4月8日

 リストラされて4年〜 もちろん、当時は不況でリストラされたわけだが・・・ 今はまた景気が良くなっているらしい。
どうなっていることやら、昔の会社は・・・ 残っている人たちは、ほとんど定年を過ぎた人ばかり。ここ数年で65歳を迎える人たちばかり・・・
まあ、絶対に戻りたくないけれど、ひどい人間関係だったから、よくぞリストラしてくれた、と、今では感謝している。
昔の会社、どうでもいいはずが、それでもちょくちょく気になる・・・ 25年間働いたせいだろうな。
新人が簡単に覚えられる類の仕事ではないからな・・・ 多種類に渡っているから・・・ 今頃、どうなっていることやら、

でも、本当に、辞めてよかった。

ヴィパッサナ瞑想から感じたこと〜
  昨年10月より過去の浄化が続く。全てがデタラメに見える。全てへの不信。
  親への怒り。友人への怒り。自分を信じられなかったことへの悔しさ。
  ここ数日間、その浄化作用は静まる。2月〜3月頃より自分を受け入れられるようになる。   
  他人からの批判を捨て始める。始めて1年二ヶ月経つ。今日の瞑想の心境・自己から分離する感覚。







4月26日

ヴィパッサナ瞑想から感じたこと〜
  子供時代の母親への恐怖を思い出す。母親の機嫌を損なわないように生きていたこと。
  母親の機嫌がいいと家庭は平和、機嫌が悪いと地獄、母親の気分が全てを決めていた。
  子供は親に逆らえない。母親の気分に合わせて生きることが必要になっていった。
  それから、他人に合わせて生きるように、他人に気を使うことで生きるようになっていった。
  基本は、ただ、他人が怖かった。







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5月20日

☆思うところ・・・失ったものを取り戻したい---レコード、本、自分の絵、自分の漫画。
上位の者からの批判の声から解放されること---全て血液型A型の年上。 もともと、野心はなく、エゴは弱く、生きる欲望は弱かった。生きる意味がわからなかった。

現在の生活はある意味恵まれていて、幸せでもあろう。それは、まず、働かずに生活できるから、嫌な人間と会わずに済むから、親の介護の必要がないから、誰かを扶養する義務がないから、一応健康だから、衣食住に事足りているから、やりたい事・やりがいの仕事があるから、世俗的・外的なことに興味がなくなっているので、自分の世界に没頭できるから---- 父親への怒り・恨みはまだ根強い。過去からの解放が課題。
      
☆やりたい事・・・インドの聖地廻りと写真撮影。Oshoの本の翻訳をできるだけ多くする。 エソテリック(秘教的)知識のまとめ。インドの霊的歴史をふまえた歴史物語を作る。 薩南血涙史の現代語訳。






5月23日

 往々にして、自分が捨てた自分の過去の作品を惜しく感じる時がある。残っていればそれはそれで見たくもない物でもある。 だから捨てたのだが、その自分の行為に後悔するところに自己分裂がある。

 自己否定、自己卑下で生きていた要因が大きい。失敗だらけの人生と言える。 翻訳に没頭させるのも、そんな自分の穴を埋めるためとも言える。
 自分をようやく受け入れるようになったのも、「知恵の書」を訳した中での自己検証と去年の2月から始めているヴィパッサナ瞑想によるもので、本当にここ1〜2年のこと。58年生きてきて、ようやくだ。

 自分の人生が、スピリチュアルの言うように、あらかじめ予定されていた通りのものであるのか、自らの失敗・愚かさから生きてしまったのか、真実はわからない。 確かに、もっと安全・確実に、無難にうまく生きられたのかもしれない。だがそれだと現在の自分が感じている人生観を持つことはできただろうか? ただ、その瞬間としては、そのようにしか生きられなかった、ということだ。

 そして現在は、全く問題なく、平穏に生きられている。そして生きる指針・目的がある。これは、自分の人生はうまくいった、ということなのだろうか・・・・?
      
Oshoの翻訳にしても、「知恵の書」「トランスミッション〜」「超越の訓練」「And Now, And Here」 そして現在の「The Long〜」は、その内容が驚くほど自分の心境の変化と向上に役立っている。不思議とシンクロしている。これは何かに導かれているとしか言えないような感覚を覚える。自分が選ぶものに間違いはない、という自己信頼を強めるべきなのだろう。

 ずいぶん前から両手に太陽線が現われてきている。しかも覇王線らしく見える。手相的にかなりの恵まれた運のいい徴らしいが、現在の実生活では実感できない。平穏であることは事実だが。






5月24日

 Oshoの翻訳の動機の原点はまさに自分がサニヤシンになった頃の混乱と苦悩の時期にある。 当時の翻訳されたOshoの本だけと、数回のグループを経験しただけでサニヤシンになり、何もわからない状態で、他のサニヤシンたちの言動に振り回され、惑わされ、傷つけられた時期だった。
 その頃は瞑想の意味さえわからなかった。他のサニヤシンが自分の体験から、1年以上インドのプーナでOshoと共にいても混乱してわからないというのだから、自分の場合はもっと酷いものだ。

 その頃はまったく自分に対する答えが見つからなかった。まったくの暗闇、四面楚歌、暗中模索、出口無しの状態だった。その時の悔しさから、自分なりのOshoの真の教えを知りたい、ということで翻訳を始めた。そして、いままで訳してきた結果、その当時の自分の感じていたことは全く間違いではなかったこと、他のサニヤシンたちはほとんどOshoを自分勝手に都合よく解釈していたこと、がよくわかった。
 ようやく、自分の原点に戻ることができた、自分を本当に信頼できるようになった、ということだ。







5月25日

Oshoの翻訳「The Long, the Short and the All」が終わる。これは1969年頃の初期の講話で、もともとはヒンディー語で語られたものの英訳書。この本を訳そうと思った動機は、その目次タイトルがシンプルで本質的な項目ばかりだったから。
1 知識と理解、2 真理と科学、3 宗教と教育、4 思考とビジョン、5 生と死、 6 愛と幸福 ・・・となっている。

 Oshoの教えのエッセンス的な本だろうと思って訳し始めたが、予想に反してなかなか手強い本だった。それはヒンディー語の講話によく見られることだが、聴衆がインド人ということもあり、その論調はかなり徹底して論理的でしつこく深い。後の西洋人相手に語られる英語の講話に見られるジョーク話などは一切ない。

 ただ、それ以上に翻訳に戸惑ったのは、pdfファイルの文章でところどころの単語が原書と違っている箇所がかなりあったことだ。
現在、翻訳は一応pdfファイルを基にするようになっているが、とにかく、このpdfファイルに書き写した人はかなり注意力が散漫な人だったのか、集中力が持続しない人だったのかもしれない。
その単語の間違いに気づけたのは、単純に意味が読み取れない文章になっていたからだ。その箇所をいちいち原書と照らし合わせて修正していくのが、けっこうめんどくさかった。

 そして、全6章だが、各章の長さはこれまで訳したOshoの講話の中ではダントツに長い。これでも出版されたら400ページくらいの分量になるだろう。

 ただ、第五章の生と死の内容が、ほとんど先に翻訳した「And Now, And Here 死ぬこと生きること」の内容と同じだったので、その点では新鮮味はなかった。もともとこの本は初期の手紙と講話の編集本らしくて、だからこの章は「死ぬこと〜」からの抜粋であったのだろう。

 それでもやはり全体として、その内容はかなり本質的であり、Oshoの教えのエッセンス的性質を持っていることは間違いない。 これが出版される日はいつになるのだろう・・・・












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