もともと三輪山の頂上には神日向神社(みわのひむかい)という神社があった。延喜式内社であり、明治になってから山麓に移され、大礼記念館の南に鎮座している。日向という社名から太陽祭祀、日の神を祭る祭祀にかかわる神社であったと見ることができる。6世紀には太陽祭祀の祭場が、伊勢の地に移される。
元来、三輪山の神は自然神であり、黒雲を呼び雨を降らす雷神という神格を持っていたと思われる。雨の神、雷神であった神が、大和王権によってまつられ、王権の守護神となり、軍神として各地に分祠されていき、さらに三輪山の神が人格神
- 大物主神となっていく。
また、三輪山の神はオロチ、大蛇の姿をしていたという伝承もある。蛇体は龍神、雷神とも関連していく。
三輪山は、はるか縄文期にさかのぼる古代斎場である初瀬上郷、纒向(マキムク)の穴師を背後にした、水と日の信仰の聖地であり、国つ神大物主櫛ミカ玉の交霊の山だった。
孝霊天皇と、オオヤマトクニアレヒメの女で、崇神の大叔母にあたる倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)を、「日本書紀」は、「聡明叡智、よく未然を識りたまえり」と記しているが、またの名、倭迹迹速神浅茅原目妙姫(やまとととはやかんあさじはらまぐわしひめ)と呼ばれるように、三輪西麓の浅茅原で、鳥のようにいちはやく神と交霊した、霊魂知りびとであり、農耕にたいせつな太陽と月のめぐりの観測にもすぐれていた。
倭迹迹日百襲姫 -- 箸墓古墳 神御前神社
この意富多多泥古と言う人を大物主大神の子と知った理由はこうである。
上に述べた活玉依毘売は、その容姿が整って美しかった。 そこに一人の若者がいて、その容姿や身なりは他に比べるものがなかった。その若者が夜中に、突然姫のもとへやって来た。 そして互いに愛し合って、結婚して住んでいる間に、まだ時間も経っていないのに、その乙女は身ごもった。
そこで両親は、その身ごもった事を不審に思い、その娘に尋ねて、「お前はひとりでに身ごもっている。 夫もいないのに、どういうわけでみごもったのか。」と言った。
娘は答えて、「麗美(うるわ)しき若者がいて、その姓名は知りませんが、夜毎にやって来て、ともに暮らしている間に、自然と身ごもりました」
それを聞いてその両親は、その男の素性を知りたいと思い、娘に言った。
「赤土(はに)を床の前に散らし、閇蘇紡麻(へそうみお:つむいだ麻糸をつないで、環状に幾重にも巻いたもの)を針に通し、その男の着物の襴(すそ)に刺しなさい」
そこで娘は教えられた通りにして、翌朝見てみると、針に著けた麻糸は、戸の鍵穴から抜け通って出て、残っている麻糸は、糸巻にただ三巻だけだった。 それで、即座に、男が鍵穴から出て行ったということを知って、糸を頼りにたどって行くと、三輪山に着いて神の社のところで終っていた。 こうして、その神の子と知ったのである。
そして、その麻糸が糸巻に三巻残っていたことによって、その地を名付けて三輪と言うのである。
2007年9月9日
三輪山