼ばれていた---は、探求者たちをネオ・サニヤス、または弟子という関係に、世界や他の何かを放棄することに巻き込まれない自己探求または瞑想に関与する道に加入(イニシエート)させ始める。 彼はラジャスタンのマウント・アブで瞑想キャンプを開催し続けるが、国の至る所で話すようにという勧誘の受け入れを止める。 彼は自分の周りにサニヤシンの集団を敏速に拡大させることへ自分のエネルギーを全て捧げる。 この頃、最初の西洋人たちが到着し始め、ネオ・サニヤスに加入する。
彼らの間ではヨーロッパや米国での人間性回復運動からの精神療法が指導され、彼ら自身の内的な成長における次の段階を探していた。 Oshoと共にあることで彼らは、東洋の知恵と西洋の科学を統合した現代人のための新しくて独特な瞑想テクニックを体験する。
第一期プネー
これらの7年の間、彼はヒンディー語と英語の講話を毎月交互に毎朝ほぼ90分間ほど行う。
彼の講話は、ヨーガ、禅、タオイズム、タントラ、そしてスーフィズムを含む全ての主要なスピリチュアルな道に対する洞察を提供する。
彼はゴータマ・ブッダ、イエス、老子、そして他の神秘家たちについても話す。これらの講話は600冊以上の本に集められていて、50ヶ国の言語に翻訳されている。
夕方、これらの年月の間に、彼は愛、嫉妬、瞑想のような個人的な問題に関する質問に答える。これらのダルシャンは64冊のダルシャン日誌に編集され、その内の40冊が出版されている。 この頃Oshoの周りに現れたコミューンは、東洋の瞑想テクニックを西洋の心理療法と組み合わせた広く多様なセラピー・グループを提供している。
世界中からセラピストたちが引き寄せられ、1980年までの間に国際的な共同体は「世界で最も優れた成長とセラピーのセンター」という名声を博している。およそ10万人の人々が毎年その門を通過する。
1974年 ・・・ 3月、ムンバイからプネー・アシュラムに移る。
Poona Ashram in the 70s
3月21日、21回目の<光明>記念日にシュリ・ラジニーシ・アシュラム開設。
4月、プネーでの最初の講話「Gita Darshan」始まる。ヒンディー語で題材は「バガヴァッド・ギーター」。
5月、英語の初講話「マイ・ウェイ」開始。
8月、セラピー・グループ始まる。
1976年 ・・・ 日本語最初の翻訳講話「存在の詩」発刊
1979年 ・・・ エナジー・ダルシャン開始。
9月8日、OSHOの父、スワミ・デーヴァティルタ・バルティ、光明を得て、肉体を離れる。
1980年 ・・・ 5月、狂信的ヒンドゥー教徒によるOSHO暗殺未遂事件が起こる。
1981年 ・・・ 1月9日、スワミ・アナンド・ヴィマールキィルティ(ハノーヴァー元王子)、光明を得る。翌日肉体を離れる。
1981年3月、ほぼ15年間行われた毎日の講話の後、Oshoは3年の期間、自ら課した公的な沈黙を始める。 緊急手術のために必要な可能性を考慮し、彼の個人的な医師の勧告をふまえて、彼は米国へ旅立つ。 同じ年、彼のアメリカの弟子たちはオレゴンで64,000エーカーの牧場を購入し、そこへ訪れるように彼を招待する。 結局彼は米国に滞在することに同意する。
3月23日、第一期プネー時代最後のダルシャン。
5月1日、OSHO、沈黙に入る。サットサング開始。音楽と沈黙の瞑想が続く。
アメリカ・オレゴン州ラジニーシ・プーラム
6月1日、インドを離れ、アメリカ・ニュージャージー州に滞在。
8月29日、ニュージャージー州からオレゴン州へ向かう。ラジニーシ・プーラムの建設。
オレゴン・コミューン、ロールスロイス、シーラなどについて
以降、毎年夏にワールド・セレブレーションが催され、世界中から弟子たちが集う。
1982年 ・・・ 10月、オレゴン州ポートランド移民局に、宗教指導者として米国における永住を申請。
後日、拒否される。
1984年 ・・・ 10月30日、OSHO、沈黙を解く。自分の邸宅の中で、選ばれた小数のグループに対して話し始める。
1985年 ・・・ 7月、ラジニーシ・マンディールで何千人という探求者たちに対して、毎朝、公開の講話を始める。
9月14日、OSHOの個人秘書とコミューンの管理を任されていた何人かのメンバーが突然立ち去る。
10月29日、OSHO、ノースカロライナ州のシャーロットで逮捕状なしに逮捕される。
11月14日、アメリカより国外退去を命じられる。私用ジェット機で12人のサニヤシンと共にインドへ飛ぶ。
