古い街並

 屋号を「紙八」といい、江戸末期から明治初年にこの家に移り住んだ。元は材木商で金融業の牧村家の所有で「西の木屋」と呼ばれ、大名に貸し付けを行い福井藩の蔵元を務め高取藩に融資し重臣の待遇まで受けていたほどの豪商だった。
 しかし、明治維新後の廃藩置県により貸付金が凍結し、今井を離れざるを得なかった。なお大阪府堺市の大仙公園にある今井宗久ゆかりの茶室「黄梅庵」は、もと牧村家所有の茶室を電力王といわれた松永安左エ門が買受、小田原に移築したものを松永家が堺市に寄附したものである。
 この茶室は秀吉公の吉野山花見に設けられ「宗久茶屋」と称せられた。住宅は寛文2年(1662年)の建築で今井町では、今西家に次いで古い。昭和47年(1972年)5月15日重文指定。
屋号を「米彦」といい、米屋を営んでいた。建築年は分からないものの、寛廷元年(1748年)の絵図に描かれていることから、当時すでに住居を構えていたことがわかる。宝暦11年(1761年)には南町組頭を務めていた。昭和47年(1972年)5月15日重文指定。
屋号を「上品寺屋」といい、寛永年間に上品寺村(橿原市上品寺町)から移住した。家蔵文書によると明和9年(1772年)には既に酒を造っており、今なお酒造業を営んでいる。18世紀後半の建築。昭和51年(1976年)5月20日重文指定

称念寺

今井町の成立は戦国の世、天文年間(1532-1555)この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって寺内町を建設されたことに発する。
一向宗の門徒が、今井に御坊(称念寺)を開き、自衛上武力を養い、濠をめぐらし、都市計画を実施した。

称念寺を中心とした寺内町今井は完全な城塞都市で、江戸時代初期の概略を考えると、東西600m、南北310m、周囲には環濠士居を築いた戸数1100軒、人口約4,000数百人を擁する財力豊かな町であった。町割りは西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、9つの門からは本橋を通って濠を渡り、外部の道路と連絡している。内部の道路で見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてある。これは、敵の侵入に備えて、その遠見、見通し、弓矢・鉄砲の射通しを不可能にしたものであった。これらは当初、軍事目的のためにつくられたものであるが、江戸時代中期は富裕な商人の生命、財産等を外部から守るというものに変貌した。

1662年

18世紀後半

18世紀後半

中橋家

豊田家

河合家

2009年4月18日

河合家

河合家

中橋家

豊田家

西口門跡

旧環濠

近鉄八木西口駅

北口門跡

今井町

★地図

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