ニューデリー到着。そこからヒマラヤ山中へ行く。2週間後、オレゴンのコミューンは解散を決定する。
ワールド・ツアー
1986年 ・・・ 1月3日、 ネパール・カトマンズに移る。
2月16日、30日間の観光ヴィザでギリシャ・クレタ島に移る。
3月5日、警察、別荘に乱入。逮捕状なしにOSHOを逮捕し、アテネに移送する。
スイス、スウェーデン、イギリス、アイルランドなどを経て、世界各国へ向かうがどこででも入国拒否に遭う。
3月19日、ダカール経由でウルグアイのモンテビデオへ飛ぶ。
6月19日、ウルグァイを去る。
6月20日、ジャマイカ。 スペイン、マドリッド。
OSHO、光明を超越、新境地に入る。
7月21日、仏陀と融合
7月30日、インド・ムンバイに到着。
9月22日、OSHOとスワミ・ゴヴィンド・シッダールタ、沈黙の深い感応交流。シッダールタ、光明を得る。
第二期プネー
1987年 ・・・ 1月 4日、インド・プネーのアシュラムに戻る。
9月、OSHO、毒薬と放射能による症状悪化。講話を休み、療養に入る。
10月、サニヤシンに赤い服とマラを身につける必要はない、と告げる。
1987年2月〜1988年4月:ミスティック・スクール講話シリーズ
1988年 ・・・ 12月26日、「バグワン」という名称を棄てる。
OSHOの肉体にゴータマ・ブッダとマイトレーヤ・ザ・ブッダ(弥勒仏)が入る。
12月30日、ゴータマ・ブッダ、OSHOの生き方と折り合わず、OSHOの肉体を去る。
名前を「シュリ・ラジニーシ・ゾルバ・ザ・ブッダ」と宣言する。
1989年 ・・・ 2月27日、名前を「和尚ラジニーシ」とする。
5月、 名前を「和尚」とする。
12月: インナー・サークル設立 21人のメンバーは・・・
スワミ・アムリット、 スワミ・アミターブ、 スワミ・ジャイエッシュ、 スワミ・タターガット
ジャヤンティーバイ(スワミ・サティヤ・ボディサットヴァ)、 スワミ・ヨギ
スワミ・チテン、 スワミ・プロティヌス、 スワミ・プラサド、 スワミ・サティヤ・ヴェーダント
マ・アナーシャ、 マ・アナンド、 マ・アヴィルバヴァ、 マ・ガリモ、
マ・ハシャ、 マ・カヴィーシャ、 マ・ムクタ、 マ・ニーラム、
マ・ニルヴァーノ (元ヴィヴェック)、 マ・トゥリヤ、 マ・ザリーン
1990年 ・・・ 1月19日、彼の脈拍は不規則になる。彼の医師が心臓蘇生術を準備するべきかどうかと尋ねた時、
Oshoは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める。」と言う。
彼は午後5時に肉体を離れる。59歳
2日後、彼の遺灰はOshoコミューン・インターナショナルに持って来られてチャン・ツー・オーデトリアム(荘子講堂)にある彼のサマーディに、次の碑文とともに安置される。
Osho
決して生まれることなく、
決して死ぬことなく、
1931年12月11日から1990年1月19日の間、
ただこの惑星地球を訪れた。
1991年 ・・・ Oshoインターナショナル・ファンデーション OIF 発足 (非公認)。発足者:
スワミ・ジャイエッシュ、スワミ・ムケシュ、スワミ・アムリット
インナー・サークルから4人が離脱。 マ・アヴィルバヴァ、マ・ハシャ、マ・カヴィーシャ、スワミ・ヨギ。
このメンバーは後にセドナのOshoアカデミーを作る。
1994年 ・・・ Oshoアーカイブ
1997年 ・・・ 5月17日、Oshoの母、マ・アムリット・サラスワティ、光明を得て肉体を離れる。
2000年7月: ・・・ Oshoドメイン裁判-- Oshoworldというインド人達がやってるホームページに対して、Oshoという名前(ドメインネーム)を使うなと、
OIF和尚インターナショナルファウンデーションが裁判を仕掛けて、2000年7月OIFが敗訴した。
インナー・サークルからアナンド、ムクタが離脱。
2001年 ・・・ インナー・サークルからニーラムが離脱。 -- デリーにOSHO WORLDサイト設立 対立の一因は「新しい瞑想ホール」の建築に関するもの。
2004年頃よりOIFに対する抗議のメッセージが起こる。 この頃、サマディが壊される。この頃からアシュラムはリゾート色が強くなったものと思われる。
2010年2月14日 ・・・ プネーのジャーマン・ベーカリー爆破事件。死者9人、負傷者45人。
2021年3月 ・・・ アシュラム売却問題が起こる。〜 Osho日記 2021年4月28日